『ギルバート・グレイプ』
再見。もう14年も前の映画なんだよね。光陰矢の如し。当時は劇場で観たはずです。
アイオワ州エンドーラ、隣近所の子どもも年寄りも保安官もファーストネームで呼びあうような田舎町に住むギルバート(ジョニー・デップ)は、昔ながらのドラッグストアに勤めるごく普通の青年。最近近くに大型スーパーができたせいで、店の客足はめっきり落ちこんでしまった。そんなドラッグストアでいつも配達を頼むベティー(メアリー・スティーンバージェン)は、夫の目を盗んではギルバートと関係を重ねている。
ギルバートの父は16年前に自宅の地下室で首を吊って死んだ。以来母(ダーレン・ケイツ)はひっきりなしに食べ続け、今では歩くのもままならないほど太っている。兄は町を出て家族を捨てた。姉(ローラ・ハリントン)が勤めていた小学校は火事で焼けてなくなった。18歳になる弟(レオナルド・ディカプリオ)には知的障害があり、給水塔に登る癖のせいで24時間目が離せない。妹(メアリー・ケイト・シェルハート)は15歳、思春期の難しい年頃だ。
ものの見事に全員揃った負け組一家。そんなグレイプ家の生活費を、ドラッグストア勤めの真ん中の男の子(ギルバートだ)がひとりで稼いでいる。自分は何がしたいのかわからない、どこへ行けばいいのかわからないというギルバート。当り前だ。彼の人生には夢をみる余裕なんかひとかけらもないのだ。
でも映画には暗さはまったくない。
それはそうだ。田舎くさいことや時代遅れなことに罪はない。夢がないこと、職がないこと、噂好きなことや食べるのが好きで太っていることにも罪はない。誰も悪くない。彼らは風が吹いて太陽が照るように、単にそこに生きているだけだ。穏やかに、寡黙に、時代に押しながされるに身を任せている。
広い広い大地の上に広がる大きな青空、乾いた草地をわたっていく風が自由なように、人の心はどこにも閉じこめられないのだ。
母や弟を笑いものにする人ももちろんいる。しかし決して笑わない人もいる。同情ではない。笑えないのだ。「いい人になりたい」というギルバートはじゅうぶんに「いい人」だし、誰もがそのことをよく知っている。ギルバートはとくに勇敢だったり理知的だったりはしない。ときには自虐的にもなるし捨て鉢にもなることもある。ただ現実から逃げることをせず、来る日も来る日もするべきことをもくもくとやってるだけのことだ。姉エイミイもそうだし、跳ねっ返りの妹エレンもそうだ。それぞれ必死にできるだけのことをして家族を支えている。だから彼らを少しでも知っている人間は、一家を笑うことなんかできない。それは人間としての礼節の問題なのだろう。
平和な田舎町にも時代の波がやってきて、少しずつ人々は変化を求められるようになっていく。グレイプ家にも変化はもちろん訪れる。弟はギルバートが背負えないくらい大きくなった。24歳にして一家の大黒柱であるギルバートに、街の保険屋(ケヴィン・タイ)は「備えはあるのか」と訊ねる。死んだ父が自分で建てた家は古くなって、あちこち補修が必要になってくる。一家は唯々諾々とそれらの変化を受け入れる。なにしろ彼らはそれが来るのをずっと待っていたのだ。
最初に観たときも泣いたけど、今観てもやっぱりいい映画だと思います。感動的。それも静かな静かな、深くやさしくしみてくるような感動。去年観た『孔雀』はこの映画にちょっとつながるところがあるなと思ったで?キ。中国版『ギルバート・グレイプ』=『孔雀』。みたいな。
出演者全員がすばらしい。ジョニー・デップとジュリエット・ルイスのひたすら抑えた演技も、ほとんど芝居に見えないほど自然なレオナルド・ディカプリオの無邪気さもいいけど、なんといっても圧巻なのは母親役のダーレン・ケイツ。太っている以上に、神の如く泰然自若とした存在感にはまったく恐れ入るというほかない。芝居とはまさに肉体表現そのものなのだなという認識を新たにさせられる。『グッド・ガール』でジェニファー・アニストンの愚直な夫を演じてたジョン・C・ライリーはまたいい人役。『グッド・ガール』ではペンキ屋で、今度は大工さん(転職するけど)。やさしいけどガテン系。こういう人いいなあ。ぐり好みです(笑)。
さっぱりと何もない草原をゆるやかに横切る砂利道と、その周辺にぱらぱらと田舎家の散らばる街の風景の撮り方も綺麗。
原作小説も前に読んでたけど、今度再読しようと思います。
原作レビュー:『ギルバート・グレイプ』 ピーター・ヘッジズ著
