落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

マイ・スウィート・ホーム

2006年06月20日 | book
『ディリー、砂漠に帰る』ワリス・ディリー著/武者圭子訳
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先日読んだ『砂漠の女ディリー』の続編。
自伝『砂漠の女~』の冒頭には下記のような註が書かれている。
「本書はワリス・ディリーの真実の物語であり、ここに書かれている出来事は、どれもワリス自身の記憶に基づく事実である」
わざわざそう断らなければにわかには信じがたいほどミラクルな過程を経て、遊牧民の家出少女からスーパーモデル、果ては国際的な女性運動活動家にまで転身したワリスだが、砂漠の自然児として育った彼女は現代的な都会の暮らしにはなかなか馴染めなかった。結婚にも失敗。生活に疲れた彼女は大好きなおかあさんに会うため、20年ぶりに祖国ソマリアへの帰郷を試みる。しかしソマリアは彼女が故郷を出た後の1991年に内戦状態に陥り(ソマリア内戦)、彼女は長い間家族の住まいや連絡先はおろか、生死さえ知ることのできない状況だった。
そんなまたぞろ「ミラクル」な里帰りの数日間を、幼い日々の思い出を織り交ぜて描いたのがエッセイ『ディリー、砂漠に帰る』だ。

ソマリアといえば世界でも最も貧しい国のひとつといわれ、国民の9割は内陸の乾燥地帯でラクダやヤギを飼って遊牧生活をしているが、ほぼ全土で水や食料はもちろん医療・教育施設も極端に不足し、長い内戦で首都モガディシュをはじめ国土の大半が荒廃しきっているというのが、日本も含めた外国の人間のソマリアに対するイメージではないだろうか。
だがこの本には、おどろくべきことにふつうのソマリア人たちは祖国やそこでの暮らしについてまったく逆の捉え方をしていることが書かれている。
数週間おきに引越しをする遊牧民には持って移動できる荷物は多くない。だからみんな服や家財道具は最小限しか持たないしそれで充分だと思っている。熱い国なので食べ物はその日食べられるぶんが手に入ればそれでよい。余計にあるものは近所の人にわける。食事時、いいことがあったとき(待ち人に会えたとき、雨が降ったとき、家畜の水場がみつけられたときetc.)はアッラーに感謝する。困ったこと、不運なこと、悲しいことがあったら「アッラーの思し召し」として諦める。学校がないので文字を読めない人が多く、だから新聞やTVやインターネットなどといったメディアがない。余暇には友だちや家族とお喋りしたり身近な道具を使ったカンタンなゲームをして楽しむ。
そんなソマリア人はみな、「必要なものはみんなここにある」という。強がりでも負け惜しみでもなんでもなくて、ごく当り前にそう思っている。
家族がいて、家畜がいて、毎年雨が降れば、それで幸せなのだ。電気やガスや水道がなくても、電話や郵便がなくても、平和に仲良く暮らせさえすれば、彼らは満たされている。
豊かさっていったいなんだろう。

だがソマリアも変わらなければならない時代になった。内戦だ。
同じ民族同士でありながら部族間で激しい権力闘争が行われ、町は破壊しつくされ、多くの犠牲者が出た。そして国家体制は完全に崩壊してしまった。この内戦に手を貸したのはまたもや西欧諸国だった。西欧諸国が援助と称して権力者に武器を提供しお金を貸した。そのお金でソマリア人は近隣諸国から麻薬を輸入した。そのようにして終わりのない殺し合いが延々と続くことになった。このあたりのいきさつは映画『ブラックホーク・ダウン』でも触れられている。
まずこの国を変えていくためには、部族間の差別や偏見をなくし、男女が平等な社会を建設することから始めなくてはならない。それがどれほど時間のかかる困難な道のりなのか想像もつかないけれど。
内戦はひと段落して去年暫定政府が本国に帰還することになった。でも長い内線の間に国内には国際テロ組織が入りこみ、近隣国との関係も悪化していて、まだまだ平和とはいえない状況が続いている。

