落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

母の物干しロープ

2019年12月08日 | play

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アメリカ・ミルウォーキーで写真屋を営むアラム(眞島秀和)は、仲介業者を通じて故郷アルメニアから呼び寄せた孤児のセタ(岸井ゆきの)を妻に迎える。だが亡母の形見の抱き人形を手放そうともしないわずか15歳の少女と、早く子どもをもうけて失った“家族”を取り戻すことに執着する夫との溝はいっこうに埋まらない。
あるときセタが近所で出会った孤児のヴィンセント(升水柚希)を家に入れたことから、アラムが記憶から消し去ろうとしていた過去が暴かれ・・・。
2001年にモリエール賞を受賞した戯曲の日本再演。紀伊國屋ホールでの鑑賞。

そもそも赤の他人が家族になることがいくら何千年も引き継がれてきた当たり前の習慣だとしても、それが誰にとっても決して簡単ではなく、あらゆる努力や妥協や苦悩をともなう現実は、いつのどの時代のどこの国でも変わらない。
ところが結婚といえばすなわちおめでたいこと、一生を添い遂げようと決心することができる相手がいることは幸運だという認識も、同じように、いつのどの時代のどこの国でも変わらない。
それは、家庭を築き命を引き継いでいくという宿命を背負う人が生き物として、刷込みとして本能的に備えていなくてはならない感覚なのだろう。まるで、ひよこが初めて見た動くものを親と思いこむみたいに。

物語の最初から、アラムとセタが結婚に求めているものは180°異なっている。
アラムにとってそれは、信仰に篤く厳格だった両親のような夫婦像をそのままなぞることが至上命題だった。セタにとっては、ひとりの身寄りもなく身の安全も保障されないアルメニアから逃れるための手段だった。そして彼らは互いに天涯孤独だった。
どこまでいってもただふたりきりの彼らには、妻がいうことを聞いてくれない、なかなか子どもができない、夫と心が通わない、そんなありふれた悩みを気楽に打ち明けられるような存在すらいっさいもたなかった。

セタは何度もなんども、夫に向かって「感謝している」「私は運がいい」という。そのセリフには、観る者の心を真剣で繰り返し突き刺してくるような痛みがあった。
150万人ともいわれるアルメニア人が虐殺され、トルコ領内のほとんどのアルメニア人が故郷も家族も何もかもを失った。ただ殺される、砂漠に追いやられるなどといった言葉では片づけられないほどの究極の暴力の絶え間ない嵐を乗り越え、いま生きていて、トルコ軍が襲ってくる心配のないアメリカにいて、勤勉に働いている夫がいる。彼は妻への贈り物さえ欠かさない。当たり前に雨風をしのぐ家もあれば満足な食事も清潔な衣類にも事欠かない。確かにセタは運がいい。彼女をアルメニアから連れ出して妻として娶ったアラムに感謝の念を抱いて当然だろう。
それでも彼女も、夫も、ひたすら心から血を流し続けなくてはならない。どんなに忘れたくても忘れられない暴虐の記憶だけが彼らを傷つけているのではない。たとえ伴侶がすぐそばにいても、まっすぐに向かいあい、心の底からぴったりと寄り添いあえない孤独は、愛情のほかの何をもっても埋めることができないのだ。
そして、人と人とがそのようなあたたかい愛情関係に至るのはそう容易いことではない。互いに心に深い傷を負っていればこそ、なおさらそれが高い壁になってしまうこともある。

偶然だが、私の祖父母はちょうどアラムやセタと同世代にあたる。
アラムやセタの家族が殺されたアルメニア人虐殺事件が起きた時代、祖父母の故郷・朝鮮は日本の侵略をうけていた。ふたりは互いを知ることなく家族間のとりきめで結婚し、まもなく生活の糧を得るために玄界灘を渡り日本にやってきた。何世代も受け継いできた一族の資産は、土地も家も家具調度や蔵書、装身具や什器ですら、そのころには何ひとつ残されてはいなかった。日本の侵略がなければ祖父母が故郷を捨てることはなかっただろうし、私はいまここには生きていない。ほかに選択肢はなかったのだ。
人が移民として故郷を離れ国境を渡るのに、それ以外の理由はない。他に選択肢がない。その結果を幸運といってしまうのはやさしい。だがそんな運命への“評価”が、どんなにつらくても苦しくても逃げることのできない呪縛になってしまうこともあるとしたらどうだろう。

アラムは厳格だった祖父によく似ていて(祖父もとても背の高い人だった。写真が好きだった)、小柄で料理上手なセタは働き者で誰よりも善良で高潔だった祖母(身長130センチの身体で10人の子どもを生み育てた)を思い出させた。
舞台を観ていて、猛烈に彼らに会いたくなった。涙が止まらなかった。
悲しくなったわけではない。
もう二度と会えない彼らを、力いっぱい抱きしめてあげたくなったのだ。
そして、それほどの苦難を乗り越えて生き抜いた彼らへの深い深い感謝と敬意が、改めて心の底から溢れてきた。
そう思わせてくれた祖父母をもつ私自身は間違いなく恵まれているし、今日、この舞台を観ることができた幸運にも、やはり感謝したいと思う。

アラムを演じた眞島秀和は、旧態然とした家父長制時代の男性像こそが真の男らしさと信じて疑わないキリスト教徒役にぴったりで、どこかで演出の栗山民也が彼がいたから再演を決めたと語っていたように、眞島秀和をおいて他にこのキャラクターを演じられる役者はいまの日本にはまずいない、と全力で断言できるほどのはまり役。ただ頑ななだけでなく、自ら御しかねるほどの悲しみを抱きしめて硬い殻に閉じこもった少年のような痛々しさも、同時によく伝わってくる。
妻セタを演じる岸井ゆきのの説得力も凄かった。離れたかった孤児院、幸せだった家族の思い出、一家に起きた不幸としか呼べない出来事に対しても常にまっすぐに素直であるからこそ、そうはなれない夫を理解できず苦しむ健気さを秘めた心の強さが、劇場の空気全体をびりびりと震わせているように感じた。

出演陣は「普遍的な家族の物語」だと説明しているけど、そうした説明から連想しやすい安直な甘さはまったくない。
だが葛藤を乗り越えた先にしか見いだせない光もある。
その旅路の伴侶の手を握りしめて、相手のほのかな体温を宝物にできることの僥倖を、とにかく丁寧に描いた戯曲でした。名作、傑作だと思います。


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