*ネタバレが不快な方は読まないでください。
空襲の夜、眞人(山時聡真)は入院中の母を火災で亡くす。父(木村拓哉)が経営する軍需工場とともに母方の郷里に疎開すると、母の妹で父の再婚相手の夏子(木村佳乃)が待っていた。彼女はすでに父の子を身篭っていた。
眞人がひとりになると、一家の屋敷の庭に住む“覗き屋の青鷺”(菅田将暉)がひそかに「母君のご遺体を見ていらっしゃらないでしょう。あなたの助けを待っていますぞ」と囁く。ある夕方、つわりで寝こんでいたはずの夏子が屋敷から姿を消し、眞人は手製の弓矢を携えて彼女を探しに、屋敷の庭に建つ“塔”の中に踏み込む。
子どものころ住んでいた家の周りには、水田が広がり、小さな山があって川が流れていて海も近くて、一年中、さまざまな野鳥がやかましく飛び回っていた。中でも身体の大きな鷺の優雅な姿態や、ゆったりと翼を広げて羽ばたく光景は幼心にとても神秘的で、ついつい見惚れてしまうことがあった。日暮どきに木々にとまっている鷺の群れが、寄り集まって何を話しあっているのだろうと想像したものだった。
やがて水田が次々に造成されて住宅地に変わっていったある朝早く、カラスが騒ぐのに気づいて家の裏手の狭い用水を覗いたら、丸々とした青鷺の死体が水に浮かんでいた。外傷はなく、どうして死んだのかはわからなかったが、とりあえず死体を引き上げて空き地に穴を掘って埋めた。
何十年も前のことだけど、とてもよく覚えている。
主人公の眞人は、そのころの私とちょうど同年代だ。
少しずつ自立の階段を上り始め、自分の世界を切り拓いていく年ごろ。同時に、親や家族や身近な人たちとの間にある距離を朧げに感じつつ孤独の味を覚えていく。子どもの舌に孤独はあまくほろ苦く、ときに美しくあたたかく、なぜとはなしに未知の世界へと自らを導いていく。
その昏い道にわくわくして、勢いに任せて先に進みたくなる気分に抗えず、すぐ傍にいる親兄弟や友だちと触れあう現実よりも、肥大化していく自我の中に埋没していく快楽。限りなく危険でありつつも、子どもの人格形成の過程においてはたいせつなプロセスでもあり、そのときを過ぎてしまえば二度と味わうことのできない稀有な心地でもある。
眞人は亡母が遺した吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』のページの上に、継母の行方を追う旅の中に、その道の行くてを見出す。
「お屋敷の血をひく者」にしか訪うことの叶わない“塔”の世界には海があり、島があり、ペリカンやセキセイインコの大群がいて、覗き屋の青鷺やキリコ(柴咲コウ)やヒミ(あいみょん)といった塔の住人たちに助けられながら、眞人は前を目指して突き進み、冒険を乗り越えていく。彼にとって「夏子さんを助けて連れて帰る」という使命は誰のためでもなく、自分で自分の子ども時代を終わらせ、自立した人間として現実に向きあって生きていく覚悟のためにこそ必要だったのではないかと思う。
これまでの宮﨑駿作品の集大成といってもいいようなこの物語には、生きる道に迷い、孤独を畏れ、己れの価値を見失っているあらゆる「子どもたち(大人を含め自らの未熟さや不運に立ち止まっている人々)」に対して、大丈夫だよと、静かに背中に掌をふれるようなメッセージがあるように感じた。
大義や教訓は重要じゃない。ただ大地を、水を、風を、火を、星や月や鳥たちが住う世界の大気を胸いっぱいに含んで、前を向いてごらん。思いきり手を伸ばしてごらん。心を開いて、きみの思うことを伝えてごらん。きっとできるよ。
そんなシンプルな話だと思うんだけど、そのメッセージに辿り着くまでの旅路を、塔の不思議な千変編花で彩る映像美とめくるめくように鮮やかな場面の連続が、華やかに煌びやかに照らしている。
私は宮﨑駿フリークではないけど、大雑把にいえば「千と千尋の神隠し」と「風立ちぬ」を足して二で割ったような印象を受けました。親(今作では継母)を探して助け出すというストーリーは「千と千尋〜」っぽくて、戦時中の日本の世界観や、風と光に満ちた塔の世界が幻想的に表現された情景描写は「風立ちぬ」に似ている。
ナウシカやラピュタやトトロみたいな不朽の名作かどうかはさておいて、日本のアニメーションの美を極めた芸術作品であることは間違いないし、誰にでも一見の価値はある作品だと思う。
同名の小説で劇中にも一瞬登場する『君たちはどう生きるか』は読んでなかったんだけど、読まなくても全然楽しめます。
けど前から読みたかったし、この機会に読もうと思います。
ところで覗き屋の青鷺=鷺男の風態が某巨匠を彷彿とさせるのはただの偶然ですよね。私の思いこみですよね。うん。きっとそうです。はい。
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