落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

約束された場所で

2008年04月06日 | movie
『パレスチナ1948 NAKBA』

ジャーナリスト広河隆一が40年間にわたって記録したパレスチナ・イスラエル問題を、パレスチナ難民問題を中心にして描いたドキュメンタリー。
広河氏は大学卒業後の1967年にイスラエルに渡り、キブツと呼ばれる共同農場でボランティアとして働きながらヘブライ語を学んだ。ある日、彼はキブツの周りで廃墟と思しきものをみつけ、後にそれがダリアトルーハというパレスチナ人の村だったことを知る。
いっしょに働いていたイスラエル人たちの多くは子どもの頃にホロコーストを体験した人々だった。だがそのイスラエル人が、パレスチナ人が暮していた筈の土地を占拠している事実に、若い広河氏は衝撃を受けた。以後、彼はダリアトルーハ村の難民たちを捜しながら、イスラエルと周辺各国に散らばったパレスチナ難民を訪ね歩き、インタビューを続けた。

インタビューに登場するのはパレスチナ難民ばかりではない。
広河氏はキブツダリアを出た後、共産党を脱退した反シオニズム主義のイスラエル人団体「マツペン」に参加するのだが、その当時のメンバーで現在は弁護士や大学教授、歴史学者など知的階級の立場から政治活動を続けているイスラエル人たちも登場する。彼らは勿論、イスラエルの対パレスチナ政策には反対している。だが一般のイスラエル人だって平和を望んでいる。中には「イスラエルは神に約束された土地だ」といい張る右翼もいる。そーゆーのはどこの国にだっている。セツナイことに。けど大概の一般庶民は、殺しあいなんか望んではいない。平和に物事解決するんなら手段なんていくらも考えられるはずだと思っている。
この映画をみればみるほど、なぜイスラエルがこれほどまでに武力弾圧にこだわるのかがどんどんわからなくなる。世界中で差別され、虐げられ、家を故郷を追われ続けたイスラエル人が、どうして、なぜ、パレスチナ人に同じ仕打ちができるのだろう。
わからない。

劇中に登場するイスラエル在住のパレスチナ人がいう。
世界中の人たちがホロコーストには興味を持って語りあうのに、どうしてパレスチナ人の悲劇はみんなウソだといわれるの?と。
イスラエル人歴史家がいう。
自分はただ歴史を明らかにしたくて虐殺の事実を調べただけなのに、イスラエル人はみんな「どうして国の誇りを傷つけるような真似をするのか」と非難する、と。
パレスチナの問題だけじゃない。古今東西、すべての歴史は勝てば官軍、権力に都合のいいようにねじ曲げられて伝えられて来た。パレスチナ人がどこでどれだけ苦しめられていても、国際世論で真剣に問題視されることはあまりない。ニュースを賑わすのはいつも自爆テロだ。それが権力に都合がいいからだ。
映画では、占領がパレスチナ人の抵抗を生み、抵抗が弾圧を生み、弾圧が抵抗を激しくし、激しい抵抗がさらに激しい弾圧を生むといっている。つまりは占領が諸悪の根源なのだという。とはいってもイスラエルが建国されて60年、今さらはいどうぞと土地を返せるわけもない。でも他に解決策がないわけもないだろうと思う。ひとつだけいえることは、いつまでも殺しあいを続けているわけにはいかないということだ。そんなことやってたって何にも解決しない。

不寛容と無理解の地獄のスパイラルを、これほど明解に個人感情のレベルで表現したドキュメンタリーも珍しいのではないかと思う。
ぐり個人としては、この映画を単なるイスラエル・パレスチナ問題だけにとどまらず、世界中の侵略と暴力のひとつの例として観てほしいという気持ちはある。

関連作品:
『パラダイス・ナウ』
『ビリン・闘いの村』
『ミュンヘン』(原作:『標的は11人─モサド暗殺チームの記録』

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約束された場所で

2008年04月06日 | movie
『非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎』

去年日本でも回顧展が催された画家ヘンリー・ダーガーの伝記映画。
画家といってもダーガーの場合、作品を生前どこへも発表しなかったので、彼本人についてわかる情報は量的には非常に貧しい。なのでこの映画では、彼の書いた小説「非現実の王国で」を彼の挿絵を使ってアニメーション化し、そのハイライトシーンと、これまでの研究でわかっている生立ちや生前の彼を知る人々のインタビューを交互に重ねあわせるようにして構成している。
だからこの映画は、ダーガーの伝記であると同時に小説「非現実の王国で」の映画化作品でもある。

ダーガーについては以前にも何度かここで触れているが、この映画を観ると、いかに彼の生涯が謎だらけで、どれほどその謎が深いかを改めて感じさせられる。
たとえば、過去にぐりが読んだ資料には、ダーガーには言語に軽い障害があったために知的障害児の施設に入れられてしまったと書かれていたが、ダーガー自身の見解はまったく違っている。ダーガーが従順な子どもではなかったことから、施設の方は厄介払いのつもりで障害児施設へ送りこんだらしい。まだ「子どもの人権」などという概念が確立される以前の時代の話だから、ありえないことではないだろう。極端な人嫌いや自閉的な性格はこの施設での虐待から形成されたもののようだ。
それと、彼の作品が死ぬまで他者の目に触れることがなかったというよく聞く煽り文句も真実ではない。晩年、ダーガーはそれまで住んでいたラーナー夫妻のアパートを出て救護院に移るのだが、その後、ダーガーの了承を得て部屋を片づけた夫妻と近所の人は膨大な量のコレクションと作品群を目にして驚愕する。救護院にダーガーを見舞った近所の青年はこの発見について賞賛したのだが、ダーガー本人は「もう遅い、手遅れだ」としか答えなかったという。

切り抜きやコラージュやスクラップブックや紐の糸玉などなど、彼の部屋は町中のゴミ捨て場から拾い集めたコレクションと、それらから編み出した作品群でぎっちりと埋まっていた。それらは現在、スイスのアール・ブリュット収集館で見ることができるのだが、ダーガーはアパートを出てそれらの「財産」から引き離されたのが悲しくて淋しくてしかたがなかったらしい。
彼は確かに変わった人だったが、養子を欲しがったり犬を飼いたがったり、人としての愛情という感覚はごく当り前に備えた人でもあった。唯一の友の死を嘆き悲しんだり、幼くして死んだ子どもの新聞記事を大切にとっておいたり、他人の不幸に共感する気持ちももっていた。
だから、81年間の生涯をたったひとりぼっちで、家族も友人もなく誰にも愛されることなく暮した天涯孤独の人生が淋しくなかったはずはないと思う。どれほど淋しかったかはまったく想像はつかないけれど。
それなのに、彼は身近な人々にその淋しさを訴えるということをいっさいしなかった。なぜだろう。やっぱり謎は謎のままだし、それほど深い謎につつまれた彼の生き方こそが、「非現実の王国」そのものなのだろう。

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