落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

ヒゲのココロは

2006年06月17日 | movie
『バルトの楽園』
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「バルト」とはドイツ語でヒゲのこと。「楽園」は「がくえん」と読む。この映画の主人公・松江豊寿(松平健)が実際に見事なカイゼル髭の持ち主だったことからつけられたタイトルではあるが、映画ではさほど松江氏のヒロイズムや壮麗な交響楽を強調した内容にはなっていない。
実に美しい物語だ。
なるほどスクリーンよりもTV画面でお馴染みの出演者が大半だし、不自然で冗長な場面構成や緊張感のない編集、無駄なBGMの濫用、キャラクター描写の粗雑さなど、映画として気になる箇所は相当に多い。
だがそれはそれとして、ストーリーそのものはとにかく美しい。ロケ地であり現実に収容所があった板東の地の自然のなんと清々しいことか。周辺の素朴な風景の中でハイキングをしたり海水浴をしたり、あるいは労働に汗し、地元の日本人たちと交流する捕虜たちののびのびと自由な生活の情景は、とても戦時下とは思えないほど牧歌的でまるでお伽話のようだ。

“第九”全曲の日本初演奏がこの板東俘虜収容所でのコンサートだったことは有名な話だが、レビューを読むと知らなかった人が多いようで意外に思った。当時先進国だったドイツに学ぶため、板東以外の収容所でも捕虜からドイツの文化や技術を学ぶ交流は盛んに行われていたが、劇中にも登場する実在の人物カルル(オリバー・ブーツ)のエピソードが最もこの物語の主旨をよく表わしている。
中国・青島でパン職人をしていた彼は当初日本軍に対して反抗的で脱走を繰り返すのだが(このあたりの事情が説明不足なのが残念)、敗者であり異文化圏の民族であるという感覚的な齟齬をあえて追求せずただ単純に彼を信頼したいという松江の誠意と地元民との交流によって、やがて心を開き自分を取り戻し、ついに終戦後は帰国せずに日本に住むという究極の選択をする。その結果が今日まで続いているバウムクーヘンで有名な洋菓子メーカーの最大手ユーハイム社である。

待ち、信じ、許し、受け入れ、わかりあおうとすることは、人間の最も尊くあたたかな能力であるはずだ。それこそが人類平和の基礎にほかならない。この映画のいいところは、20世紀初頭の田舎の日本人にそうした豊かさと高潔さが当り前に備わっていたことを、特定の誰かの手柄としてではなく、名もなく台詞もないたくさんの登場人物たちや背景描写の繊細さで表現しようとしているところだと思う。その努力はちゃんと評価されていいのではないだろうか。
FLiXバルトの楽園特集に当時「ムスター・ラーゲル(理想の収容所)」とまで呼ばれた板東俘虜収容所のすてきなエピソードがいくつか紹介されてます。

しかしこのベートーヴェンの交響曲第9番という曲は改めて歌詞を読むとまさにこの物語に相応しい。当り前だけど、傑作です。

抱き合え、幾百万の人びとよ!
この接吻を全世界に!
兄弟よ!
星空の下に愛する父なる神が住んでいるに違いない(原詩:シラー「歓喜に寄せて」より)

実際に年末のコンサートには一度しか行ったことないけど、今年はひさびさに行って聴いてみたくなりましたです。
日本人よりドイツ人の出演者が多いんだけど、彼らの芝居がすごーくよかったです。あと東映作品だけにやっぱし福本清三氏がしっかり出てました(笑)。ワンシーンだけだけどねん。

音楽万歳

2006年06月10日 | movie
『戦場のアリア』
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音楽の力ってスゴイなあと思う。
ぐりには音楽のセンスとゆーものがまったくないので余計にそう思うのかもしれないけど、映画や映像に使われる音楽の威力って絶大なものがあります。ヴィジュアルで何をどうやったって、音の持つ独特の魅力にはまず勝てないです。現にヒットする映画やTV番組、評判になるCMの多くが音楽パートで成功している。この作品にも、「アヴェ・マリア」「きよしこの夜」「蛍の光」など世界中の誰もが知っている名曲がたくさん登場する(残念なことにほとんどがサントラに収録されていないのだが。なぜ)。

