【わんちゃんの独り言】

毎日の生活の中で見たこと、聞いたこと、感じたこと、思いついたこと等々書き留めています
(コメント大歓迎デス・・・・・)

~『ちはやぶる』百人一首の名所、竜田川をめぐる~

2024-04-01 | いきいき健康ウォーク
≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫

コース:近鉄新祝園駅→大和西大寺(乗り換え)→生駒(乗り換え)→平群駅(生駒線)
道の駅大和路へぐり⇒竜田公園(昼食)⇒三室山(標高82m)⇒JR・近鉄王寺駅解散(14:30頃解散予定)

平群駅の駅前広場で準備体操後、ウォーキングスタート。
『道の駅大和路へぐり』で休憩。


地元産のお野菜などイチゴもいっぱいありました、美味しそうなイチゴ、「買いたいなぁ」でもでも、ウォーキングイベントにはアカンアカン。
ひときわ目を引いたのが『四天王像・広目天』問い合わせ(奈良県庁観光課)てみたら高さ5mですって。

作者さんは籔内佐斗司 こちら
【竜田公園】でお弁当タイム
斑鳩町の南西部に位置し、竜田川沿い総延長約2km、総面積14haの公園です。
枝が大きく張ってるサンシュユに遭遇、足元にはハナニラ
 


三室山へも行きました、三室山の登り口で。

※①「ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは」
神の時代にも聞いたことがない。竜田川の水を(紅葉葉が)あざやかな紅色にくくり染めにするとは。
百人一首の他に、古今和歌集、伊勢物語にも収録されています。
この歌は在原業平が詠んだ歌です。古今和歌集には、「屏風に描かれた、竜田川に紅葉が流れている様子を題材に詠んだ歌」と但し 書きがあります。一方で伊勢物語には、「竜田川に出かけていって実際に景色を見て詠んだ歌」とも書かれています。
※②「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は 竜田の川の錦なりけり」
烈しい嵐が吹き散らした三室山の紅葉は、やがて竜田川に流れ入って川面は錦のように美しいことよ。
後冷泉天皇主催の「永承四年内裏歌合」で紅葉を題に詠まれた歌です。
古今集の「竜田川もみぢ葉流る神なびの 三室の山にしぐれ降るらし」という詠み人知らずの歌を踏まえています。
作者は能因法師(のういんほうし)[988〜1050年]
俗名は橘永愷(たちばなのながやす)平安中期の歌人・僧侶で、中古三十六歌仙の一人です。
標高82mからの景色

桜はアキマセンでした⇒桜の見ごろっというのはホンマに難しいなぁ
満開の時に行った記録があります。こちら

ウォーキング中に見つけたマンホールの蓋

生駒郡平群町
町章と町の花キク(平群町は夏秋期小菊の生産日本一。)町の木カシのデザイン。「おすい」の文字。
汚水管マンホール蓋
北葛城郡王寺町
町の木ウメ、町の花サツキと、 聖徳太子の十七条の憲法第一条「以和為貴」(和をもって貴しとなす)の精神を引継ぐ地域のシンボルの和(やわらぎ)の鐘のデザイン。 周囲は4重の凸模様。「おうじ」「おすい」の表記。
汚水管マンホール蓋
王寺駅で解散、歩数計を見ると16156カウントしてました。


精華古社探訪半日コース 2024-1-29

2024-02-04 | いきいき健康ウォーク
コース:近鉄・狛田駅⇒春日神社(菱田)⇒春日神社(舟)⇒木津川堤防⇒むくのきセンター(トイレ休憩)⇒祝園神社⇒武埴安彦破斬旧跡(たけはにやすひこはざんきゅうせき)⇒近鉄新祝園駅(解散)約6Km

集合場所は近鉄狛田駅

わんちゃんちから極々最寄りの駅。
1番目は春日神社(菱田)

菱田地区の氏神。奈良市にある春日大社の若宮社殿を移築したと伝わる本殿は重要文化財。

本殿は格子の向こうだったので、格子の隙間から……。



拝殿の白馬と黒馬は、近世初期の絵馬として有名。


2春日神社(舟)


舟地区の氏神。社殿は昭和54(1979)年に再建されたもので、安永2(1773)年の絵馬が残る。
例祭は毎年10月17日。
境内の大きな樹木はすべて伐採されていた、
 
「どうしてなんですか?」「近隣に住宅が増えましてな、台風なんかの時に大木が倒れたりしたらアカンよってに」

3百久保地先遺跡出土の石造物



 
ホトケノザ(仏の座)シソ科

「雑草なんかを撮ってはりまんのか?」「はい、お花屋さんで売られてるお花よりも、田んぼのあぜ道なんかに咲いてる野草が好きなんですぅ」「そうでっか、いろんな人が居はりまんなぁ」

むくのきセンターでトイレ休憩

センター2階の交流広場は屋根付き、雨天の日でもグラウンドゴルフが楽しめるんです。


4道標
 
江戸時代には、大和郡山藩、小泉藩の参勤交代の行列や伊勢参りの旅人などが往来していた道。
道標には「左 なら(奈良) 右 京(京都)よど(淀)八わた(八幡)」とある。

5祝園神社


正月に行われる居籠祭は、京都府の無形民俗文化財の指定を受けている。二日目に大松明を先頭に祭場へ
向かう御田(おんだ)の儀、三日目に竹で邪鬼をかたどった綱をひきあう綱曳(つなひき)の儀という神事が行われる。

6武埴安彦破斬旧跡(たけはにやすひこはざんきゅうせき)
 
『古事記』『日本書記』によれば、武埴安彦は第八代孝元天皇の皇子である。崇神天皇に対する反乱で敗れ、この場所で斬首されたと伝えられている。

また、この場所は居籠祭で綱曳の綱をやく場所でもある。

7仇討ち地蔵



以前にウォーキングしてました。こちら⇒精華町の古社を訪ねる:木津川堤防沿い

コースのおさらい
木津川沿いの景観を眺めながら進み精華の史跡を探訪する。
木津川は大変な暴れ川で、江戸時代の約250年間でも多くの洪水被害が記録されている。
下狛駅・狛田駅から東へ進むと、奈良の春日大社ゆかりの菱田と舟の春日神社を経て、木津川へ出る。
その美しい流れと開けた景観を観ながら南へ進むと、祝園神社や常念寺など、由緒ある寺社や、『古事記』に伝承が残る史跡を訪ね歩くことができる。
参考資料:いきいき健康ウォークスタッフ手作りパンフレット
この日の歩数計は16859歩

紅葉の坂本 日吉大社を巡る  2023-11-30(木)

2023-12-21 | いきいき健康ウォーク
≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫

行程:JR唐崎駅(湖西線)⇒唐崎神社⇒坂本城址公園(昼食)⇒日吉大社(解散)

JR唐崎駅前でウォーキングに備えて準備体操

1唐崎神社


日吉大社で代々神職を務められた家の先祖である、琴御館宇志丸(ことのみたちうしまる)という方がこの地に居住され、「唐崎」と名付けられました。この頃、天智天皇が奈良の三輪山から大己貴神(おおなむちのかみ)を大津にご勧請された際に、琵琶湖を渡り、この唐崎の地に降り立ったとされており、日吉大社西本宮のご鎮座に大変縁のある場所です。ご祭神女別当命(わけすきひめのみこと)は琴御館宇志丸の御妻君であり、持統天皇の御代697年に創建されたと伝えられています。

琵琶湖の向こうに三上山(近江富士 として知られる。標高 432m。)




2唐崎の松

初代は持統天皇の御代に琴御館宇志丸が初めて植えたことに始まる。記録の上では初代の松は天正9年(1581)に大風によって倒れ、二代目は天正19年(1591)当時の大津城主 新庄直頼公が植えたとされています。この二代目の松は大変大きく、明治初期の由緒書には、東西72メートル、高さ27メートル、幹の円周11メートルもあり、境内を覆うほどでありました。今なお多くの絵画などにその姿が残されております。
石川県の兼六園にも二代目松の実生があり「唐崎の松」として植えられております。

芭蕉は『野ざらし紀行』の旅で琵琶湖の向うに「唐崎の松」をながめて、

『唐崎の松は花より朧にて』
唐崎の松は桜よりも朧に霞んで見える、
という句を詠んでいます。

3.穴太衆の石積み


比叡山延暦寺や日吉大社の門前町として栄えた坂本は、隣接する穴太村の職人集団「穴太衆(あのうしゅう)」によって石垣が築かれ、大小の整形していない自然石を巧みに積み上げ、かつ挟み込んだ「穴太衆積み」によって通り道の景観が形成されている。その美しさと堅固さから戦国時代にはいくつもの城郭の石垣にも用いられた。
坂本の町には、比叡山で修行 を積んだ僧侶たちの隠居坊である「里坊」が集中しているが、その里坊が各々石垣を築いているので、坂本は穴太衆積みのまちとなっている。
また「穴太(あのう)」は大津市坂本付近に今も地名として残る。