ワリスはそんな祖国を心から愛し賞賛するが、変えなくてはならないところ、守るべきところをそれぞれに生き生きと率直に、ユーモアも交えながら描いている。
長い間引き離されていた家族との再会と和解の物語は感動的だ。だがその道程のなんと険しいことか。どんなに難しくても諦めず、常に前向きなワリス。彼女の強さとおおらかさは遊牧民である以前に、彼女自身がもって生まれた素質でもあるのだろう。
この本は内戦中の2002年に書かれているが、今ではもっとラクに帰省できるようになっているのだろうか。そうであってほしいと思う。

ワリス・ディリー財団
ソマリアの子どもの健康を守り、教育の機会を提供するために設立された非営利団体

ブラックホークダウン・アスキーアート ソマリアページ
ソマリア内戦と飢餓について画像つきでカンタンに紹介してます。ショッキングな画像が掲載されてます。要注意。

女性性器切除と捨て子の多い国 黒柳徹子のソマリア報告
ユニセフ親善大使・黒柳徹子氏の2002年の訪問記

アフリカに生まれて

2006年06月19日 | movie
『母たちの村』
『砂漠の女ディリー』ワリス・ディリー著/武者圭子訳
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最近も「深刻な後遺症のために出産さえ危険な状態になる」としてWHOがアフリカ諸国に警告を発したというニュースがあった女性器切除(いわゆる女子割礼)をモチーフにしたアフリカ映画『母たちの村』。
今も80%の女性が女性器切除を受けているソマリア出身で、国際的にこの因習の廃絶運動を行っているワリス・ディリーの自伝が『砂漠の女ディリー』である。
まずほとんど日本で紹介されることのないアフリカ人監督によるアフリカ映画と、遊牧民出身のスーパーモデルというたいへん珍しい経歴をもつワリスの本だが、両者とも大きなテーマとして女性器切除という残酷な習慣をとりあげている。『母たちの村』の上映館ではワリスの本も売られてました。

女性器切除はアフリカ各国のイスラム社会と海外のアフリカ人社会で4000年以上続いている習慣で、年間に約200万人の少女が施術されるという。方法や施術範囲は地域や部族によって異なるが、女性の性感を奪うことで結婚前の処女性を守り結婚後は身持ちをかたくする目的で行われることと、施術しない女性は不浄だとして結婚できないとみなされる点は共通しているようだ。中国の纏足と同じような習慣といえるかもしれないが(『纏足の靴 小さな足の文化史』)、実は極端な男尊女卑思想に基づく非人道的で暴力的な因習は女性器切除や纏足だけではないそうだ。中東の一部の地域では婚前/婚外交渉をした女性は「名誉の殺人」として身内に焼き殺されるし、インドでは寡婦は亡夫といっしょに生きながら火葬にされるという。

数千年もの間、苛酷な自然環境のもと、深い信仰と伝統に基づいて行われてきた習慣を、現代に生きるよそ者の我々が一方的に批判するのは間違っているかもしれない。
しかしやはりどうしても、こうした習慣は絶対に根絶しなくてはならないと思う。
女性は家畜でもなければ子を生む道具でもない。花嫁として売り飛ばすための商品でもない。過去はどうあれ、今は「人権」と「男女平等」が誰にでも保証されて当り前の時代だ。結婚しようがしまいが、相手に誰を選ぼうが、子どもを生もうが生むまいが、そんなことは誰だって自分で決められて当然だ。
ましてアフリカで行われている女性器切除では、施術がもとで命を落とす少女や妊産婦・胎児が珍しくないこと、多くのケースで術後一生涯後遺症に苦しめられることが医学的にわかっている。誰がなんといおうと即刻やめるべきなのだ。
女性器切除の弊害は医学的な健康被害だけにとどまらない。施術によって女性は自信を失い、性的な関心や恋愛感情に後ろ向きになってしまう。不完全なからだに人工的につくりかえられたために、人として自立すべき自我さえ損なってしまうのだ。これが不幸でなくてなんだというのか。ワリスの本は30代で書かれたものだが、5歳のときに受けた女性器切除につながるエピソードがページの多くに登場する。ひとりの女性の人生にとって、女性器切除はそれほどまでに重いのだ。

