Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

バッシング

2011-03-08 | 日本映画(は行)
★★★★ 2005年/日本 監督/小林政広

「想像のスタートライン」

「誰も守ってくれない」を見て、いい比較になると思い、この作品を思い出しました。あちらで疑問なり、煮え切らないものを持たれた方にお勧めします。本作は一時期社会的にも大きな問題となった、イラク人質事件が題材になっています。ボランティアとしてイラクに赴くも、テロ組織の人質となり、日本政府が身代金を支払うことで解放されたあの事件です。当時「自己責任」という言葉がクローズアップされたことを多くの方が覚えているでしょう。

さて、本作はとても特異な映画です。それは、主人公の境遇が全く説明されないまま、物語が始まるということです。しかも、人質事件以降、ある程度の月日(それも、どれくらい経っているのか全く不明)が経っており、主人公の暮らしも性格も相当すさんでいる。すさみ切っている。のっけから、全く同情できないシチュエーションで物語が進むのです。

マスコミにどんな報道のされ方をしたのか、正義感を気取った大衆がどんな仕打ちをしたのか。彼女自身、どんな思いでイラクに旅立ったのか。映画の中では、全く描かれない。だから、我々は想像するしかないんです。なぜこの女性がこんな風になってしまったのかを。これは、なかなか厳しい作業です。だって、目の前の女性の第一印象は最悪なんですもの。

だからこそ、観客にとっては彼女の来し方を想像しようという意欲を問う踏み絵のような作品。
想像できますか?ではなく、想像しようというスタートラインに立てますか?ということなんですね。

コンビニでぶっきらぼうにおでんを買うシーンが印象的。もし、私が店員ならこんな客には間違いなく不快感を覚えるでしょう。このお客の人生の裏側を想像しようなんて、決して思わないでしょう。だからこのシークエンスは、観客に対する挑戦、問いかけなのです。

マスコミの視点も、大衆の視点も、政府の視点もない。すさんだ環境の中でぶつける先のない怒りと矛盾を己の中に溜め込む女性主人公の日々が淡々と描かれるだけ。その視点の偏りが是か非か、というのは、これはもう、観る人の価値観次第なのですが、彼女の絶望的なまでの人間不信は間違いなく伝わるのです。