4.坂本城址公園



坂本城は1571年の延暦寺焼き打ち直後、織田信長の命により明智光秀が琵琶湖岸に築城。安土城に次いで絢爛豪華な城であったといわれる。1582年の本能寺の変の後、羽柴秀吉軍の攻撃により落城。城内と推測される場所に光秀の供養塚と伝わる明智塚がある。また、琵琶湖の渇水時には湖中の石垣が姿をあらわすが、普段は見ることができない。現在は坂本城のあった辺り2カ所に碑が建っている。一つは下阪本の旧北国海道沿い東南寺付近の碑で、もう一つは湖岸に作られた公園の前に建っており、公園内には明智光秀像もある。

5.日吉大社




👆阿像     👇吽象

日吉大社 詳しくはこちら
全国に約3,800社余りあるの「山王さん」の総本宮。平安京の表鬼門にあたる場所に社殿があり、平安時代から都の守護神として、また比叡山延暦寺の御法神として信仰を集めてきました。神の使いの猿「神猿(まさる)」は、「魔が去る」「勝る」に通じる魔よけの象徴として大切に扱われ、お守りやおみくじ、絵馬などにも描かれている。広大な境内には国宝の西本宮と東本宮の本殿をはじめ、日本最古の石橋といわれる日吉三橋など重要文化財も数多くあり、境内全体が国指定の史跡となっています。社名の「日吉」はかつては「ひえ」と読んだが、第二次世界大戦後は「ひよし」を正式の読みとしている。鳥居は、その上部に比叡山延暦寺を示す山形をのせる独自の形式で※「山王鳥居」(合掌鳥居、総合鳥居)と呼ばれる。

※鳥居形式の一。明神鳥居の笠木 (かさぎ) の上の中央に棟柱 (むなばしら) を立て、木材を合掌形に組み渡し、その頂上に烏頭 (からすがしら) という反りのある木を置いたもの。日吉 (ひよし) 大社の鳥居に始まるという。
👆文中の解説は『いきいき健康ウォーク』のスタッフさん手作りのパンフレット参照。




 

 

 





 












ここ、日吉大社で『いきいき健康ウォーク』の行程では解散でした。
ゆる~い下り坂を歩いて湖西線JR比叡山坂本駅へ

ホームで虹を見た。みかちゃん、Kさんと『ラッキー』っと、思わずハイタッチ。
帰宅して見ると、歩数計は20173カウントしてました。

嵐山周辺散策 2023-11-27

2023-12-02 | いきいき健康ウォーク
≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫
10月20日(金)のいきいき健康ウォークの日はわんちゃん的には参加が無理やったんで、「あの辺りなら知ってるわ」と、『独りいきいき健康ウォーク』を決行。
行程:JR太秦駅⇒車折神社⇒法輪寺⇒中之島公園(解散)
いきいき健康ウォークのスタッフさんに訊いてちょっと予習を
『JR太秦からは駅を出て戻る方向で踏切を渡り京福の撮影所前駅を通って行ったら三条通に出る。帷子ノ辻駅前を進むとそのまま、真っ直ぐで嵐山に。 』

「よしよし、これでオッケーや」と勇んで出かけたもののイザ太秦駅を出ると「う~~ん??」
まず、車折神社目指して、途中の斎宮神社に寄り道

斎宮神社は、京都市右京区嵯峨野宮ノ元町にある神社で、天照大神を祭神としています1。斎宮は伊勢神宮に奉仕する斎王が有栖川の辺に野宮を建て、精進潔斎をした旧跡と伝わるこじんまりとした神社で、厄除け開運・婦女子の血の道の守護などに御利益があるとされています。
境内に大きな樹

ムクノキ(椋木)ニレ科
この一帯は古くから「斎の森(いつきのもり)」と呼ばれていました。このムクノキはその名残で現在は「清く正しいい心のよりどころ」として、地域の人たちに親しまれています。

目指すは車折神社

車折神社の御祭神は、平安時代後期の儒学者・清原頼業(きよはらよりなり)公。願いを込めると必ず叶えてくれる「約束を違えない神様」として信仰され、商売繁盛・家内安全・金運上昇・縁結びなど、あらゆる願いを叶えてくれるご利益がある。清原頼業公は大外記の職を24年間も務め、その優れた和漢の学識と実務の手腕が高く評価された人物。1189年に逝去されると、清原家の領地であった現在の社地に設けられた廟(祖先や個人の霊を祀る建物)に葬られ、それが時代を経て現在の「車折神社」となった。
『大外記(だいげき)』とは
律令制で、式の執行などを司る官職・外記のうち、上位の立場にある者。★パンフレットより

車折神社
玉垣に記された名前にスゴク興味津々


公式HPによると、玉垣一枚の奉納料は21,000円(※2023年4月時点)。申し込み日より2年間掲載いただけるそうです。
芸能神社


嵐山に近ずくと観光客がいっぱい、渡月橋などは橋の両側の歩道なんて人であふれそう。

ふと川面を見ると

ヒドリガモが……。

渡月橋を渡り終えて人ごみにつられて進むと、法輪寺の入り口が
石段を上がっていくと、バぁ~~ンと


 

虚空蔵法輪寺
およそ1300年前の和同6年(713年)に元明天皇の勅願により行基菩薩が創建したのがはじまりです。
清少納言の『枕草子』では、京都の代表的な寺院として挙げられ、本尊のご利益は『今昔物語』にも描かれています。
幕末の禁門の変によりお堂の大半が焼失してしまいました。その後、お堂や山門、多宝塔が再建され現在に至っています。

法輪寺と申しますと『十三参り』こちら 
二月八日 針供養 の日にお参りしてるんですよ。こちら

ランチは?
三条通りに面した『喫茶軽食リベラル』

ランチ定食

 

焼肉のたれが絶妙なお味、白菜の煮びたし:薄味でしっかりしたお味
食後の珈琲がほっこりしたお味
「ごちそうさまでした、ここから京都駅に出たいのですが一番近いのはどこからの停留所がありますでしょうか」
「京都バスか市バスが便利ですよ、2~30m行ったところにバス停がございます」
すぐバスが来た、超満員だった、運良く後方座席の段差のところのシート後ろ側にもたれかかることができて約30分立ちん坊でも苦にならなかった。

京都駅舎の壁面がミラーのようになっていて、京都タワーがそっくり映っていた。
ウチに帰って歩数計を見ると『17012

山背古道から青谷梅林を歩く 2023-3-08

2023-03-17 | いきいき健康ウォーク
 ≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫
せいか365プロジェクト いきいき健康ウォーク
日程:JR山城青谷駅⇒龍福寺⇒中天満神社⇒青谷梅林⇒JR長池駅(解散)

以前、近鉄の『酒蔵みてある記』で青谷梅林からゴールの城陽酒造までのコースに参加したことがあった。こちら
今年の『酒蔵みてある記』は「あらっ!いきいき健康ウォークとおんなじ日やんか、城陽酒造のお庭にも梅が満開とちゃうかなぁ。」
との思いを込めながらUさんと参加しました。

1.龍福寺京都府城陽市 - 八百万の神



龍福寺は浄土宗のお寺で、山号は天沢山。1607年に曇誉(どんよ)が創建したのが始まりで、現在地に移転したのが1674年と伝えられる。1690年に火災で焼失、奈良の東大寺から『阿弥陀如来坐像』を譲り受けて本尊とし、1837年に隋誉(ずいよ)が再建した。大正に入り、1923年に再び火災で焼失したが、翌年に再建され現在に至っている。

2.中天満神社


旧中村の産土(うぶすな)神で、祭神は平安後期の著名な学者「学問の神様」として知られている菅原道真である。
 神社周辺には数基の古墳が存在するが、このことからもわかるように、中村は歴史の古い集落で、平安時代に編さんされた「和名抄」には、綴喜郡十郷の一つとしてその名が記されている。
 神社の創記・沿革は明らかではない。社殿に残されている棟札のうち最も古いものは、慶長十一年(一六〇六)であるが、神社の成立は、これより早かったとも考えられる。
 江戸時代には、境内で「雨乞い」も行われ、また、慶応三年(1867年)には「おかげ踊り」が盛大に催されており、拝殿正面にかけられた絵馬には、その様子が生き生きと描かれている。