だが映画『母たちの村』に描かれるのは女性器切除という悪しき習慣だけではない。
主人公コレ(ファトゥマタ・クリバリ)は女性器切除の後遺症によって二度も死産した経験から、3人めにして帝王切開で生まれた娘(サリマタ・トラオレ)には手術を受けさせていない。それを知った少女たちが手術を拒否して彼女のもとに逃げこんでくるところから物語が始まる。コレは信仰上の習慣「モーラーデ」を盾に少女たちを匿い、身体をはってでも手術を阻止しようとする。彼女の信念は自らの体験に基づいた確固たる意志であり、その意志を通すために逆に信仰を道具にする。
つまり古い伝統的な因習すべてを野蛮だ/未開だとして卑下するのではなく、合理的な意義のある習慣もあれば、時代とともに捨てなくてはならない因習もあり、その取捨選択には「世論に安易に流されることなく、自分自身の頭と心できちんと判断する」という自立した精神が必要であると説いてもいるのだ。
来客や目上の人間を大きなボウルに満たした水でもてなす慎ましい慣わしや、夫の複数の妻たちが互いに姉妹と呼びあいかばいあって暮らすやさしい暮らしぶりの描写も丁寧で、つくり手のアフリカ文化への深い愛情が感じられる。

こうしたそれぞれの習慣は、良くも悪くもいずれ全部が消えていくことだけは間違いないと思う。でも一刻も早くひとりでも多くの犠牲を防ぐためには、世界中の誰もがこの悪習の悲劇を知り、みんなで「それはおかしい」と声を大にしていうしかない。
そのために自ら告発する勇気を持ったアフリカの人たちに深く敬意を表したいと思う。なかなかできることではない。すばらしい。
アフリカに生まれなくてよかったわなんていってる場合なんかじゃない。断じて違う。女として、人として、決して許してはいけないことが、世の中にはあるのだと、ぐりは思う。

ちなみに『母たちの村』は一部でドキュメンタリーという紹介のされ方をしてますが、れっきとしたフィクションです。お間違えのないよーにー。

関連記事:ケニア、対話を通じて伝統を変革

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父のない子と子のない父と

2006年06月18日 | movie
『プルートで朝食を』
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天然お気楽オカマちゃんの半生と母親探しの旅のお話。おもしろかったです。
実をいうとニール・ジョーダンの映画って『クライング・ゲーム』しか観たことない。なんでかな?『クライング〜』もよかったし、アイルランドは好きなんだけど。
主人公パトリック(キリアン・マーフィ)のキャラがもーサイコーっす。ちょおおおおおマイペースで何がどーあろーと絶っっっっっ対にヘコんだりしない。いつでもどこでも常に思いっきり前向きで、素直で、正直で、純粋。オカマだからってムダにチャラチャラもしていない。というかそういうパートが必要最低限にされてもいるんだけど、基本すっごく身持ちはカタい。それでいてしっかり恋愛体質だったりする。異常な楽天家でもある。
けど「笑う門には福来る」という言葉もあるように、どれだけ苦しい目に遭っていてもハッピーでいようとする彼女にはちゃんと幸運がめぐってくる。彼女が心から相手を思う誠実さはそのままの形ではなかなか報われることはないけど、いろんな形でめぐりめぐってきちんと還ってくる。まさに「情けは人のためならず」。

