落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

Life can only be understood backwards, but it must be lived forwards.

2017年03月23日 | movie
『アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発』

アメリカ生まれの心理学者スタンレー・ミルグラム(ピーター・サースガード)は同朋でもあるユダヤ人を虐殺したアイヒマンの裁判に触発され、「権威への服従実験」で人が権威の前で自らの人間性をいかに否定するかを調査、発表。
その実験方法をめぐって、被験者に実験目的を偽って虐待を強制したなどという批判が相次ぐ。
いまも議論が続く通称“アイヒマン実験”で有名なミルグラム博士の伝記映画。

原題は『Experimenter(実験者)』。
邦題が内容全部説明しちゃってますね。どーなのそれ。アウトやろ。
実をいうとタイトル聞いて観ようとは思わなかったんだよね。予告編をたまたま観たから観たくなったけど、でなかったら観なかった。アカンやろそれ。
最近の海外作品の邦題はマジでひどい。こないだ観た『未来を花束にして』とか『ブラインド・マッサージ』もセンスなさすぎる。『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』なんか古過ぎてまいります(そういやこれなんでレビュー書かなかったんだろー。まあまあおもろかったんやけど)。海外作品の興行が厳しくてつい無難な邦題にしちゃいがちなのもわかるけど、なんというか愛がないよ。

閑話休題。
登場人物が少なくて、研究者の内面に極端にフォーカスした物語なのでものすごく戯曲っぽいです。ていうかむしろ舞台で観てみたい。とっても。舞台で観たらめっちゃゾクゾクしそう。誰かやらないかな(やるんだろうな)。
とはいえ主人公のミルグラムは常に平常心。ビックリするぐらい動じない。実験結果がどんだけ衝撃的でもぴくとも驚かない。台詞では「エキサイティング」とかいってんのに、顔ではまったくエキサイトしてない。いつなんどきもちょーーー淡々としてます。
実際の博士がどんな人だったかはわからないけど、この演出のせいで、被験者や協力者や学生たちのパーソナリティが却ってひきたって人間的にみえる仕掛けになっている。ロボみたいに冷静沈着なマッドサイエンティストVSマトモなフツーの人々、みたいな。だからこそ、そういうマトモなフツーの人々が、マトモじゃない状況に放り込まれたらどうなるか?という実験がサスペンスフルに感じられるワケです。やるね。
ただそれだけだとさすがに博士がマジでヤバいマッドサイエンティストになっちゃうので、綺麗なワイフ(ウィノナ・ライダー)やら子どもたちが出てきて、ちょこちょこラブなシーンがはさみこまれる。そういうときは博士もとってもマトモなフツーの人として描かれる。アクセントです。

この“アイヒマン実験”はいまでも批判されることがあるらしいけど、個人的にはなにがいけないのかよくわからない。
確かに博士は被験者を騙したけどそもそも社会実験とはそういうものだし、実験後に事情を説明して被験者に了解を得てデータを使用しているし、アフターケアもしている。被験者が批判するのならわかるけど(不満ならいくらでも不満をいう権利がある)、それ以外の誰が何をいう権利があるのだろう。どこがそんなに倫理にもとるのか。謎。
それよりもこの実験の価値は人類にとって非常に大きな意味があるはずだ。この実験が導きだした結論は、高度に社会化された現代社会のもとでの人間性の危うさを実に克明に証明している。自分のアタマで考えない、まわりがそうするから、誰かがそういったから、という曖昧な理由でどんな行為も正当化できてしまう“思考停止”のリアリティとその確実な危険性を、ミルグラム博士ははっきりと暴露した。
そんなこと暴露されたくない人もいるかもしれない。けど少なくとも、誰もがそんな残虐性をもっているのにほんとうはそんなものいつでも否定できることを気づかせてくれる、人が自分の人間性を自分の手で取り返すことができる、そういう可能性を教えてくれるという意味でも、とても大事な研究だと思う。

主人公が画面越しに観客に話しかけてくるという最近流行りの刑事コロンボ・スタイルがすごく自然でよかったけど、ピーター・サースガードの鉄仮面はちょっと永らく眺めてると疲れてくるね。
ウィノナ・ライダーは一見誰だかわかんなかったです。こんな落ち着いた知的マダム役がしっくりくる人だとは意外でした。
とりあえず舞台版がめっちゃ観たい。主演はえーと、そうだなー、竹中直人とかどうでしょう。中井貴一とかもいいかも。

関連レビュー:
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『敵こそ、我が友 戦犯クラウス・バルビーの3つの人生』