3.青谷梅林

青谷梅林は起源が明確ではありません。青谷梅林は鎌倉時代に南朝の初代天皇、後醍醐天皇の皇子。宗良(むねよし)親王が和歌「風かよふ 綴喜の里の 梅が香ふ 空にへだつる 中垣ぞなし」と詠んでいることから鎌倉時代末期には既に梅林があったとも言われています。その後江戸時代には淀藩の奨励を受けて大いに植樹され、更に1900年 (明治33年)、「青谷梅林保勝会」が設立されて梅林の保護と宣伝に努めるようになり、景勝地として定着。 また1972年 (昭和47年)には梅が城陽市の木に制定されています。
江戸時代には淀藩の奨励を受けて大いに植樹され、更に1900年 (明治33年)、「青谷梅林保勝会」が設立されて梅林の保護と宣伝に努めるようになり、景勝地として定着。 また1972年 (昭和47年)には梅が城陽市の木に制定されています。
(いきいき健康ウォーク・スタッフさん作成のパンフレットを参考にしました)



ハチが一生懸命……。 



さて、青谷梅林でお弁当タイムとなり、梅林の真っただ中でのおにぎりはいつものよりおいしかった。
いきいきウォークのスタッフさんに「近鉄の『酒蔵みてある記』がちょうど今日、城陽酒造なんでそっちの方へ廻りたいので、この後ぬけますけど、よろしくお願いします」「はい、分かりました、いいですよ」
城陽酒造はJR奈良線の西側、歩いてはる人たち、なんとなく『酒蔵みてある記』参加者の皆さんかなあっとか思いながら、Uさんと「こっちこっち」とか言いながら。

4.城陽酒造に到着




利き酒「純米吟醸無濾過生原酒」
原料米:京都府産五百万石100%
精米歩合:50%
アルコール分:16度
をいただきました。まろやかで美味しかったです。




城陽酒造の庭園はよく手入れされた梅の木々のお花が満開でした。

『城陽酒造の梅酒は、このご当地・青谷梅林の特産である「城州白」という大粒で果肉の厚い香り高い品種の、さらにその中でも粒の大きな特に香り高い、青梅ではなくほどよく熟した梅の実のみにこだわって使用しております』
梅酒を作るために漬けてあった梅を売ってました、買って帰りました、そして酒粕も。予期していたとは言いましても帰りのデイバッグは重たかった。
早速、作りました
梅酒の梅の甘露煮          梅酒の梅のジャム=ヨーグルトにトッピング
 
梅酒の梅の甘露煮:レシピ
梅酒に漬け込んだ梅・・・500g
水・・・・・・500ml
砂糖・・・・・250~300g
1.蓋をして、沸騰まで中火。沸騰したら弱火で30分煮る
2.蓋をしたまま冷ます。熱いうちに蓋をとると、シワシワになります。
3.蓋をしたまま煮ることで、シワシワの梅もある程度ふっくらしてくれます。
4.アルコールはほとんど飛びますが、若干残っている感じです。
ジャムは甘露煮の種を取り出してそのまま潰すと美味しいジャムになりました。パンに塗るというよりも、ヨーグルトのトッピングの方が👍グッド。

城陽市のマンホール

町章を囲むように、市の木「ウメ」と市の花「ハナショウブ」を交互に並べた汚水用マンホール蓋。

行きしなに、下狛駅のホームで見つけた

昇る人が居るんですねぇ
後日、調べましたら。
下狛駅のホームの街灯(水銀灯と思われる)の電柱に「昇柱禁止」という札が貼られているのは、電柱に登って作業することを禁止しているという意味です。電柱には高圧電流が流れているため、安全のためにも昇柱は避けるべきです。また、電柱には他の事業者のケーブルなども共架されている場合があり、それらに影響を与える可能性もあります。
と、調べた結果です。



星のブランコ 2022-11-28

2022-12-20 | いきいき健康ウォーク
 ≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫
せいか365プロジェクト いきいき健康ウォーク

コース:JR河内磐船駅・・京阪河内森駅→私市駅・・府民の森・星田園地(交野吊り橋・星のブランコ)・・展望スポット・・昼食・・JR星田駅   歩行:約10Km・1万5千歩

祝園駅で集合、京阪私市駅で下車、駅前でストレッチ(柔軟体操)身体がほぐれますね。


星のブランコ目指してイザ!! てくてく!




日本でも最大級の木床版の吊り橋
1997年(平成9年)になみはや国体の会場の1つとして、ほしだ園地が選ばれ、
クライミングウォールがほしだ園地に登場し、
 
時期を同じくしてこの星のブランコができました。


星のブランコの名前の由来は、大阪府交野市の星にまつわる歴史(七夕伝説空海の八丁三所伝説など)から星がキーワードな街なので、星という名前が付けられて、この吊り橋の名前が「星のブランコ」となりました。
星のブランコは、標高180m、全長280m、最大地上高50mの木床版吊り橋で、人道吊り橋としては全国的にも最大級の大きさを誇り、山と山をつなぐつり橋⇔全国でも珍しいらしい。

高さがおよそ50mもあるので、吊り橋からの景色は絶景。交野の美しい里山の景色が眺望できます。

「気持ち良いな-。京都タワーも見えるんやって」そんな声が聞こえてました。
11月末から12月半ばは紅葉が見ごろ「ハイそうでした」





「星のブランコ」主塔の秘密
「星のブランコ」は完成から25年が経った。主塔は茶色くさびている。?????

「出来た当初からこの色なんです。古くなってさびたわけではありません」『耐候性鋼材』と呼ばれる特殊な材質を使っておりわざと、さびを発生させ、腐食の進行を抑えている。また、塗装の必要がなく、メンテナンスの費用も抑えることができるメリットもあるという。
「星のブランコ」の関係者さん、塩野雅典さん(55)は主塔の秘密を教えてくれた。
また、塩野さんは、国土地理院の地図に「星のブランコ」を示す直線が刻まれたとき、自分へのご褒美だと感じたという。
「自分がかかわったつり橋が地図に載り、こんなうれしいことはない」
2022-12-02朝日新聞朝刊22面 おでかけ関西ちょっとウラ話より。


交野市のマンホール 五つの……
一つ目、交野は古くからさくらの名所であり市の木にも選ばれている「さくら」。
二つ目は市の花に選ばれている交野市城に自生するミツバツツジ、モチツツジ等の「つつじ」。
三つ目は古歌に詠まれるなど、古くから交野にゆかりの深い市の鳥である「きじ」。
四つ目に交野市の中心部を流れる「天野川」。
五つ目に交野市のマークである交野市の「交」の字を図案化し、交野の桜と平和の象徴である鳩を型どっている市章。
これら五つをバランスよく配置したものが現在、交野市内の各所に設置されているデザインマンホールです。


その日はとても良いお天気でした、星のブランコから眺める山々の紅葉も素晴らしく青い空に映えてとてもキレイでした。
ウチに帰って歩数計を見ると、なんと”20243”カウントしてました。
(記事中の説明は一部分、いきいき健康ウォーク・スタッフさん手作りパンフ参考)

古都の世界遺産を巡る(下鴨神社~上賀茂神社) 2022-5-18(水):後編

2022-06-08 | いきいき健康ウォーク

上賀茂神社賀茂別雷神社(上賀茂神社)

竹細工おみくじアート
 

上賀茂神社(上社)の祭神は別雷神(わけいかづちのかみ)で、下鴨神社(下社)に祀られている玉依媛命の子にあたる。神徳は厄を祓い、あらゆる災難を除く厄除明神・落雷除・電気産業の守護神であり、広く信仰されている。
その昔、雷神が神社の北北西の方向にある神山(こうやま)に降臨され、天武天皇6年(678年)に、本殿に鎮座されたと伝えられている。従って、社殿の造営も天武天皇6年とされている。雷神が降臨したのは神代の昔らしい。この話はかつての神話そのものであるが、神社は神を祀っているのであるから、現在でも神話が生きていても不思議なことではないのかもしれない。
上賀茂神社は昔から皇室との関係が深かったようで、天平17年(745年)に天皇の病気治癒祈願が行われたのが関係の始まりとされている。以後、国家の重大時には必ず、奉幣・祈願が行われたという。大同2年(807年)には伊勢神宮に次ぐ地位が与えられたといわれている。神社は中世になって一時衰退したらしいが、徳川幕府の庇護、信心により隆盛し、第二次大戦の終戦までは官幣大社の首位に位置していたという。
「上賀茂神社」の正式名称は「賀茂別雷(かもわけいかづち)神社」であるが、一般には通称名である「上賀茂神社」のほうがよく知られている。



上賀茂神社立砂(たてずな)

上賀茂神社立砂は細殿(拝殿)前にある円錐状の2つの砂の山です。立砂は神代の昔に祭神・賀茂別雷命(かもわけいかづちのかみ)が降臨した神体・神山(こうやま)を模したのもで、向かって左に3本(陽)と右に2本(陰)の松葉が差されています。上賀茂神社の神が降臨する場所である.
立砂の意義とは・・・こちら