とはいえ単に非現実的なコメディには終わらないところがまたこの映画のおもしろいところだ。
舞台は1970年代、ちょうどIRA(アイルランド共和国軍。北アイルランドのイギリ?Xからの分離独立を求める武装組織)のテロ活動が活発だった時代のアイルランド北部の街から始まり、母を尋ねて各地をさまようパトリック?ニともにロンドンへと移っていく。
映画にも何度かテロ事件の場面があるし、登場人物にもIRAの関係者も出てくる。パトリックが事件に巻き込まれたりテロリストに間違われるエピソードもある。アイルランドは厳格なカトリックの国でもあるが、地元の神父(リーアム・ニーソン)も重要な人物として物語に関わってくる。
一見するとつくり手は武力闘争や宗教的価値観を徒に茶化しているようにもみえるが、実はそうではない。大義名分の虚しさや暴力の無意味さも含めて、諍いや争いや差別や偏見のバカバカしさを、パトリックというひとりの人間の生きざまを通して表現したかったのではないかと、ぐりは思う。

「シュガー・ベイビー・ラブ」「ワン・ワン・ワルツ」など懐かしの名曲がたくさん使われてて、70年代の衣装や美術が目にも楽しい映画でした。
しかしパトリックみたいな性格の人ってホントにいそうだよなあ(笑)。友だちにいたらおもしろいだろうな。てゆーか自分がああいう性格になりたい。ムリか。
彼は小さいときから自分を捨てた実母との再会を夢みつづけてついに彼女を捜す旅に出るんだけど、終わってみればこれも父と息子の和解の話になってたりする。
ゲイと父子関係ってやっぱし普遍のテーマなんですかねー。男心だなぁ。

父のない子と子のない父と

2006年06月18日 | book
『孽子』白先勇著/陳正醍訳
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名著です。ヤバイです。先月読んだ『もう一つの国』にノックアウトされた?ホっかりなのに、また読んじゃいました。スゴイのを。
この小説は台湾で70年代に連載が始まり80年代の刊行後にはベストセラーになり、過去には映画化もTVドラマ化もされた大変有名な作品だそうだが、ぐりは存在だけは知ってたけど内容についてはほとんど知らなかった。邦訳は今年4月に初刊行。

舞台は1970年の台北、主人公は家出して間もない18歳のストリートボーイ阿青だが、設定や舞台背景から連想されるよりずっとストイックで淡々とした物語だ。
阿青自身の生立ちと彼や周囲の人々の間で起きる日常の出来事に加え、台北のゲイ社会の“歴史”が交互に描かれるのだが、内容が波瀾万丈な割りに描写が静かで穏やかなのだ。夥しい数にのぼる登場人物のほとんどが売春や水商売を職業としているのに直接的にセクシュアルな場面はまったくないし、暴力描写にも生々しい痛みを伴う表現が少ない。
そうすることで逆に、登場人物たちの堪えている人生と運命の重圧を、読者自身の心の奥にそっと問いかけているようだ。

実はこの小説はゲイたちを描いてはいても同性愛そのものを描こうとした作品ではない。そこがスゴイ。
主人公も含めて登場するゲイたちの同性愛者としてのアイデンティティに触れるエピソードがいっさい描かれていないのだ。たとえば阿青の生立ちには描かれて然るべき性の目覚めや恋愛観が一行たりとも出てこない。他のキャラクターもほぼ同様で、唯一登場する「恋愛」は阿鳳と龍子の痛ましい“伝説”だけである。
しかし彼らが同性愛者であるがゆえに直面する社会の偏見や家族との軋轢は、くどいくらい繰り返し語られる。この物語の主題は「父と息子の相剋」なのだ。
教師との性交渉がみつかって学校を退学になり父に家を追い出された阿青、華僑の父に会うため日本行きを夢みる小玉、博打打ちの父に尽くし続ける呉敏。彼ら若いストリートボーイはパトロンたちのことを「お義父さん」と呼んでいる。いわゆる「パパ」だ。10年ぶりに帰国した龍子は父との和解を熱望しながら果たされず、傅老人はかつて同性愛行為で告発され自殺した息子に対する良心の呵責に苦しんでいる。身を焦がすほどまでに強く互いを求めあいながらすれ違い続ける父たちと息子たち。
だがこの物語の根底にあるのは、日本という旧宗主国の文化と風土への憧憬から逃れることもできず、中国という故国と負けたはずの戦争へのノスタルジーも捨てられない、「父なし子の国」台湾の悲哀でもある。
台湾の戦後最初の少年殺人事件を描いた映画『牯嶺街少年殺人事件』の舞台もこの時代だったし、登場人物たちの社会背景や設定にもやや重なる部分が多い。読んでいてしきりに映画の情景が思いだされてしょうがなかったです。ひさしぶりに観てみたいけど、アレDVD出ないのかなー。