再見。もう14年も前の映画なんだよね。光陰矢の如し。当時は劇場で観たはずです。
アイオワ州エンドーラ、隣近所の子どもも年寄りも保安官もファーストネームで呼びあうような田舎町に住むギルバート(ジョニー・デップ)は、昔ながらのドラッグストアに勤めるごく普通の青年。最近近くに大型スーパーができたせいで、店の客足はめっきり落ちこんでしまった。そんなドラッグストアでいつも配達を頼むベティー(メアリー・スティーンバージェン)は、夫の目を盗んではギルバートと関係を重ねている。
ギルバートの父は16年前に自宅の地下室で首を吊って死んだ。以来母(ダーレン・ケイツ)はひっきりなしに食べ続け、今では歩くのもままならないほど太っている。兄は町を出て家族を捨てた。姉(ローラ・ハリントン)が勤めていた小学校は火事で焼けてなくなった。18歳になる弟(レオナルド・ディカプリオ)には知的障害があり、給水塔に登る癖のせいで24時間目が離せない。妹(メアリー・ケイト・シェルハート)は15歳、思春期の難しい年頃だ。
ものの見事に全員揃った負け組一家。そんなグレイプ家の生活費を、ドラッグストア勤めの真ん中の男の子(ギルバートだ)がひとりで稼いでいる。自分は何がしたいのかわからない、どこへ行けばいいのかわからないというギルバート。当り前だ。彼の人生には夢をみる余裕なんかひとかけらもないのだ。
でも映画には暗さはまったくない。
それはそうだ。田舎くさいことや時代遅れなことに罪はない。夢がないこと、職がないこと、噂好きなことや食べるのが好きで太っていることにも罪はない。誰も悪くない。彼らは風が吹いて太陽が照るように、単にそこに生きているだけだ。穏やかに、寡黙に、時代に押しながされるに身を任せている。
広い広い大地の上に広がる大きな青空、乾いた草地をわたっていく風が自由なように、人の心はどこにも閉じこめられないのだ。
母や弟を笑いものにする人ももちろんいる。しかし決して笑わない人もいる。同情ではない。笑えないのだ。「いい人になりたい」というギルバートはじゅうぶんに「いい人」だし、誰もがそのことをよく知っている。ギルバートはとくに勇敢だったり理知的だったりはしない。ときには自虐的にもなるし捨て鉢にもなることもある。ただ現実から逃げることをせず、来る日も来る日もするべきことをもくもくとやってるだけのことだ。姉エイミイもそうだし、跳ねっ返りの妹エレンもそうだ。それぞれ必死にできるだけのことをして家族を支えている。だから彼らを少しでも知っている人間は、一家を笑うことなんかできない。それは人間としての礼節の問題なのだろう。
平和な田舎町にも時代の波がやってきて、少しずつ人々は変化を求められるようになっていく。グレイプ家にも変化はもちろん訪れる。弟はギルバートが背負えないくらい大きくなった。24歳にして一家の大黒柱であるギルバートに、街の保険屋(ケヴィン・タイ)は「備えはあるのか」と訊ねる。死んだ父が自分で建てた家は古くなって、あちこち補修が必要になってくる。一家は唯々諾々とそれらの変化を受け入れる。なにしろ彼らはそれが来るのをずっと待っていたのだ。
最初に観たときも泣いたけど、今観てもやっぱりいい映画だと思います。感動的。それも静かな静かな、深くやさしくしみてくるような感動。去年観た『孔雀』はこの映画にちょっとつながるところがあるなと思ったで?キ。中国版『ギルバート・グレイプ』=『孔雀』。みたいな。
出演者全員がすばらしい。ジョニー・デップとジュリエット・ルイスのひたすら抑えた演技も、ほとんど芝居に見えないほど自然なレオナルド・ディカプリオの無邪気さもいいけど、なんといっても圧巻なのは母親役のダーレン・ケイツ。太っている以上に、神の如く泰然自若とした存在感にはまったく恐れ入るというほかない。芝居とはまさに肉体表現そのものなのだなという認識を新たにさせられる。『グッド・ガール』でジェニファー・アニストンの愚直な夫を演じてたジョン・C・ライリーはまたいい人役。『グッド・ガール』ではペンキ屋で、今度は大工さん(転職するけど)。やさしいけどガテン系。こういう人いいなあ。ぐり好みです(笑)。
さっぱりと何もない草原をゆるやかに横切る砂利道と、その周辺にぱらぱらと田舎家の散らばる街の風景の撮り方も綺麗。
原作小説も前に読んでたけど、今度再読しようと思います。
原作レビュー:『ギルバート・グレイプ』 ピーター・ヘッジズ著