本殿


紫式部歌碑


紫式部 
ほととぎす声待つほどは片岡の杜のしづくに立ちや濡れまし (新古今191)
  ホトトギス(将来の結婚相手)の声を待っている間は、この片岡社の梢の下に立って、朝露の雫に濡れていましょう。
    ※ホトトギスと共に片岡の社もまた素晴らしいという意味。

上賀茂神社を散策







大田神社へ徒歩で
大田神社:カキツバタ(杜若)
こちら


外側からカキツバタを撮影


「カキツバタとアヤメってよーぉ似てるやんか?どこがちゃうねんやろか?」ッと声がしてました

あやめ(菖蒲)。花びらの中央部分に網目の模様があるのがよくわかりますね。


かきつばた(杜若)。花を見ると、かきつばたの特徴である花びらの中央が白色になっています。

大田神社で解散、徒歩で地下鉄北山へ、地下鉄北山から帰路につきました。
行程歩数18,297歩でした。


古都の世界遺産を巡る(下鴨神社~上賀茂神社) 2022-5-18(水):前編

2022-06-05 | いきいき健康ウォーク

≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫
いきいき健康ウォーク=せいか365健康プロジェクト

古都の世界遺産を巡る(下鴨神社~上賀茂神社)
行程:出町柳~下鴨神社~鴨川河川敷~上賀茂神社~上賀茂神社の社家~太田神社~北山駅(解散)約9Km
下鴨神社こちら
賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)。
賀茂御祖神社は、鴨川の下流に位置することから「 下鴨神社 」と呼ばれています。
歴史
京都の社寺でも最も古い部類に入り、社伝では神武天皇の御代に祭神の伝承が見られます。いつごろ社殿が造営されたのかは諸説ありますが、奈良時代以前から幾度も社殿が造替された記録があります。
810年(弘仁1)以降約400年にわたって斎院が置かれ、皇女が賀茂斎王として賀茂社に奉仕しました。
他にも、『源氏物語』や『枕草子』等の王朝文学にしばしば登場する様に、この時代の文化、宗教の中心地の一つとして栄えました。
平安時代末期になると、全国に60余箇所もの荘園、御廚を持って勢力を誇りましたが、鎌倉時代、室町時代、そして戦乱の世になっていくにつれ、各地の荘園も絶えてしまいました。神殿守(殿司)と呼ばれる人々が全国をまわったのはこの頃の事で、賀茂神社を舞台とする能(謡曲)等に、そのころの様子を伺うことができます。
明治初年、全国の神社の代表として官幣大社の首位に置かれる事となりました。

特別保護建造物 摂社 二十二所社


御祭神 鴨氏二十二譜始祖神 例祭 四月十四日
明治十年(一八七七)三月二十一日、摂社七社の内、第六社として制定されたお社です。
社殿は、第二十三回・正徳元年(一七.一)、式年遷宮により造替され、末社雑太社と相殿に
なりました。*相殿(あいどの):主祭神に加えて他の神を合祀・配祀することを言い、それぞれの祭神を祀るための二殿をあわせて作った社殿を指します。
明治四十三年四月八日、特異な様式の社殿により、特別保護建造物に指定されていました。

末社 雑太社(さわたしゃ)




ご祭神 神魂命(かんたまのみこと) 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
明治10年(1877年)九月十日、社前の馬場にて、御祭神の神魂命(かん「たま」のみこと)は、「球」に通じるとして、糺の森で初のラグビーの練習が第三高等学校と慶應義塾大学生のあいだでおこなわれました。それが契機となり日本ラグビー界の歴史が始まり、今日まで数々の名勝負が展開されてきました。昭和四十四年(1969年)十月五日、その歴史を後世に伝えるため「第一蹴の地」の聖地として記念碑が建立されました。

河合神社





美麗の神様「玉依姫命(たまよりひめのみこと)」が祀られています。「玉依姫命」は、美の聖地としても知られ、縁結び、安産、育児、学業、長寿などのご利益があるそうです。
河合神社では、家庭でもよく使われている手鏡の形をした「鏡絵馬」を奉納します。
その際「鏡絵馬」には、自分の化粧道具(メイク道具)を使って顔の絵を描きます。裏面には願いを書いて奉納、美麗祈願をします。
自分の化粧道具で描くというのもオモシロイですね。
お化粧をお持ちでない方は、色鉛筆を借りて「鏡絵馬」の奉納ができますので、ご安心ください♪

言社(ことしゃ) 重要文化財



言社は大國さんと親しく呼ばれている。大國さんとは、大国主命の略称で、正式社名は言社であり七つのお社がある。
祭神の大国主命が持つ7つの名前をそれぞれ十二支の
守り神として祭る。
自分の干支に参拝するとご利益あるらしい

相生社


京都にある世界遺産・下鴨神社。その楼門の手前にある小さな社「相生社」は縁結びのパワースポットとして注目を集めています。
ご祭神は宇宙の生成力を神格化したといわれる「産霊神(むすびのかみ)」で、古代から縁結びの神様として知られています。ちなみにめでたいことを相生というのはここから始まったといわれているそうです。実にこじんまりとしたお社なのですが、常に参拝者が絶えない縁結びの人気スポットなのです。

水みくじ 御手洗川



下鴨神社の人気のおみくじは、授与所で「水みくじ」を引いて、隣を流れる御手洗川(みたらしかわ)に「水みくじ」を浸すものです。
しばらくすると文字が浮かび上がってきます。

下鴨神社から鴨川河川敷でお弁当タイム。


食後、上賀茂神社へ・・・後編へ続く⇒こちら

里山の風さんよりのコメントを紹介させていただきます。

鎮守の森と小川に守られた下鴨神社(W2-60) (里山の風)2022-06-21 16:43:18
世界遺産の下鴨神社には、ホットスポットや「七不思議」と言われる見どころが沢山あります。最近の朝日新聞(6月15日京都版)には神の食事を冷やした「氷室」(ひむろ)再興の記事がありました。
相生神社の「連理の賢木」(れんりのかたぎ)、河合神社の「鏡絵馬」、言社(ことしゃ)の干支参りなどに人気があり、沢山の方の願いに、ご利益があるとよいのですが!!!
私も年に2回程度、参拝しますが、特に「糺の森」(ただすのもり)は必ず散策します。この森は原生林の植生が残っているとして調査も実施されています。
古くは100ヘクタール以上の大面積があり、応仁の乱では殆どが消失したそうです。それでも、現在は12ヘクタール程度あるとのこと。
古神道では神が鎮座する森のことを「鎮守の森」とされています。まさに、糺すの森は「鎮守の森」です、この森には小川もあり、伊勢神宮の参道のように、なにかすがすがしい気分と、自然のオーラを感じます。
境内には4つの小川があるそうで、そのうちの一つが御手洗川でその池の地底から湧き出す泡玉の様子を団子にみたてたのが「みたらし団子」の呼び名(発祥の地)です。
奈良時代以前から、この森と小川に育まれてきたのが下鴨神社(賀茂御祖神社)「かもみおやじんじゃ)です。しかし平成27年4月に第34回式年遷宮をすませたが、コロナ禍などで、相当な財政難があり、法隆寺のクラウドファンディングのような取り組みがあるのではと思っています。 その時は、ささやかな寄付をいたしましょうか!!
ここで、私のエピソードを紹介しましょう!!、それは今から4~5年前の5月の連休日のことです、参拝を終え、賀茂川と高野川の合流点の近くで、弁当を食べていた時に、突然、鳥(トビ)が飛んできて、弁当の揚げ物を取られそうになり、ビックリしたことがありました。よくみると、上空に数羽のトビが旋回しているではありませんか。これもご利益の一つでしょうか!!


