落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

川のそばの学校で

2017年03月16日 | book
『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』 池上正樹/加藤順子著

<iframe style="width:120px;height:240px;" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" frameborder="0" src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?ref=qf_sp_asin_til&t=htsmknm-22&m=amazon&o=9&p=8&l=as1&IS1=1&detail=1&asins=4591137066&linkId=e7b82599f52c471e6f911833c87b7fcd&bc1=ffffff&lt1=_top&fc1=333333&lc1=0066c0&bg1=ffffff&f=ifr">
</iframe>

東日本大震災で全校生徒108名中74名が犠牲になった石巻市立大川小学校の悲劇を取材し続け、2012年に『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』を刊行したジャーナリストによるその後の検証委員会の模様を記録したルポルタージュ。

2011年の春。最初に大川小学校を訪問したとき感じた違和感が、初めはなんなのかわからなかった。
目にした風景があまりに異様だったからかもしれない。
見渡す限りいちめん泥と瓦礫と化し、満潮になると冠水してしまうほど地盤沈下が進んだ町。
その後、瓦礫がかたづけられてからやっと、その違和感が何なのかはっきりわかった。海抜がものすごく低いのだ。
実をいうと、私自身が通った中学校と高校も海に近い、川のすぐそばに建っていた。中学が西岸で高校が東岸のほぼ向かい合わせ、どちらもそれこそ校舎の窓から堤防がみえるくらいの距離。自宅はもう少し川幅の狭い別の川の近く。もともと農耕地を開発した新興住宅地でそこら中が用水路だらけだったために、大雨が降るとしょっちゅう洪水で家は浸水していた。
それでもそのあたりの海抜はせいぜい5〜6メートル。一方で大川小学校があった石巻市釜谷地区の海抜はわずか1メートル。毎年台風がくる地方で育った人間の目に、その低さが“違和感”としてうつったのだ。
結局両親はその家を手放し、いまは洪水のこない地域で暮している。売った家には阪神淡路大震災で被災された方が住んでいる。



大川小学校は海岸から4キロ上流にある。津波がくるといってもにわかに危機感を感じるような距離ではないかもしれない。
でも川はすぐ目の前にあった。地震や津波という以前に、もっとひろく災害に敏感でもよかった環境だ。2008年には貞観津波がこの地域にも到達していたという指摘もあった。
よしんばこんな大災害があってもなくても、急斜面の山と大きな川にどら焼きのあんこよろしくぴったり挟まれた小学校で、防災マニュアルもろくに周知されず二次避難場所すら決められず、校長が留守だというだけで、教職員の誰もリーダーシップをとって予防原則に従って行動することができなかった原因は、ひとえに「子どもの命と安全をまもる」という学校の使命が軽視されていたからなのは明らかな事実だろう。
そもそもこの悲劇は学校管理下で起こった。だから責任の所在は学校にある。議論の余地はない。災害だから仕方がないという理屈は通らない。もっと危険な場所の他の学校でさえ、児童全員を避難させることができたのだから。なのにその責任を、学校も石巻市教育委員会も認めないから、文科省が出てきて第三者検証機関が設置された。
さて問題はその検証の目的である。

教育委員会が責任を認めないなら、第三者である検証委員会が認めさせてくれる、認めざるを得ない証拠を突きつけてくれるだろう。遺族ならそう期待するのが人情である。そのためのはたらきかけにも彼らは決して妥協はしなかった。
しかし音頭をとるのは文科省だから、行政の責任を認めるなんてことはハナからしない。日本の官僚組織でそういうことはまず起こらない。みるからにまともそうな面子を綺麗に揃えて、たっぷりとお金と時間をかけて彼らがやったことといえば、「第三者が公正を期すために」遺族が血の涙を流しながら1年かけて拾い集めた事実をぜんぶ御破算にして、「ゼロベース」で行政にとって都合のいい“検証委員会”ごっこをすることだった。それが彼らが目指した“検証”だった。費やされた1年という時間と5700万円という血税は、ただ遺族の心を袋叩きに傷つけ疲弊させただけだった。

石巻市でも河北地域という中心部からクルマで1時間も離れた過疎地の人々と、中央行政の官僚が対峙するのは並大抵のことではない。
震災関連だがべつの問題でそうした場でたたかってきたある被災者の方と話す機会があったとき、彼は「ふつうそういう場に共通言語はない。対等な議論なんか成り立たない」と発言した。まあそうだろうと思う。暮してる世界が違うんだから。
それでも遺族は負けなかった。折れなかった。その激しい相克には、心から敬意を感じる。そして二度と抱きしめることができない子どもたちへの深く熱い愛と、親としての矜持を感じる。
だがそれはそれとして、官僚はやはり官僚でしかない。行政の責任なんかどう転んだって認めないのだ。誰が貶められようが虐げられようが、そういうことに意味はないのだろう。
ではいったい誰が、これだけ災害の多い国の子どもたちを、人の命をまもってくれるというのだろう。
そういう国で、安心して子どもを生み育てられる人が、どこにいるだろう。
わざわざテロや戦争なんて話をひっぱりださなくても、日本という国に危機はいくらでもある。そういう日常的な危機のもとで、いったい何を信じればいいのか。
遺族は愛する我が子の死の責任を通して、そのことを問うているのだ。

検証委員会が終わった直後の2014年3月10日、遺族は県と市を相手に損害賠償訴訟を起した。教育委員会も文科省もだめなら、裁判で真実を明らかにしたいからだ。
去年10月、仙台地裁は学校側の過失を認定し県と市が敗訴したが、両者はすぐ控訴している。議会では傍聴席から市民の抗議を浴びながら控訴が決議されたという。
悲しすぎる。
地震の後で降り出した雪の中を襲ってきた津波。どんなに寒くて、つめたくて、怖かったことか。
子どもたちや教職員の命が奪われただけでも悲しいのに、そこで決して起きてはいけないことが起こっていた事実を何がどうあっても必死に隠蔽しようとする、この国のしくみがあまりにも悲しすぎる。
検証委員会が最終的にまとめた提言がどれだけ立派でも、そこにほんとうに起こった重大な過失の事実がともなわなければ、そんなもの絵に描いた餅にしかならない。10年もすればみんな忘れてしまう。

でも絶対に、忘れちゃいけないことも、あるのだ。

関連記事:
『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』 池上正樹/加藤順子著

大川小学校津波訴訟
大川小学校を襲った津波の悲劇・石巻
大川小学校の悲劇 検証・大川小学校事故報告 検証はまだ終わっていない 東日本大震災4年

復興支援レポート