落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

生ける芸術が見ていた風景

2022年01月16日 | movie
『世界で一番美しい少年』



巨匠ルキノ・ヴィスコンティの『ベニスに死す』で絶世の美少年を演じたビョルン・アンドレセン。
彼の複雑な生い立ちや家庭環境から、『ベニスに死す』のオーディション、撮影、公開後のセンセーショナルな反響や日本でのアイドル活動と、現在の彼の暮らしを捉えたドキュメンタリー。

美少年、好きですか。
ハイ、私は好きです。観賞物として。綺麗な花とか生き物とか芸術品を鑑賞するのとほぼほぼ同じ感覚だ。

美少年を愛でる文化は古くから広く世界中に浸透していた。
日本では、室町時代の能楽師・世阿弥が著書「風姿花伝」の中で、少年の美しさを「時分の花」と賛美した。
古代ローマの詩には「12歳の花の盛りの少年は素晴らしい。13歳の少年はもっと素敵だ。14歳の少年はなお甘美な愛の花だ。15歳の少年は一層素晴らしい。16歳なら神の相手が相応しい」と謳われている。
現代では同性愛に対する制裁の厳しさがフォーカスされやすいイスラム社会ですら、少年愛は高度な芸術文化の一面として定着していた歴史がある。アフガニスタンではいまも、少年を誘拐して性的に玩弄する「バッチャ・バーズィー」という悪習が残っている。

人が美少年を語るとき、美少年は人格を失い、生きた芸術作品か、もしくは性的なアイコン、疑似恋愛の対象物といった“モノ”、“物体”になってしまう。
そんなの美少女や若い女やイケメンと同じではないか、という人もいるだろう。確かに昨今よく耳にする「ルッキズム」の観点でいえばその通りだと思う。
だが美少年には他と決定的に違う点がある。それは、美少年が美少年でいられる時間が極端に短いというところにある。先に挙げた古代ローマの詩にも書かれている通り、美少年は早くて10歳前後から、長くてもせいぜい20歳ぐらいまでの間しか「美少年」でいられない。大抵の男性は20代半ばを過ぎると、徐々に肌や髪質や声や体格がそれまでに加えてより男性らしくなり、人によっては少年時代の面影を完全に失うほどの身体的変化が起こる。その年齢を過ぎて少年らしい外見を維持している人もいなくはないけど、間違いなくレアケースだと思う。
だからこそ、人は美少年の儚さに心惹かれ、やがて消えゆく運命にある美の刹那を崇めるのだろう。

ですけど。
当然の話だが、美少年にも人格はある。しかも、人格形成において最も繊細な思春期を抱えた脆く危うい時期に、“絶世の美少年”として性的に消費され、外見だけが彼をアイデンティファイするような環境に押し出されるとしたら、彼本人の精神状態の均衡はどうなるだろうか。
少なくとも、そうした経験が「美少年」の象徴とされた人物のその後の人生に、何ら影響を与えないとは誰にもいえないだろう。

最近このブログにちょいちょい登場するシンガーソングライターの小林私(過去記事)も、透き通るように白い肌や艶やかな髪、少女のような顔立ちや華奢な体躯が「中性的」などと取り上げられやすいけど、本人「好きで整った顔に生まれたわけじゃない」っていってるしね。まあそうだろう。人は自分の容貌を己でカスタマイズして生まれてこれるわけじゃない。
自分で望んでいもしない外見だけを切りとって不特定多数の人間にああだこうだいわれるのは、美少年でもそうじゃなくても、誰でもいい気持ちはしない。まして切りとられた自身の一部分だけが商品化され、搾取されたうえ、気づけばあっという間に本人の本体がその抜け殻となって社会的価値を失ってしまうとしたら、どんなに残酷なことだろう。
そう思うと申し訳なくなる。すいません。

映画を観ていて、これまでにも美少年として世界を席巻したスターたちを思い出した。
『スタンド・バイ・ミー』で世界中の注目を集め、実力派俳優として着実なキャリアを築きつつも23歳の若さで逝去したリバー・フェニックス。『ターミネーター2』で鮮烈なデビューを飾りながら、アルコールや薬物に溺れ、出演作よりも揉め事で話題にされる存在になってしまったエドワード・ファーロング。
ビョルン・アンドレセンと彼らの生育環境はある面で似通っている。住む場所も経済状態も安定せず、両親の十分な保護のもとで穏やかに暮らすことすらままならなかった。保護者は彼らの芸能活動の成功に縋り、愛されたい、守られたいと願う幼心を利用し、束縛していた。

一方で、機能不全家族に生まれたスターは他にいくらでもいる。レオナルド・ディカプリオやキアヌ・リーブスの家庭環境も複雑だった。家族に恵まれなかった美少年みんながみんな、不幸になるわけではない。世の中そんなに単純じゃない。
だけど、ルッキズムが問題視されるようになったいまだからこそ、未成熟で壊れやすい心をもった可憐な存在に対して社会はどうあるべきなのか、真剣に問われてもいいのではないだろうか。
美少年でなくなっても生き続けなくてはならない彼らの意志や将来の可能性を無視するようなビジネスモデルなど、もはや許されないのではないだろうか。

とはいえ、芸術において生命力をもった造形美が人の心をインスパイアする現象自体は、道義的に否定されるほどのものではないと思う。
重要なのは、映像や絵画や彫刻の中にいる人物はあくまでも作品に映し出された影でしかなくて、人物そのものは作品の世界とは別の現実を生きていて、彼らの健康や安全は一個人として最大限尊重されなきゃいけないってことですね。
って言葉に書いてみたら某政治家の迷言みたいに当たり前過ぎる屁理屈なんだけど、実際にそうなってないからね。残念ながら。この世の中。
極論をいえば、社会倫理ぐらい超越してナンボなのが芸術で、そんな矛盾すら付加価値としてカネに変えるのがエンターテインメントという商売です。怖いね。

でも。実をいうと私は60代になったビョルンさんも、とても綺麗だと思いました。
さすがに、往時の輝くように華やかな美貌の面影はもうない。蜂蜜色の豊かな巻毛も真っ白になった。
それはそれとして、波乱万丈の人生を乗り越えて生ける伝説と化した稀有な人にしかない、独特の世界観をもった伝道師のような、他の誰にもみたことのない別の光を、私は感じました。

顔にしわがあったって、髪につやがなくたって、肌に張りがなくたって、人は輝ける。
お父さんがいなくても、お母さんにすてられたとしても、満足な教育をうけられなかったとしても、どんな人にも幸せを求める権利がある。
私たちは、いつ誰がどこでつくり出したのか知りもしない、無価値な物語のあれこれに、あまりにも縛られ過ぎている。
その一つひとつから自分の力で抜け出すことは簡単ではないけど、きっかけさえあれば、誰にでもできないことじゃない。
そういうことにふと気づかされた映画でした。

関連レビュー
『スウェーディッシュ・ラブ・ストーリー』 ビョルン・アンドレセンのデビュー作。


劇場で配布してたポストカード。
改めてみても、やっぱ凄い顔だよね。まさに芸術。

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