京の町を歩く(京都東山方面)2021-11-26

2021-12-06 | いきいき健康ウォーク

≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫
いきいき健康ウォーク=せいか365健康プロジェクト
行程:蹴上駅~日向大神宮~田辺朔郎銅像~南禅寺~円山公園(解散)約7Km

インクライン




蹴上インクラインは、南禅寺の近くにあり、全長582mの世界最長の傾斜鉄道跡で、高低差約36メートルの琵琶湖疏水の急斜面で、船を運航するために敷設された傾斜鉄道の跡地です。 
1891(明治24)から運航し、舟運の衰退とともに1948(昭和23)年に役割を終え、現在はその廃線跡は京都市の文化財に指定されています。

インクライン・運輸船




この木造船は、明治23年に竣工した琵琶湖疎水で使用されていた運輸船を復元したものです。
当時は船ごと、インクライン(傾斜鉄道)の台車に載せてこの坂を昇降させていました。
★蹴上インクラインは、平成8年に国の史跡に指定されています。
この木造船(三十石船)は、京都滋賀県人会創立50周年を記念して、平成22年3月に寄贈されました。
田辺朔郎とはこちら
    
義経大日如来


 「蹴上(けあげ)」の由来
源義経は16歳になったときに、金商人の金売吉次に伴われて奥州平泉へ旅立ちました。粟田口から九条山の坂に向かっていた時、平家武者、関原与一重治(せきはらよいちしげはる)とその従者9人がすれ違います。
すれ違いざまに、彼らが乗っていた馬が水溜りの水を蹴り上げ、汚れた水が義経にかかってしまいました。義経はこれに激怒し、従者9人を即座に切り捨てたという言い伝えが残されています。そこから、この場所の名前が蹴上と呼ばれるようになったということです。
切り殺された9人を村人たちが弔い、石仏が祀られました。9体の石仏が祀られた場所は九体町(くたいちょう)と呼ばれるようになります。現在の「御料岡町」辺りだそうです。石仏は9体ありましたがそのうち6体は消失してしまい、残り3体が現在でも残っています。
そのうちの一体が、「義経大日如来」として、「蹴上」の地に祀られています。
カッコいい、英雄的な人物として描かれる源義経ですが、若いころは血気盛んで非常に激昂するタイプだったのでしょう。彼はこの出来事を後で思い返したときには悔んだりはしなかったのでしょうか?
この事件を現代に置き換えてみると、いわゆるところの「泥はね運転違反」ですね。車両を運転中に水溜りの汚水や泥水を飛散させて他人に迷惑をかける行為です。
【道路交通法第71条1号】
★ぬかるみ又は水たまりを通行するときは、泥よけ器を付け、又は徐行する等して、泥土、汚水等を飛散させて他人に迷惑を及ぼすことがないようにすること。
交通違反の区分でいえば「一般違反行為(白キップ)」なので、行政処分はありません。反則通告制度によって、反則金 6,000円(普通自動車の場合)を納めないといけない違反です。

日向大神宮(ひむかいだいじんぐう):京のお伊勢さん


「日向大神宮」は、京都最古の宮の一つ。歴史は顕宗天皇の代(五世紀末ごろ)に日向から勧進されたのが始まりという、大変由緒ある神宮です。その昔は「京の伊勢」と呼ばれ遠い伊勢神宮の代わりに参拝する人で賑わったといいます。

日向大神宮には「内宮」と「外宮」があり、
内宮


上にある内宮には、天照大神と
三女神【多紀理毘賣命(たきりびめのみこと)、市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)多岐都比賣命(たぎつひめのみこと)】

外宮


下にある外宮には瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、天之御中主神(あめのみなかぬし)が祀られています。また、内宮外宮のほかに数多くの境内神宮があります。

境内神宮のひとつ、「戸隠神社」は、くぐると厄がはらわれるという「天の岩戸」。

結構勇気がいる感じの雰囲気を放っていますが厳かな気持ちでくぐりましょう。


紅葉の隠れた名所
日向大神宮は不便で分かりにくい場所にあるため訪れる人は少なく観光地化されていない静かな雰囲気が宮の神聖さをいっそう高めていてとても素敵です。特に紅葉スポットとして隠れた名所として知られています。















ねじりまんぽ こちら


ねじりまんぽは、蹴上インクラインの下を通り、南禅寺に向かう歩行者用トンネルです。渦を巻くような形で螺旋状にれんがが積まれているのは、上部のインクラインを行き交う船を乗せた台車の重さに耐えられるようにするためだと言われています。「まんぽ」とはトンネルを意味する古い言葉で、南北の出入口には北垣国道による扁額「雄観奇想」(ゆうかんきそう)、「陽気発処」(ようきはっするところ)が掲げられています。


東照宮


東照宮というと日光が最も知られているのですが、徳川家光の進言等により、全国の大名が競って建立、各地に数百あったそうです。その中で徳川の公式文書に残っているのは久能山、日光、そして金地院だそうです。
東照宮:徳川家康の遺言で建立されたもので、家康の遺髪と念持仏を祀っています。作庭で有名な小堀遠州の作といわれています。
「久能山に納め奉り、御法会は江戸増上寺にて行はれ、霊牌は三州大樹寺に置れ、御周忌終て後下野の国日光山へ小堂を営造し祭奠すべし。京都には南禅寺中金地院へ小堂をいとなみ、所司代はじめ武家の輩進拝せしむべし」 家康の遺言です。

京の都を歩いてきました。
南禅寺・金地院


 

青蓮院門跡


知恩院


丸山公園

円山公園で解散でした。

八坂神社




南座顔見世興行


「まねき上げ」こちらは、京都市東山区にある南座で年末に行われる顔見世興行に出演する歌舞伎俳優の名前が書かれた「まねき」と呼ばれる板を劇場の正面に飾る伝統行事です。 25日午前9時から作業員が足場にのぼり始め、人間国宝の片岡仁左衛門さんの名前が書かれた「まねき」が上段の右端に掲げられました。
京阪祇園四条から家路に 歩数計は13914カウントしてました。

文中、画像の説明文は『いきいき健康ウォーク』スタッフさん手作りレジュメを一部分参考にさせていただきました。

~馬見古墳群と季節の花々を楽しむ~2021-10-21

2021-11-01 | いきいき健康ウォーク

≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫
いきいき健康ウォーク=せいか365健康プロジェクト

コース:近鉄新祝園駅⇒大和八木駅(乗り換え)⇒五位堂駅(下車)→かつらぎの道→横峯公園→三吉石塚古墳→竹取公園→馬見丘陵公園(昼食後現地解散・各自自由散策)
帰路は、池辺駅または箸尾駅(帰路不案内の方はスタッフが案内します)
歩行  約8.5Km 約1万3000歩

お花を撮りに馬見丘陵公園に行ったときは近鉄田原本で田原本線に乗り換えて池辺駅から・・・
今回はいきいき健康ウォークです、五位堂駅からウォーキングで馬見丘陵公園まで。
久しぶりのいきいき健康ウォークです、道中歩きながらおしゃべりに花が咲いてるグループも、しかし、大声でのおしゃべりは控えましょう、マスクの着用は必ず・・・っといったことを確認。

馬見丘陵公園までの途中に立ち寄った場所は
三吉石塚古墳(県指定史跡)


生駒山が遠くに

ほん近くに二上山も見えてました


新木山古墳の西に築かれた東向きの帆立貝式古墳で、墳丘全長45m、直径41.4m 高さ6.5mの後円部に幅22m、長さ7mの短い前方部が付いている。周囲に馬蹄形の周濠が掘られ、さらに外堤があり、堤を含めた全長は62mとなります。墳丘は二段築成で、二段目には円筒埴輪の他に蓋(きぬがさ)、短甲(たんこう)、家形埴輪が立てられていた。墳丘と周濠には葺石(★)が施され、葺石の作業単位がよく残る。前方部の東南隅には張り出し部が設けられ、周濠幅が狭くなっている。埋葬施設は未調査で、埴輪から古墳時代中期後葉の築造と考えられている。
(★)葺石 とは?こちら

竹取公園


「竹取公園」という名前から、昔話の竹取物語やかぐや姫を連想される方も多いと思われますが、まさにこの竹取公園のある場所はその舞台とされている場所です。かぐや姫が描かれた竹筒のトイレもユーモアがあります。園内には花とせせらぎ広場や古代住居広場、学びの森、ちびっこゲレンデ、みんなの広場など、様々な施設があります。
👆参考:出発時にスタッフさんから頂いた、手作りパンフレットより

馬見丘陵公園



馬見丘陵公園に到着すると、いったん集合して「ここからは、皆さん自由行動で宜しくお願いします、お弁当は三々五々食べてもらって、集合は『花見茶屋』に1時50分にお願いします」
みんなで固まっての食事は密になるということで・・・
Uさん、みかちゃん、わんちゃん3人で行動を共にすることに。

コキアの群生が見事でした。



写真を撮ったりしながらコスモス、ダリアなど楽しみました。
コスモス(学名:cosmos)は、キク科コスモス属の総称。また、種としてのオオハルシャギク chrysanthemum を指す場合もある。
アキザクラ(秋桜)とも言う。




 

 



 



ダリア(英語: dahlia、学名:Dahlia)は、キク科ダリア属の多年生草本植物の総称。
「ダリア」 (dahlia) の名は、スウェーデンの植物学者でリンネの弟子であったアンデシュ・ダール (Anders Dahl) にちなむ。
和名は、花の形がボタンに似ているため、テンジクボタン(天竺牡丹)と呼ばれた。

 



 

 

 

