講演会「小さな命の意味を考える~大川小事故6年間の経緯と考察」
スピーカーは大川小学校で亡くなった故・佐藤みずほさん(当時6年生)の遺族・敏郎さん。
2011年3月19日の、当時勤めていた女川第一中学校の卒業式の記念写真を見せてくださる。
予定では12日だった卒業式が延期になって、19日。卒業式といっても教師も生徒たちも着の身着のまま、それでもカメラに向かって笑っている。
前日の18日は大川小学校の卒業式が予定されていた。敏郎先生の次女・みずほさんはピアノが得意で、卒業式でも伴奏を担当することになっていて、自宅でもよく練習していたという。
その18日に、みずほさんの遺体を火葬した。
敏郎先生は中学教師だった。
女川第一中学は高台に建っていたが全校生徒を連れて避難し、一人も犠牲者を出していない。
あの日は勤務先にいて自宅には戻れず、必死に訪ねてきた家族と再会してみずほさんの訃報を耳にしたのは13日のことだったという。聞いてもなんのことだか理解できず、アタマが真っ白になったという。
以後は学校と教育委員会の説明会、検証委員会と、遺族の中心となって行政とのやり取りに奔走してこられた。「子どもがいれば、学校行事やら部活の大会なんかにいくでしょ。そんな感覚です」と笑っておっしゃった。
あの未曾有の大災害で、学校管理下で子どもが犠牲になったのは大川小学校ただ一校である。
だからそれを「仕方がなかった」でかたづけるべきではないと敏郎先生はいう。
大川小学校は海から3.8キロ内陸の北上川沿い。川下の長面地区には10万本の松原が広がっていた。津波でなぎ倒された大木は残らず引き抜かれて北上川を逆流、川幅500メートルの新北上大橋にひっかかって巨大なダムになった。そこにぶつかった津波は高さ10メートルの黒い水の壁になり、堤防を潰して釜谷の町を小学校ごと飲みこんだ。
10メートルの津波に巻き込まれて逃げられる人間なんかいない。その光景を目にして、先生たちは何を思ったか。亡くなった先生たちも子どもたちをまもりたかったはず。無念だったはず。その無念を、無駄にしたくないという。
なぜか津波が来る方向に避難した先生と子どもたちがすり抜けたという、校庭のフェンスのたった70センチの隙間。74人の子どもたちと10人の先生が生きてここを通ったときのことを、考えるのだという。
親なら誰しも「学校では先生のいうことをよく聞くんだよ」と子どもにいうだろう。ごく一般的に。
大川小の子どもたちは先生のいうことを聞いていて命を落とした。教師でもある敏郎先生は「先生のいうことをきかなければ助かったのに」という言葉がとてもつらかったという。
学校は子どもの命を預かる場所なのに、学校なら安心だと誰もが思う場所なのに、大川小は最悪のその瞬間、機能しなかった。そこに「学校が陥りがちな過ち」が存在するはずである。それを明確にしない限り、いつかどこかで同じ悲劇は起こってしまうだろう。それを食い止めなければ、亡くなった先生や子どもの犠牲は決してむくわれない。
敏郎先生によれば、大川小学校はあまりにも平和過ぎたのかもしれない。田舎の小さな綺麗な学校。行事の保護者の参加率は100%、地域の誰もが愛した小学校だった。その平和が学校経営の甘さになり、落とし穴になったのかもしれない。防災マニュアルは子どもの命を救うためではなく、書いて戸棚に置いておくため、教育委員会に提出するためだけのものだった。書いた教諭自身の証言がそれを物語っている。
そもそも人の想定には限界がある。犠牲が出るような災害はいつも想定外だから、想定外のときにこそ学校経営の軸の強さが問われてしまう。
事後の学校側や教育委員会の対応については、敏郎先生は努めて感情を排して語ってくださった。
ご自身も教師で教委の方々のことはよくご存知なのだろう、スクリーンに説明会時の画像を写しては「この人いい人なんですよ、いい先生なんです、でも」といちいち注釈を挟んでくださったが、遺族にきちんと向きあおうとせず、嘘や捏造や隠蔽を繰り返し、子どもの命をまんなかに置いて話しあいたいと自ら歩み寄ろうとする遺族すら平気で裏切られた無念さは、どうしてもにじんで聞こえてしまった。
