『「ザ・レイプ・オブ・南京」を読む』 巫召鴻著
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4886836186&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
こないだ読んだ『ザ・レイプ・オブ・南京』の翻訳者による解説本。
てゆーかメインは訳注ですね。もともと日本語版を出す際に訳注を本文に並記したかったらしいんだけど、どーも権利契約関係の都合でムリだったらしーです。なので『ザ・レイプ・オブ・南京』本文には訳注はほとんどない。あっても年号の誤記訂正くらい。
けどべつの本に分けて却ってよかったかもしれない。だって本文にも原注が大量についてて、日本語版では後半4分の1ほどのページが注釈に割かれている。しかも原著が出て日本語版が出るまでの10年にさんざっぱらあら探しされ放題で、日本国内ではすっかり「間違いだらけのトンデモ本」扱いになってしまった挙げ句に著者が自殺までしてしまったいわく付きの本に、中途半端な訳注じゃ説明しきれないことがあり過ぎる。
ただし、ぐり個人としてはこの2冊は是非ともセットで読むことをオススメします。
理由は簡単で、『ザ・レイプ・オブ・南京』はやっぱり間違いや誤解がどうしても目立ってしまって、なかなか公平な感覚で読みときにくい感触が拭いきれないからだ。もともとこの本は欧米の一般読者向けに書かれた本であり、アイリス・チャン氏自身に日本社会に関する知識が不足していただけでなく、想定した読者にもそうした情報は要求されていなかった─いいかえれば、彼女の日本社会に対する誤解は、欧米社会全体に当り前に存在しうるだけの誤解ともいえる─から、日本の読者/日本に詳しい読者が読んで「なんかヘン」と感じてしまうのは当然のことだし、ある程度は仕方がないことだ。
『〜を読む』の著者・巫召鴻氏は戦後生まれの台湾系華僑2世。
ルーツは台湾/中国だが生まれも育ちも日本で現在も日本在住、日中戦争両国どちらの当事者でもないうえに、歴史家でもジャーナリストでも戦争研究家でもない、相応に中立的な立場の著者ともいえる。
なので『ザ・レイプ・オブ・南京』という本に対しても、南京大虐殺(あるいは南京事件)に対しても、全体にかなり突き放した印象の表現が目立っている。クールだ。
この本は訳注に加えて、この10年に世界中で起きた『ザ・レイプ・オブ・南京』賛否両論の論争についても、それぞれ対応箇所を挙げて解説しその信憑性について検証もしている。ぐりのようにそういう論争に興味のない読者が読んでも、非常におもしろいです。マジで、おもろいです。
まあでも、フツーに考えて、「あったこと」を証明するより、「なかったこと」を証明する方が、ずっと難しいことなんだよね。そこはハンデとしては認めてもいいと思う。『お父さんはやってない』(映画『それでもボクはやってない』のモチーフとなった事件の容疑者の手記)でもそんなこと書いてあったしね。
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こないだ読んだ『ザ・レイプ・オブ・南京』の翻訳者による解説本。
てゆーかメインは訳注ですね。もともと日本語版を出す際に訳注を本文に並記したかったらしいんだけど、どーも権利契約関係の都合でムリだったらしーです。なので『ザ・レイプ・オブ・南京』本文には訳注はほとんどない。あっても年号の誤記訂正くらい。
けどべつの本に分けて却ってよかったかもしれない。だって本文にも原注が大量についてて、日本語版では後半4分の1ほどのページが注釈に割かれている。しかも原著が出て日本語版が出るまでの10年にさんざっぱらあら探しされ放題で、日本国内ではすっかり「間違いだらけのトンデモ本」扱いになってしまった挙げ句に著者が自殺までしてしまったいわく付きの本に、中途半端な訳注じゃ説明しきれないことがあり過ぎる。
ただし、ぐり個人としてはこの2冊は是非ともセットで読むことをオススメします。
理由は簡単で、『ザ・レイプ・オブ・南京』はやっぱり間違いや誤解がどうしても目立ってしまって、なかなか公平な感覚で読みときにくい感触が拭いきれないからだ。もともとこの本は欧米の一般読者向けに書かれた本であり、アイリス・チャン氏自身に日本社会に関する知識が不足していただけでなく、想定した読者にもそうした情報は要求されていなかった─いいかえれば、彼女の日本社会に対する誤解は、欧米社会全体に当り前に存在しうるだけの誤解ともいえる─から、日本の読者/日本に詳しい読者が読んで「なんかヘン」と感じてしまうのは当然のことだし、ある程度は仕方がないことだ。
『〜を読む』の著者・巫召鴻氏は戦後生まれの台湾系華僑2世。
ルーツは台湾/中国だが生まれも育ちも日本で現在も日本在住、日中戦争両国どちらの当事者でもないうえに、歴史家でもジャーナリストでも戦争研究家でもない、相応に中立的な立場の著者ともいえる。
なので『ザ・レイプ・オブ・南京』という本に対しても、南京大虐殺(あるいは南京事件)に対しても、全体にかなり突き放した印象の表現が目立っている。クールだ。
この本は訳注に加えて、この10年に世界中で起きた『ザ・レイプ・オブ・南京』賛否両論の論争についても、それぞれ対応箇所を挙げて解説しその信憑性について検証もしている。ぐりのようにそういう論争に興味のない読者が読んでも、非常におもしろいです。マジで、おもろいです。
まあでも、フツーに考えて、「あったこと」を証明するより、「なかったこと」を証明する方が、ずっと難しいことなんだよね。そこはハンデとしては認めてもいいと思う。『お父さんはやってない』(映画『それでもボクはやってない』のモチーフとなった事件の容疑者の手記)でもそんなこと書いてあったしね。
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