「わんちゃん。この花はなんちゅう花なん?」


カワイイお花でした、スマホで撮って検索するもいっぺんでは覚えられない、横文字の長い名前でした。ウチに帰ってもう少し丁寧に調べると、どうもディアスキアらしいです。初めて聞く名前。
ディアスキアは、ゴマノハグサ科ディアスキア属に属する植物です。っと載ってました。原産地は南アフリカ 

大和平野のほぼ中央にある馬見丘陵は、わが国でも有数の古墳が集中している地域です。そして、これらの古代の遺跡をつつみこむように、豊かな自然が広がっています。
馬見丘陵公園は、こうした歴史と文化の遺産や素晴らしい自然環境を、憩いの空間として広く活用していただくことを目的に整備された都市公園です。
馬見丘陵公園にはたくさんの古墳が存在します。
馬見古墳群公園の古墳こちら

馬見丘陵公園へはチューリップのころこちら
ダリアのころこちら

香芝市マンホール:汚水管マンホール:

市の花・スミレと市の木・樫。樫の木にはドングリも描かれています。

広陵町マンホール蓋:汚水管マンホール:

「竹取物語」は、広陵町にある讃岐神社の讃岐造をモデルに造ったと伝承されていることから、
「かぐや姫の町」の文字と竹を描いています。

広陵町マンホール蓋:雨水管マンホール:

町の花ヒマワリのカラーデザイン。「こうりょう」「うすい」の表記。

園内マップ こちら


馬見丘陵公園園内マップのある一角に、わんちゃんの目が釘付け
南エリア
国の特別史跡に指定されている巣山古墳に隣接した、静かで安らぎのあるエリアです。
「春待ちの丘」には早咲きの河津桜が植えてあり、一足先に春の訪れを告げてくれます。
桜ダイスキのわんちゃんにとって・・・・・・



平城旧跡~いにしえの平城旧跡を散策~2020-10-20

2020-10-25 | いきいき健康ウォーク

≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫
いきいき健康ウォーク

平城旧跡~いにしえの平城旧跡を散策~
コース:近鉄平城駅⇒佐紀神社⇒大極殿⇒遺構展示館⇒東院庭園⇒平城宮いざない館⇒朱雀門⇒平城旧跡資料館12:30頃解散予定 約7Km. 約一万歩
平城駅前広場で輪になって準備体操(ストレッチ)、出席者点呼、そして出発

佐紀神社



平城旧跡に到着、案内図をパチリ

大極殿




遺跡発掘作業


宮内省復元建物


この時代の事務関係を司った建物
遺構展示館の中こちら





東院庭園 



平城宮跡・東院庭園内にあります隅楼。



誰もが知る平城宮跡ですが、この隅楼の建てられた意図は現在分かっていないそうです。
鮮やかで美しい造形の隅楼の屋根の上に佇む一羽の金色の鳳凰像が、その優美さをより一層際立たせています。

棚田嘉十郎翁像


棚田嘉十郎
平城宮跡の保存に尽力した奈良の植木職人
明治の終わり頃、奈良に棚田嘉十郎という植木職人がいました。
嘉十郎は奈良公園の植木を手入れしながら、観光客から平城宮址の場所を尋ねられると、「法華寺あたりがそうだ」と答えていました。
ところが(※)都跡村(みあとむら)の知人から、都跡村が平城宮の跡だと教えられ現地に行ってみると「大黒の芝」や「十二堂の芝」など宮殿ゆかりの地名が残っているものの、平城宮の跡には田畑が広がり、かつての首都であった平城宮は見る影もありませんでした。
それから、観光客から平城京の場所を聞かれるたびに、なんとかして平城宮の跡をきちんとした形で残していかなければならないと思いました。
そんな時、建築史家である関野貞こちらは北浦定政こちらを研究し、田んぼの中にある小高い芝生の段を発見。
明治40年(1907)「平城京及大内裏考」を奈良新聞に発表。この論文に後押しされ、嘉十郎は私財を投じ、平城宮址保存に残りの生涯を賭けることになります。さっそく跡地の買収にのりだしましたが、すでにそこで生活している農民たちから土地を買い取ることは容易ではありませんでした。さまざまな人の協力を得ながら、平城宮址保存に奔走していましたが、大正10年に彼の信頼していた仲間に裏切られることとなります。実直だった嘉十郎は、身の潔白を示すため割腹自殺をはかり、その生涯を閉じました。その後、彼の支持者によって引き継がれたこの運動は、大正11年に平城宮跡は「史蹟名勝天然紀念物保存法」となり実を結びます。そして、国の史跡として保護されることになりました。
(※)都跡村(みあとむら)は奈良県北西部、生駒郡に属していた村。現在の奈良市尼辻・西ノ京の一帯。奈良時代に都が置かれた平城京の一角だったことから名付けられた。

朱雀門辺り

平城京天平祭2020秋 〜天平花絵巻〜概要こちら

ススキの風景

ススキの向こうに大極殿と青空

ススキの向こうの方に若草山

ススキの向こうの方に生駒山

平城旧跡から西大寺駅の方へ歩きベーカリーカフェでランチして、ちょっと用事を済ませて平城駅まで歩きました。地名が山陵町。御陵がありました。



成務天皇
狹城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)
マンホール


国際文化観光都市として、観光シンボルである「奈良公園の鹿」と「市章」を中央に配置し、周囲には、平安朝の女流歌人伊勢大輔歌「いにしえの奈良の都の八重桜けふここのへに匂いぬるかな」(歌詩集)によって知られる「八重桜」を図案化しています。これにより、古都奈良のイメージを表現しています。


名古屋市型の規格蓋に市章入り、穴あきで受枠に模様のあるタイプ、雨水管マンホール蓋

道中、お花もちょっと。
ミゾソバ(溝蕎麦)タデ科



可愛いお花、大好きです。葉っぱが牛の顔のようなんで、ウシノヒタイとも。お花が集まってるからコンペイトウバナなどと呼ばれてる。

サクラタデ(桜蓼)タデ科


「ミゾソバの続きに群生してました、撮りたかったのですが植物観察会ではないです、健康ウォーキングなんです、ミゾソバをパパッと撮ったけどサクラタデ撮れなかった心残りやわぁ」っとUさんに話すと、ちょうどその同じ日に植物観察会に参加したUさんが「サクラタデ、お花をちょっとだけもらってきたのでお裾分け」っと。
ずっと以前、ウチの近所の休耕田にサクラタデが群生してたことがあったけど、今は宅地に造成されててアキマセン。「サクラタデ、ホンマにかわいいわぁ。」

キンモクセイ(金木犀、巌桂)モクセイ科



和名の由来は、この樹皮がサイ(犀)の足に似ているため中国で「木犀」と名付けられ、ギンモクセイの白い花色に対して、橙黄色の花を金色に見立ててキンモクセイ(中国名:丹桂)と言う。中国南部原産。日本には江戸時代に雄株が渡来し、これが挿し木で北海道と沖縄以外の日本中に増やされた。栽培北限は、東北南部(太平洋側は宮城、日本海側は秋田)。日本には自然の分布はなく庭などに植えられている。
平城旧跡にはキンモクセイが満開中。良い匂いがしてました。
この日の歩数計は19,561



まほろばの古都 ・ 山の辺の道から安倍文殊院を訪ねる 2020-1-14

2020-01-17 | いきいき健康ウォーク

≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫
いきいき健康ウォーク  せいか365健康づくりプロジェクト

行程 : JR三輪駅→大神神社→山の辺の道→平等寺→金屋の石仏→仏教伝来の地碑(昼食)→桜井伊勢街道→安倍文殊院→JR/近鉄・桜井駅(解散)14:3 約8km・約1万2千歩
「わんちゃん、大切なお知らせ忘れてた、明日はJRなんよ、9:45発の木津行きに乗るからね、近鉄とちゃうんよ」
「ハイ!Uさんからメールもらってて9:12下狛発に乗ろうねっと約束してる、ご親切にありがとー」
JR祝園の改札内から参加受付の手続き。
JR三輪駅前の広場で柔軟体操、点呼後出発