続く検証委員会では、遺族が必死に集めて提供した情報は委員に伝わらず、聞き取りとは名ばかりの誘導的なパフォーマンスに終始し、遺族に批判された委員は体調不良で欠席ばかり、最後には半数程度しか参加していなかったという。結果的に出された「提言」は大川小学校とはまったく無関係で、遺族も誰も望まないものだった。子どもの命の話にならない“検証”とは、いったい何のための検証なのか。
最後に敏郎先生は、どこにでも、あのときの“大川小学校の校庭”は存在するとおっしゃった。
おそらくそれは、ご自身の経験からの発言なのだと思う。
他の学校では、逃げよう、いやここにいようという議論があって、喧嘩してでも子どもを連れて逃げて、難を逃れている。
その議論が、喧嘩が、大川小学校ではできなかった。
それを責めたり裁いたりするのではなく、「なぜ」と問い続けるべきだという。
かくしたり誤摩化したりするのは、意味がない。
それでは、亡くなった子どもたちや先生方の犠牲は、なんのための犠牲だったのか。
終盤に2年生の担任教諭の遺族・佐々木奏太くん(宮城教育大学2年)もお話された。
同じ教諭遺族からの批判もうけながら児童遺族と交流し、語り部の活動も始められている。その勇気が、痛々しかったです。
以下質疑応答ダイジェスト。
Q.生存者の“A教諭”は?
A.彼は決して不幸になってはいけない。不幸にしてはいけない人。
海辺の学校を赴任してきて、自然科学が得意な、子どもに人気の先生だが、いまも休職中で誰もあえない。敏郎先生はアプローチしたこともあり、教諭自身も会いたがっていたということだが、会えなかった。
ところが裁判で学校側が敗訴すると「証言してもらわなくては」という発言が教委から聞かれた。A教諭は“道具”じゃないのに(激怒)。
Q.学校のそばの“しいたけ山”に立派な「立入禁止」看板があるが?
A.私有地なのに、石巻市が所有者に無断で建てた。
所有者はひとつ下の後輩(被災していまは別の場所にお住まい)。
Q.敏郎先生は記者会見に出るにあたって職場周辺に“根まわし”をされ「存分にやってこい」といわれたというが、女川教委とは何が違う?
A.初め遺族の間でも「敏郎さんは先生だから」と前に出さないように忖度してくれていたが、2012年6月にそれまで隠されていた資料の存在が明らかになり「まんなかに座ってやってよ」という声が高まった。前日まで悩んで、教委や部活関係やPTAなど20軒ほどに電話して事情を説明したところ、全員口を揃えて「気にするな」といってくれた。
それで会見場にいったら、目の前に座っているのは自宅に取材に来て母親のつくった食事を食べていた記者ばかりだった。だから血の通った会見ができたと思う。
根本的には教委はどこも同じ。立場が違うだけ。
Q.佐々木奏太くんへの質問。教員になろうとする意志の障害はあるか。
A.宮教大は教委との結びつきが強く、大学内でも大川小の件はタブーになっている。教員は断念し、他の道に進むつもりでいる。
奏太くんの活動をうけて大学の姿勢にも変化が見られるという。
Q.遺族は54家族だが提訴にふみきったのは19家族、その差は。
A.教委の説明や検証委員会に疲れ、心折れてしまった遺族もいるなかで、19家族は多いと思う。それでもさまざまな葛藤があって、提訴は時効の1日前だった。原告家族には「金目当て」と陰口をいわれるなどの差別もある。ちなみに敏郎先生は原告団には加わっていないが、原告団家族や弁護士との交流はある。
大川小を何度か訪問し、資料も読んでいたけどそれでも盛りだくさんの講演だった。
個人的に感じてきた疑惑が、ご遺族の言葉を聞いてやはり思い違いではなかったという感覚を得ることもできた。
これはやはり災害というより事故だし、事故であるなら原因があるはずで、それはつきとめて明らかにされなくてはならないものだと思う。