映像の上に限らない音楽の力の偉大さをキーに、戦争の愚かさ・無意味さ、憎悪の虚しさについて描いたフランス・ドイツ・イギリスの合作映画。
舞台は第一次世界大戦さなかの1914年、フランス北部の最前線。中立地帯を挟んでフランス軍・友軍のスコットランド軍とドイツ軍が向かいあっている。クリスマス・イヴ、ドイツ軍の塹壕から聞こえるテノール歌手(ギョーム・カネ)の歌にスコットランド軍がバグパイプで伴奏したのをきっかけに、敵対する彼らはクリスマスだけの休戦を決め、いっしょに聖夜を祝い、歌い、祈った。
実は当時前線で敵同士がひょんなことで仲良くなってしまったというケースはいくつもあるらしい。現代の戦争と違って、敵と味方が顔をつき合わせて戦う時代だったから、もともとはごくふつうの若者たちだった兵士にそうしたことが起こるのはとくに不思議なことではないのかもしれない。
この映画では、戦争が実際には前線で銃を構え血を流している男たちによって行われているのではなく、後方の安全な場所で「人間性」とはまったくかけ離れた立場の人々によって行われているということが、非常に繊細に、だが能弁に語られている。
もうひとつこれがハリウッドではなくヨーロッパ映画らしいのは、戦場に留まり戦い続けることだけが勇気ではなく、逃げること、諦めることも勇気である、という戦争映画においてきわめて珍しいメッセージを堂々といっているところだ。こういうことは日本やアメリカの映画ではまずなかなかいえないのではないだろうか。

ところでこの物語には主人公がいない。
おそらくつくり手は意図して“主人公”を排除した物語を描いたのだろう。観客が特定の登場人物に感情移入することなく、物語全体のメッセージを極力ストレートに受取れるように。
群像劇でしかも戦争映画というと非常に難しい題材だが、そこへ外国人の女性ソプラノ歌手(ダイアン・クルーガー)というアクセントを追加したことで、暴力的な戦争史劇としてではなく、心から平和を望むふつうの人々が経験した悲劇としての表現に自然に着地することに成功している。このヒロインのキャラクター造形がいささか現実離れしているのが微妙に気になるのが惜しいところだ。
いい映画なのだがどうしてもキレイにまとまり過ぎていて、今一歩パンチが足りないようにも思う。ただのハートウォーミングな昔話で終わらないように精一杯努力してるのもわかるんだけどね。
ええ話です。泣けますよ。

モノマネドリを撃つ

2006年06月06日 | book
『アラバマ物語』ハーパー・リー著 菊池重三郎訳
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再読です。前に読んだのは高校時代なので10年以上前です。
1930年代のアメリカ・アラバマ州、メイコームという田舎町で起きた日々の大小の出来事を、6歳の少女スカウトの視線から描いた物語。
古い時代の南部における人種差別と因果応報をテーマにした小説といえば91年に映画化された『フライド・グリーン・トマト』を思いだすが、この小説も30年代前後のアラバマを舞台にしている。スコット・フィッツジェラルドやトルーマン・カポーティもこの地域を題材にいくつかの作品を書いているので、もしかすると独特に文学的な魅力を持つ土地柄なのかもしれない。
ちなみに著者ハーパー・リーはカポーティの幼馴染みで、作中に登場するスカウトの親友ディルは彼をモデルにしている。映画『カポーティ』ではキャサリン・キーナーが演じているのがこのリー女史である。
この小説は61年にフィクション部門でピュリッツァー賞を受賞、63年にグレゴリー・ペック主演で映画化されアカデミー賞三部門を受賞し他にも各映画賞・映画祭でも評価されただけでなく、2003年アメリカ映画協会が発表した「映画の中の最大のヒーロー」というアンケートではぺックが演じたアティカス・フィンチ─スカウトの父─が1位に選ばれている。
つまり、半世紀前に書かれた戦前の物語が、アメリカでは21世紀の今もなお今日性を保って人々の記憶に留まっているということになるのだろう。