大神神社





巫女さんが神楽舞を・・・


祭神の大物主大神(おおものぬしのおおかみ)がお山に鎮まるために、古来本殿は設けずに拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し三輪山を拝するという原初の神祀りの様を伝える我が国最古の神社です。
当社の創祀(そうし)に関わる伝承が『古事記』や『日本書紀』の神話に記されています。『古事記』によれば、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)の前に現れ、国造りを成就させる為に「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」と三輪山(みわさん)に祀(まつ)られることを望んだ(のぞんだ)とあります。また、『(「)日本(にほん)書記(しょき)』(」)でも同様(どうよう)の伝承(でんしょう)が語られ(かたられ)、二神(ふたがみ)の問答(もんどう)で大物主大神は大国主神の「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」であると名乗られたとあります。そして『古事記』同様に三輪山に鎮まることを望まれました。この伝承では大物主大神は大国主神の別の御魂(みたま)として顕現(けんげん)され、三輪山に鎮(しず)まられたということです。
この様に記紀(きき)の神話に創祀(そうし)の伝承が明瞭に記されていることは貴重なことで、当社が神代に始まった古社中の古社と認識されており、ご祭神(さいじん)の神格が如何に高かったかを物語っていると言えます。そして、ご祭神(さいじん)がお山に鎮(しず)まるために、当社は古来本殿を設けずに直接に三輪山に祈りを捧げるという、神社の社殿が成立する以前の原初(げんしょ)の神祀りの様を今に伝えており、その祭祀(さいし)の姿ゆえに我が国最古の神社と呼ばれています。 「大神」と書いて「おおみわ」と読むように、古くから神様の中の大神様として尊ばれ、第十代(だいじゅうだい)崇神(すじん)天皇の時代には国造り神、国家の守護神として篤(あつ)く祀(まつ)られました。平安時代に至っても大神祭(おおみわのまつり)、鎮花祭(はなしずめのまつり)、三枝祭(さいくさのまつり)が朝廷のお祭りとして絶えることなく斎行され、神階は貞観 (じょうがん)元年(859)に最高位の正一位 (しょういちい)となりました。延喜式(えんぎしき)の社格は官幣大社 (かんぺいたいしゃ)で、のちに大和国一之宮(やまとのくにいちのみや)となり、二十二社の一社にも列なるなど最高の待遇に預かりました。中世には神宮寺であった大御輪寺 (だいごりんじ)や平等寺を中心に三輪流神道が広まり、 広く全国に普及し人々に強い影響を及ぼしました。近世に入ると幕府により社領が安堵 されて三輪山は格別の保護を受け、明治時代にはその由緒によって官幣大社(かんぺいたいしゃ)となりました。現在も国造りの神様、生活全般の守護神として全国からの参拝があり、信仰厚い人々に支えられて社頭は賑わっています。





大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が蛇に姿を変えたお話は、同じ『日本書紀』の雄略天皇(ゆうりゃく)のところにも出てきます。大物主大神が顕現(けんげん)される一つの形が蛇体であったということで、この物語は蛇神の信仰の古さを伝えています。大神神社で蛇は「巳(み)さん」と親しみを込めて呼ばれており、福徳をもたらし霊威として崇められています。境内の各所に卵がお供えされていますが、これも巳さんの好物の卵をお供えしようという崇敬者の信仰の一つの表れです。

平等寺






明治の廃仏毀釈で完全に廃絶した。明治13年に翠松寺として旧平等寺の山門付近に再建され、昭和52年にもとの「平等寺」に復している。本堂、不動堂のほか、江戸時代の仏足石などがある。

金屋の石仏


金屋の村はずれにある収蔵庫に蔵められている2体の石仏。いずれも高さ2.14m、幅83.5cm、
厚さ21.2cmの2枚の泥板岩に釈迦如来像(右)弥勒如来像(左)が浮き彫りにされている。平安時代でも後期の造立と考えられている。
なかの様子は格子戸越しに覗き込んでみるけど、どんな風になってるのか分からなかった。

仏教伝来之地碑


欽明天皇の時代に百済の聖明王の使節が訪れ、釈迦仏の金剛像一躯と経論若干巻等を献上し、日本に仏教を最初に伝えたといわれている所。また、拓榴市観音堂を含むこの一帯を日本最古の市のあった海拓榴市跡と呼び、山の辺の道の南の起点。
ここで御弁当タイム。
川べりの遊歩道の階段に腰かけてお弁当したのですが、お弁当タイムが終って歩き始めてその川の橋を渡る時ふと見ると「大和川」
わんちゃんが子供のころ住んでいたのは大阪市住吉区(現在、住之江区)で大和川がすぐ近く、夏にはシジミをバケツ一杯に・・・父や弟はハゼ釣りに興じたことも、その大和川の上流なんやわ・・・・・ちょっとカンゲキでした。

安倍文殊院






大化元年(645)に創建された日本最古に属する寺院。華厳宗東大寺の別格本山としてその格式も高く、
御本尊は「三人寄れば文殊の智恵」のことわざでも有名な文殊菩薩で、日本最大(約7m)・快慶作の国宝である。
永禄六年(1563)松永弾正の兵火を受け一山ほとんどが火災で焼失、約 100年後の寛文五年(1665)に現在の本堂(文殊堂)が再建されました。本堂は入母屋造りの七間四面の建物で前に礼堂(能楽舞台)を従えています。
日本最大約7mと伝わる文殊菩薩(国宝)を御本尊とする安倍文殊院は、創建以来すでに1300年以上の
時を経ていますが、現在も常に人々の信仰を集める祈祷寺としてその法灯が守られています。
また、日本三文殊の第一霊場「奈良県・大和安倍の文殊」(京都府・天橋立切戸の文殊、山形県・奥州亀岡の文殊)としても知られています。








合格門

境内には弁財天、奈良時代の遣唐使・阿倍仲麻呂、平安時代の陰陽師・安倍晴明がお祀りされている方位災難除けの金閣浮御堂や特別史跡の古墳、安倍晴明が天文観測をしたと伝わる展望台などあります。人々の願いを叶える場所として、たくさんの方が訪れ、信仰を集めています。
また、一年を通して様々な花を楽しむことができます。
★★記事中の解説は「いきいき健康ウォーキング」スタッフさん作成の案内書を参考にさせていただきました

玄関魔除け札


★御自宅・会社等の玄関や勝手口の内側にお貼り下さい
 (お札の裏側に両面テープが付いています)
★ご家族の皆様がそれぞれにおまつりの場合は並べてお貼り下さい。
★おまつりされる際には、お札の下側に貼られた年月をご記入ください。
★玄関魔除け札をおまつりされたら、同封のハガキをお送り下さい。
 当山に届き次第、本堂にて貴家の方位除災御祈祷を厳修し、一年後には、新しい玄関魔除札をお送り致します。
 日本三文殊第一霊場 御祈祷の寺
 別格本山 阿倍文珠院

桜井市マンホール

桜井市のマンホールは「桜の井」に因んだ名前で、市章も桜の花弁を図案化したもの
汚水管マンホール蓋

中央に市章

履中天皇(17代400年即位)の稚桜による説話とともに桜井の地名は 「桜の井」とよばれる井戸にはじまるといわれています。 それに因んで桜の花弁を図案化し、中心より大きくひろがった花びらは若さと発展する桜井市を表しています。
上記とデザインは同じだが、上は亀甲柄の中に6個の○が見えますが、こちらは○がありません。
汚水管マンホール蓋

メタセコイア並木の歴史の森を散策・大阪市立大学理学部付属植物園2019-11-27

2020-01-07 | いきいき健康ウォーク
≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫
いきいき健康ウォーク
行程:JR祝園駅~JR河内磐船駅~天田神社~大阪市立大学理学部付属植物園~園内散策~同園職員によるガイドツアー~昼食~現地解散

JR河内磐船からウォーキングは始まります。
天田神社⇒こちらにお詣りです










歩いて大阪市立大学理学部付属植物園(以下、市立大学植物園)に到着。


注意事項
園内、植物の持ち込み、持ち出しは固く禁じられています。枯れた草木の一本、木の実、松かさの類も持ち出し禁止ですのでご注意ください。
尚、喫煙も所定の場所以外は禁煙となっていますのでルールを守り楽しい園内散策をして下さい。こちら
登園は昭和25年に大阪市立大学理工学部附属の研究施設として発足し、以来、植物学の基礎研究の対象として多くの植物の収集と保存に努めてきました。なかでも、日本産樹木の収集に力を注ぎ、野外で生育可能な約450種を植栽し、もってわが国の代表的な11種類の森の型(樹林型)を復元しています。
近年、これらに加え今日的課題である絶滅危惧植物の保護育成にも積極的に取り組んでいます。
植物園は研究の場であるとともに、皆様方の自然学習や生涯学習の拠点として広く一般にも公開しています。(大阪市立大学理学部附属植物園 概要より)
ガイドツアーに申し込んでいただいてて、全員参加することができました。
市立大学植物園のスタッフさんの説明をお聞きしてナルホドの世界。
ちょうど、メタセコイアの黄葉が見ごろの時でなぜここにメタセコイアが居るのか?
1941年に元園長である三木茂博士(元大阪市立大学の教授/大阪市立大学理学部付属植物園の三代目園長さんでもありました)が化石植物として命名したのがメタセコイアで、もう絶滅してしまった植物と考えられてたものが中国湖北省にまだあるとわかり、生きた化石といわれている植物になりました。
その後、三木博士の尽力により、1950年にメタセコイアの苗木100本が日本に届きました。
(他に1949年に苗木が昭和天皇に送られ、まだ現存しているそうです。それとは別に東京の小石川植物園にも1949年に植えられているのでそれらが日本で一番古いメタセコイアになるようです)
1950年に送られた100本の苗木から日本でもメタセコイアが全国各地でも見られるようになっていくわけですが(例えば、滋賀県高島市マキノ高原のメタセコイア並木なんかも有名ですね)。
なんとその苗木が、大阪市立大学理学部付属植物園でスクスクと育っているんです。
日本で2番目に古い苗木が大阪市立大学理学部付属植物園に現存しています。参考:交野タイムズ
100万年前まで大阪平野に生育していてもう絶滅した植物だったと思われていた植物、メタセコイア。