次は現地で始まった語り部の活動に参加してみたいです。
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予定では12日だった卒業式が延期になって、19日。卒業式といっても教師も生徒たちも着の身着のまま、それでもカメラに向かって笑っている。
前日の18日は大川小学校の卒業式が予定されていた。敏郎先生の次女・みずほさんはピアノが得意で、卒業式でも伴奏を担当することになっていて、自宅でもよく練習していたという。
その18日に、みずほさんの遺体を火葬した。
敏郎先生は中学教師だった。
女川第一中学は高台に建っていたが全校生徒を連れて避難し、一人も犠牲者を出していない。
あの日は勤務先にいて自宅には戻れず、必死に訪ねてきた家族と再会してみずほさんの訃報を耳にしたのは13日のことだったという。聞いてもなんのことだか理解できず、アタマが真っ白になったという。
以後は学校と教育委員会の説明会、検証委員会と、遺族の中心となって行政とのやり取りに奔走してこられた。「子どもがいれば、学校行事やら部活の大会なんかにいくでしょ。そんな感覚です」と笑っておっしゃった。
あの未曾有の大災害で、学校管理下で子どもが犠牲になったのは大川小学校ただ一校である。
だからそれを「仕方がなかった」でかたづけるべきではないと敏郎先生はいう。
大川小学校は海から3.8キロ内陸の北上川沿い。川下の長面地区には10万本の松原が広がっていた。津波でなぎ倒された大木は残らず引き抜かれて北上川を逆流、川幅500メートルの新北上大橋にひっかかって巨大なダムになった。そこにぶつかった津波は高さ10メートルの黒い水の壁になり、堤防を潰して釜谷の町を小学校ごと飲みこんだ。
10メートルの津波に巻き込まれて逃げられる人間なんかいない。その光景を目にして、先生たちは何を思ったか。亡くなった先生たちも子どもたちをまもりたかったはず。無念だったはず。その無念を、無駄にしたくないという。
なぜか津波が来る方向に避難した先生と子どもたちがすり抜けたという、校庭のフェンスのたった70センチの隙間。74人の子どもたちと10人の先生が生きてここを通ったときのことを、考えるのだという。
親なら誰しも「学校では先生のいうことをよく聞くんだよ」と子どもにいうだろう。ごく一般的に。
大川小の子どもたちは先生のいうことを聞いていて命を落とした。教師でもある敏郎先生は「先生のいうことをきかなければ助かったのに」という言葉がとてもつらかったという。
学校は子どもの命を預かる場所なのに、学校なら安心だと誰もが思う場所なのに、大川小は最悪のその瞬間、機能しなかった。そこに「学校が陥りがちな過ち」が存在するはずである。それを明確にしない限り、いつかどこかで同じ悲劇は起こってしまうだろう。それを食い止めなければ、亡くなった先生や子どもの犠牲は決してむくわれない。
敏郎先生によれば、大川小学校はあまりにも平和過ぎたのかもしれない。田舎の小さな綺麗な学校。行事の保護者の参加率は100%、地域の誰もが愛した小学校だった。その平和が学校経営の甘さになり、落とし穴になったのかもしれない。防災マニュアルは子どもの命を救うためではなく、書いて戸棚に置いておくため、教育委員会に提出するためだけのものだった。書いた教諭自身の証言がそれを物語っている。
そもそも人の想定には限界がある。犠牲が出るような災害はいつも想定外だから、想定外のときにこそ学校経営の軸の強さが問われてしまう。
事後の学校側や教育委員会の対応については、敏郎先生は努めて感情を排して語ってくださった。
ご自身も教師で教委の方々のことはよくご存知なのだろう、スクリーンに説明会時の画像を写しては「この人いい人なんですよ、いい先生なんです、でも」といちいち注釈を挟んでくださったが、遺族にきちんと向きあおうとせず、嘘や捏造や隠蔽を繰り返し、子どもの命をまんなかに置いて話しあいたいと自ら歩み寄ろうとする遺族すら平気で裏切られた無念さは、どうしてもにじんで聞こえてしまった。
