関東大震災当時、東京・代々木に在住していた作家・江馬修が体験した被災の日々に起きた朝鮮人に関する流言蜚語と目撃談を記録した「小説」。作家本人は小説としているが、中身は地震発生後の数日間を時系列で描いたノンフィクション。
関東大震災の際の朝鮮人虐殺を書いたノンフィクションは何冊か読んだし、フィールドワークにも参加してきた。どんな流言蜚語が拡散してどこでどれだけの人が殺されたとか、軍が混乱に乗じて朝鮮人や中国人や活動家を殺戮したといった断片的な「情報」には触れてきた。
でもずっと、重要なピースが足りない気がしてきた。
一次資料だ。
犠牲者の数は当時の調査で6,000人以上とされている。
避難中や収容された警察署の中での集団リンチだったり、収容所から引きずり出されて処刑されたり、朝鮮人たちが殺害された状況は千差万別だが、そこには必ず加害者と目撃者がいたはずだ。それもたくさん。
その目撃者の声が聞きたかった。
横浜では震災後に子どもたちが書いた作文が残されている(関連記事)。東京でも約1,000点の作文が新たに見つかり、そこにも朝鮮人が殺害される現場を見たという体験が書き残されている。
それはそれとして、民衆が集団ではたらく暴力になす術もない子どもではなく、大人の視点から書かれた真実が読みたかった。
震災前から高く評価され、社会的弱者に注目する作風から人道主義作家とよばれていた江馬修のことはつい最近知った。それもそのはず、この『羊の怒る時』は1925年の発表当時ろくに顧みられず、1989年の復刻を経て、震災から100年になる今年文庫化された。
100年といっても事件の全容が明らかにされないままの通過点でしかないけど、各地で講演会や慰霊祭など事件を回顧する催しがあったり、本書のような関連書籍が何冊も発刊されたり、それはそれで事実に少しでも近づくきっかけになればいいと思う。
その中で本書に出会えたことは、個人的に嬉しかった。
江馬さんが住んでいた代々木でも家屋の倒壊などの被害はあったが、火災はなかったらしい。だが神宮の森の向こうの猛火が夜空を照らす明かりで、この地震が只事ではないことを知る一方、通信網も流通網も途絶え、確実な情報は何も伝わってこない。
これからどうなるのかも、東京市内で暮らす家族や友人たちの安否もいっさいわからないという不安の中で右往左往する江馬さんが見聞きしたことが、まあびっくりするぐらい事細かに書かれている。読んでて映像がくっきり浮かんでくるぐらい細かいです。なので、だんだん著者が自分の知ってる人みたいに感じられてくる。だから江馬さん。
江馬さんが最初に流言蜚語に接したのは、2日の午後3時ごろと書かれている。情報源は隣家の軍人で、「何でもこの混雑に乗じて朝鮮人があちこちへ放火して歩いていると言うぜ」という噂話だった。軍人は続けて「日頃日本の国家に対して怨恨を含んでいるきゃつらにとっては、言わば絶好の機会というものだろうからね」という。
映画『福田村事件』でもいつもいじめられている朝鮮人が仕返しをしてくるだろうという表現があったが、冷静に考えれば、食べるものも着るものも眠る場所さえない未曾有の災厄の最中に、日本人と同じように被災している外国人に犯罪を目論む余裕があるとなぜいえるのか、簡単に想像がつくはずだと思う。『羊〜』には朝鮮人が避難者に化けて悪事をはたらいているとふれまわる人物も登場するけど、朝鮮人も被災すれば避難するのに、化けるも何もない。控えめにいってちょっと頭おかしいです。
そもそも井戸に投げこむという毒や爆弾を朝鮮人がどうやって入手するというのか。集団で人々を襲うとか強姦するとか、それは朝鮮人ではなく、日本人が朝鮮でしてきたことに違いなく、となると流言蜚語の出所は「自分たちがしてきたことをそのままやり返される」という、罪悪感がそのまま警戒心に変換された単純な被害妄想ではないだろうか。
江馬さんはその直後に軍人の息子から、新宿で朝鮮人が追い回されていたという目撃談を耳にする。「朝鮮人を見たら片っぱしから殺しても差し支えないという布令が出た」と発言する者までいる。
海軍省船橋送信所が朝鮮人を取り締まるよう各地の地方長官に向けて打電したのは3日午前8時だ。ということは、それ以前に流言飛語はすでに広範囲に流布していて、ほぼ同時に虐殺が始まっていたことになる。
江馬さんは1日から3日の間に被災地を歩きまわる道中、あらゆる場所で見聞きする朝鮮人に対する流言蜚語と自警団の検問に閉口するが、朝鮮人の犯罪の現場をその目で見たという人には一度も会っていない。
当然だ。そんな朝鮮人はいなかったのだ。それは、朝鮮人を虐げてきた日本人の心の中にいた悪魔だった。その悪魔が、罪もない朝鮮人を殺したのだ。
江馬さんは本郷の壱岐坂付近で、10人ほどの群衆が若い朝鮮人留学生たちを取り囲んで暴行しているところに遭遇し、どうにかして助けてやりたいと思いながらも、何もできずにその場を立ち去る。
内心で自分を「卑怯者」と罵りながら。
私が読みたかったのは、この一節だったのだと思う。
いくら非常時とはいえ、日本人の全員が流言蜚語を何の疑いもなく鵜呑みにし、朝鮮人なら誰でも捕まえて殺してしまえばいいと思いこんでいたわけではないはずだと思う。
だけど、集団の狂乱に正面きって異を唱え暴力に抵抗するほど人は強くない。そして、すでに起こってしまったこと、犯してしまった過ち、主張できなかった正義を省みることは簡単なことではない。
江馬さんは自らそれを素直に「卑怯者」と書いた。
そのささやかな良心に触れることができただけで、この本を読んでよかったと思った。
江馬さんは浅草区長だった兄に同行して悲惨な被災地を見て回るんだけど、その間の兄と区役所職員たち周囲の人々との会話が無茶苦茶強烈です。
浅草区は現在の台東区の東部にあたり、地震後の火災で実に96%が焼失、死者行方不明者は約3,600人にも及んだ。なかでも、堀で囲まれた敷地に3階建の遊郭がひしめくように密集していた吉原では500人以上が亡くなっていて、火から逃れようと大勢が弁天池に飛びこんでそのまま焼死してしまった。
そうした犠牲者の遺体を収容する厳しい作業を、彼らは笑い話にしていた。
惨状があまりにも酷すぎて笑うしかないのだろうか。彼らの表現が具体的(かつ江馬さんの記憶力が驚異的)なせいで情景がありありと想像できてしまうのだが、もし自分がその場にいてそれを笑えるかと問われるとちょっとそこは想像が追いつかない。
東日本大震災のときの遺体捜索に従事していた方々の体験談と似てはいるけど、東北の皆さんは決して笑ってはいなかったし。
全体にわたって描写がとにかく細かくてすごくリアルです。
震災の被害を大局からまとめた吉村昭の『関東大震災』と、ミクロで記録したこの本は、いい対になると思います。
題材が題材だから重くて読みづらかったらどうしようと思ったけど、杞憂でした。読んでよかったです。
関連記事:
『福田村事件』
『関東大震災』 吉村昭著
『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』 加藤直樹著
『虐殺のスイッチ 一人すら殺せない人が、なぜ多くの人を殺せるのか』 森 達也著
加藤直樹さんと一緒に、埼玉から関東大震災・朝鮮人虐殺を考える(フィールドワーク)
関東大震災時の朝鮮人虐殺地のフィールドワーク
外部リンク:
9月、東京の路上で
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