実は我が住む町精華町にもメタセコイア並木があるのはすでに・・・・
こちら
ラクウショウ(ヌマスギ)の不思議な根っこに遭遇



 不思議な気根こちら

園内で昼食お弁当の後、ブラリ園内を散策、桜が咲いてました
 

 

ホトトギス          トベラ
 

ここの植物園でカタクリの群生に出会えることを知りましたこちら

現地解散でした。
Uさんが「私ね星のブランコには行ったことないねんよ、近くなんよね行ってみない?」
「行こ行こ」っと言うことになりわんちゃんたち3人は星のブランコへ向かいました。






星のブランコ
星のブランコを渡りながらの谷筋の紅葉がキレイでした。



この日の歩数計は24282カウントしてました


唐古・鍵遺跡と田原本町内を散策 2019-9-26

2019-10-12 | いきいき健康ウォーク

≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫
せいか365健康づくりプロジェクト:いきいき健康ウォーク

行程:田原本駅~①浄照寺~②唐古・鍵考古学ミュージアム~④唐古・鍵遺跡史跡公園~⑤道の駅~⑥今里の蛇巻き~⓻鍵の蛇巻き~⑧安養寺~⑨中街道~⑩鏡作神社~田原本駅(午後3時頃解散予定)=約8Km・約12,000歩



浄照寺⇒こちら








慶安四年(1651)平野長勝によって創建。この地には教行寺が所在したが、平野氏との支配権をめぐる争いから退去を命じられ、跡地に浄照寺が建てられた。本堂は県の指定文化財となっている。
山門を入った右側に大きな銀杏の樹があった、いっぱいギンナンの実が生っているのが見えた。
田原本御仏33ヶ所巡礼⇒こちら

唐古・鍵考古学ミュージアム⇒こちら




ピンク卵⇒こちら


唐古・鍵遺跡史跡公園⇒こちら


5道の駅


この日のウォークでとても楽しみやったんは
道の駅「レスティ唐古・鍵」の「イタリアンジェラート」
『奈良県産のいちご「古都華」や「ほうじ茶」をはじめ、季節に応じて田原本産メロンジェラートなど旬の味をお届けします』ッと言う。
わんちゃんはメロンジェラートをいただきました、あっさり味で美味しかったです。
「『ほうじ茶』もおいしかったよ」とかダブルで2種類の味を楽しんだ方も居はりました。
食べるのに夢中になって撮るのを忘れたわんちゃんです。

6今里の蛇巻き



7鍵の蛇巻き



鍵と今里の大字で、豊穣祈願のため毎年6月の第一日曜日(古くは旧暦5月5日)に「蛇巻き」の行事が行われる。13歳から17歳の男の子たちが参加する豊穣祈願と共に男の子の成人を祝う農耕儀礼である。同時に、矢部地区では、5月5日に「綱かけ」の行事が行われる。

安養寺⇒こちら




寛永十年(1633)の創建と伝えらる。本寺に所蔵される阿弥陀如来像は、快慶の作品とされる国の重要文化財に指定されている。拝観は要予約。

9中街道



10鏡作神社










正式名称は鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにいますあまてらすみたまじんじゃ)。天照大神が天の岩戸に隠れた際、八咫鏡(やたのかがみ)をつくったと伝わる石凝姥命(いしこりどめのみこと)、天照国照日子火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)、天糠戸命(あめのぬかどのみこと)、など三神が祀られている。
古くから鏡づくりの神として信仰を集めてきた。美の神として技術向上を願う美容師や鏡業界の関係者の参拝が多い。境内には、朱塗りで三間社春日造の本殿や摂社の天照大神社などが立つ。また、鋳鏡を洗い清めたといわれる鏡池もある。社宝として三神二獣鏡(非公開)を所蔵している。

マンホールの蓋


田原本町は奈良盆地の中央部に当たる沖積地に位置し、豊かな田園風景が広がる町です。 北部に所在する「唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡」は、国内屈指の規模を誇る弥生時代の環濠集落で、当時の生活や文化に関連する土器や石器、木製品が多数出土しています。 中でも、弥生時代の高層建築である「楼閣」を描いた絵画土器は有名で、この土器片を元に復元した楼閣は田原本町のシンボルタワーとなっています。 本マンホール蓋は、この復元楼閣と町の花「すいせん」で構成されており、町の玄関口である近鉄田原本駅から唐古・鍵遺跡まで続く道に設置されています。

 

『大和・山の辺探訪物語』には『山の辺』『水の辺』『唐古・鍵』ゾーンがあって、田原本には『水の辺』『唐古・鍵』ゾーンがあります。
唐古・鍵ゾーンのルートは近鉄橿原線田原本駅をスタートして浄照寺ー本誓寺ー田原本町役場ー鏡作神社へと進み、道の駅「レスティ唐古・鍵」のそばを通り、唐古・鍵遺跡史跡公園 北端から『はせがわ展望公園(ながめの丘)』をゴールとする約4kmです。

ちょっとだけお花も撮ってました
ヤハズソウ                 イボクサ
 
ツユクサ


この日 わんちゃんの歩数計は17054歩カウントしてました。

初夏のなぎさウォーク(大津から膳所:ぜぜ)へ 2019-5-14

2019-05-19 | いきいき健康ウォーク
≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫
いきいき健康ウォーク
コース
JR大津駅→曳山展示館→なぎさ公園→義仲寺(ぎちゅうじ)→JR膳所駅解散
曳山展示館を訪れました。こちら












このミニチュアは、故中谷広次さんが15歳(昭和13年)の時に夏休みの宿題として作製された物です。

大津まつり
わんちゃん的には祇園祭とちょっと似てるかな?っと思いましたよ、曳山を引くのに順番を籤で決めるとか、ちまきをまくとか・・・のところがね。
2019年大津まつりの日程はこちら

なぎさ公園でお弁当タイム
観光船ミシガン、ビアンカが停泊中

「琵琶湖はホンマに大きいなぁ・・・」


琵琶湖からの心地よい風に満足しながら、同行の友とおしゃべりしながら楽しく歩きました。

義仲寺(ぎちゅうじ)こちら

木曽義仲のお墓はもちろんだけど芭蕉のお墓があるとも聞いたこちら
なるほどね、バショウの木があった


最も耐寒性のあるバナナの一種、地上部は枯れるが、関東以南では戸外で越冬。
まれに7センチほどの果実がなり、黒い種子ができる。俳人松尾桃青は、江戸深川に庵をかまえ、庭に茂るバショウから号を芭蕉に。原産地は不明。日本には平安時代に渡来。『古今和歌集』物名歌に「ばせを」の名で初出。
朝日新聞:花おりおり二巻

「このお花は?」

「マユミですよ」

「コレは?シャリンバイかな?」


シャリンバイ(車輪梅)
この木は海岸(東北南部以南)に生えてて乾燥や強い日差しに強い。その特性を生かし、中央分離帯にも植栽されている、わんちゃん的には高い街路樹の根元にず~~っと一列に植栽されてるのを見かけたことあったなぁ・・・
JR膳所駅で解散後わんちゃんたち3人は京都駅そばのカフェ・ベローチェでお茶会して帰路に就いた。歩数計は16904カウントしていた。


「湖上を渡り艱みし蜻蛉に寄す」 岩野泡鳴

昔ながらの琵琶の海、
浪平らかに風和ぎて、
治まる御世の面影を
天に向つて示せども、
青き底なるうろくづに
菱の網目の迫るごと、
しげき悲みまつはりて、
渡り兼しか水とんぼ。
水より出でし物にして、
その水故に艱むとは、
世に生れ来し人々の
この世苦む如くにて、
尊とき釈迦が御教の
約束ごとか、如何なれば、
浅瀬の葦を飛びかはで、
この大わだに溺れけん。
比叡の御山は西にあり、
近江の富士はその東、
周囲七十五六里の
岸辺は遠きたヾ中や、
(1901年刊 『霜じも』より)

道草さん、ありがとうございます。

【おまけ】
岩野泡鳴(いわのほうめい)とはこちら
艱むとはこちら
蜻蛉とはこちら