続く検証委員会では、遺族が必死に集めて提供した情報は委員に伝わらず、聞き取りとは名ばかりの誘導的なパフォーマンスに終始し、遺族に批判された委員は体調不良で欠席ばかり、最後には半数程度しか参加していなかったという。結果的に出された「提言」は大川小学校とはまったく無関係で、遺族も誰も望まないものだった。子どもの命の話にならない“検証”とは、いったい何のための検証なのか。
最後に敏郎先生は、どこにでも、あのときの“大川小学校の校庭”は存在するとおっしゃった。
おそらくそれは、ご自身の経験からの発言なのだと思う。
他の学校では、逃げよう、いやここにいようという議論があって、喧嘩してでも子どもを連れて逃げて、難を逃れている。
その議論が、喧嘩が、大川小学校ではできなかった。
それを責めたり裁いたりするのではなく、「なぜ」と問い続けるべきだという。
かくしたり誤摩化したりするのは、意味がない。
それでは、亡くなった子どもたちや先生方の犠牲は、なんのための犠牲だったのか。
終盤に2年生の担任教諭の遺族・佐々木奏太くん(宮城教育大学2年)もお話された。
同じ教諭遺族からの批判もうけながら児童遺族と交流し、語り部の活動も始められている。その勇気が、痛々しかったです。
以下質疑応答ダイジェスト。
Q.生存者の“A教諭”は?
A.彼は決して不幸になってはいけない。不幸にしてはいけない人。
海辺の学校を赴任してきて、自然科学が得意な、子どもに人気の先生だが、いまも休職中で誰もあえない。敏郎先生はアプローチしたこともあり、教諭自身も会いたがっていたということだが、会えなかった。
ところが裁判で学校側が敗訴すると「証言してもらわなくては」という発言が教委から聞かれた。A教諭は“道具”じゃないのに(激怒)。
Q.学校のそばの“しいたけ山”に立派な「立入禁止」看板があるが?
A.私有地なのに、石巻市が所有者に無断で建てた。
所有者はひとつ下の後輩(被災していまは別の場所にお住まい)。
Q.敏郎先生は記者会見に出るにあたって職場周辺に“根まわし”をされ「存分にやってこい」といわれたというが、女川教委とは何が違う?
A.初め遺族の間でも「敏郎さんは先生だから」と前に出さないように忖度してくれていたが、2012年6月にそれまで隠されていた資料の存在が明らかになり「まんなかに座ってやってよ」という声が高まった。前日まで悩んで、教委や部活関係やPTAなど20軒ほどに電話して事情を説明したところ、全員口を揃えて「気にするな」といってくれた。
それで会見場にいったら、目の前に座っているのは自宅に取材に来て母親のつくった食事を食べていた記者ばかりだった。だから血の通った会見ができたと思う。
根本的には教委はどこも同じ。立場が違うだけ。
Q.佐々木奏太くんへの質問。教員になろうとする意志の障害はあるか。
A.宮教大は教委との結びつきが強く、大学内でも大川小の件はタブーになっている。教員は断念し、他の道に進むつもりでいる。
奏太くんの活動をうけて大学の姿勢にも変化が見られるという。
Q.遺族は54家族だが提訴にふみきったのは19家族、その差は。
A.教委の説明や検証委員会に疲れ、心折れてしまった遺族もいるなかで、19家族は多いと思う。それでもさまざまな葛藤があって、提訴は時効の1日前だった。原告家族には「金目当て」と陰口をいわれるなどの差別もある。ちなみに敏郎先生は原告団には加わっていないが、原告団家族や弁護士との交流はある。
大川小を何度か訪問し、資料も読んでいたけどそれでも盛りだくさんの講演だった。
個人的に感じてきた疑惑が、ご遺族の言葉を聞いてやはり思い違いではなかったという感覚を得ることもできた。
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