ところでこの本のタイトルは原題・邦題ともに『孽子』、北京語で「ニエズ」と読む。日本語読みでは「げっし」。意味はもともとは庶子を指すが、日本語でいうところの“鬼っ子”─災いをもたらす罪の子─というようなニュアンスも含まれるそうだ。「孽」は常用漢字ではないので、ネットで検索する場合は「[薛/子]子」、あるいは「ゲッ子」でお願いします。
しかし日本語で日本で刊行する書物のタイトルに日本語で使用されない文字、日本語で通用しない言葉で邦題をつけるのはいかがなものだろう。原題に対する思い入れもわからなくはないけど、ひろく読者に訴えたいという姿勢が感じられないのが残念だし、名著ゆえの刊行者側の傲慢も感じる。せめて片仮名で『ニエズ』とするわけにはいかなかったのだろうか。非常に疑問だ。

ヴェネツィアにようこそ

2006年06月17日 | movie
『カサノバ』
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これぞ!まさに!ロマンチックコメディの決定版!と呼んで然るべき、とーっても楽しい映画だったです。
ヴェネツィアの文化とか時代背景とか宗教的権威主義が、うまく現代の歪んだ社会風俗をも皮肉った都合のいい“設定”として活かされてて、お話としてもなかなかよく出来てました。
まあ確かに娯楽作品なので全体にかなりご都合主義的だし、ツッコミどころもいっぱいありますよ。けどぐり的にはそれほど気になるというほどのことはなかったです。一部に「CGがヤバイ」とゆー評判も聞いてましたが、まったくそんなこともなかったです。DVDでみると合成カットがチープにみえるケースはよくあるけど(アメリカでは既にリリース済み)、スクリーンでみる限りはそんなにひどくない。ヴェネツィアの夜景がCGっぽい・絵画っぽくみえるのは実際の風景が非現実的だからじゃないすかね(笑)。ホント冗談みたいな風景だから。あそこ。行けばわかるけどさ。だからまああえていうなら「CGがヤバイ」→「合成がヤバイ」ってのが妥当だけど、まーそんなのふつーの観客?ノは関係ないんですよね。ハイハイ(ヤケ)。
実は今やってる仕事でこの街の画像資料を扱ってて、どの場面でもロケ地がいちいちすんごい気になってしょうがなかったです(笑)。

ヒース・レジャーはラブコメは『恋のからさわぎ』以来かな?演じてて非常?ノ楽しそーでした。口八丁手八丁で相手によって態度も自分の身元や名前さえもコロコロ変えるお調子者でありつつ、目的のためには手段も選?ホず、かつ決して優雅さだけは失わないという特異なキャラクターを、ごく自然に気楽に再現してました。とても『ブロークバック・マウンテン』の不器用な主人公と同一人物とは思えません(笑)。
他では「処女なんだけどエッチなことに興味津々」なお嬢さん・ヴィクトリアを演じたナタリー・ドーマーがなかなかいいキャラでおもろかったです。