ひさびさに読んでみたがやはり非常に優れた小説だ。
やさしく、しなやかに強く、ひろがりがあり、あたたかく、そしてさっぱりとさわやかだ。芸術的ではあるが表現は平易で、教訓的でもあるが説教くささはなく、道徳的でもあるがムダに情緒的ではない。こういう言い方はフェアではないかもしれないが、果てしない母性を感じさせる物語だと思う。
しかしこの物語には母親そのものはほとんど登場しない。ヒロイン・スカウトに母はいない。2歳のときに亡くなっていて、彼女にはその記憶もない。親友ディルの家庭も複雑で、いるはずの母親は物語には一切関係しない。夥しい数にのぼる登場人物たちの多くも妻や母親を喪っているし、女性は未婚か未亡人が多い。フィンチ家の家政婦カルパーニアは結婚して成人した息子がいるし、叔母アレクサンドラも同様だが、彼女たちの家庭も具体的には描かれない。この小説の世界では女性と家庭が無言のうちに穏やかに分断されているのだ。
それはおそらく、普遍的に保守的な田舎町の社会環境と、男勝りな弁護士の娘というヒロインのニュートラルな主観とをハッキリと対比させるための巧妙な仕掛けなのだろう。彼女のあくまで自由な心が父アティカスのもつ毅然とした信念に基づくなら、そこにもうひとりの親=母はフィクションの上には必要ない。だが母のいないヒロイン一家を必要以上に不幸にみせないためには、物語全体から“母親のいる家庭”の風景を排除しなくてはならなかったのだろう。そんなギミックが決して不自然に感じられないところがうまい。
それでもこの小説に母性が満ちているように感じるのは、著者や登場人物たちの、舞台となった南部という土地への深い愛情の反映のような気がする。貧しくて辺鄙で教育程度も低く、奇妙な人や厄介な人や危険な人はいくらでもいるし、根強い差別意識や病的な信仰深さ、時代遅れな倫理観や無意味な因襲に囚われた、ややこしいいびつな古い土地。それなのに住人は自分たちの生まれ育った町をこよなく深く愛している。愛に理由はいらないのだろうが、愛あればこそ、この小説はこれほど感動的なのだろう。

いつも思うことだが、英米文学の邦訳タイトルってなんでこんなにどうしようもなく凡庸なんだろう。『アラバマ物語』というとどうしても『子鹿物語』とかなんとか、そういう子ども向けの人畜無害な古典文学を連想してしまうが、この小説はまったくそんな内容ではない(原題『TO KILL A MOCKINGBIRD』。mockingbirdとはモノマネドリの意)。
最初に読んだときも何度も泣いた記憶があるけど、今回もしみじみ泣けました。ウン、いい本です。映画の方は未見だけど、廉価版が¥500で買えるみたいだし、今度観てみようと思います。

Open The Door

2006年06月04日 | movie
『13歳の夏に僕は生まれた』

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昨今日本だけでなく全世界的に深刻化している不法移民問題を、13歳の少年の視線から描いた物語。イタリア映画ってちょっと久しぶりかな?
邦題からしてもっと重い映画かと思ってたんだけど、そうでもなかったです。けど考えてみればイタリア映画って大抵そうかもね。ズシッと重くなってしまいそうな物語を、ギリギリのところでサラッとスマートに、でもキチンと心に響く語り方をする。あざとくはあっても嫌味でも説教くさくもなくって、そういうとこがけっこう好きです。
このお話もモチーフは不法移民だけど、あくまでテーマは思春期を迎えた主人公の心の成長。裕福な家のひとり息子でそれまで何不自由なく暮してきたサンドロ(マッテオ・ガドラ)だが、夏休みに父(アレッシオ・ボーニ)と出かけたヨット旅行で事故に遭い、救助された移民船の人々と数日を過ごす。おそらくそんなアクシデントでもなければ、彼は国を逃げ出さない限り食べてもいけない人々と自分とが、「同じ人間」であることに気づきもしなかったのではないだろうか。彼の父が経営している工場にも不法就労の外国人はいるし、級友にもアフリカ系の子はいる。街にも外国人はいて、サンドロはそういう人々の存在をふだんから身近に目にしてはいた。だが、ボロ船の狭いデッキに寿司詰めで眠り、腐りかけた食糧を分けあい、衣類を貸し借りしてかばいあう経験を通じて初めて、言葉もろくに通じない彼らを対等に感じることができたのだ。

人は成長過程においてしばしば、それまで住んでいた閉じられた世界の扉を発見し、その外にも世界が続いていることを知る。そしてそこへ自分の足で出ていくことや、そこで自分の力で生きていくこと、外の人間や文化やモノに触れるよろこびを知る。サンドロにとって扉は事故で、外の世界には不法移民がいたわけだ。
この映画がとても素直に観る人の胸にしみてくるのは、ともすれば説明っぽくなりがちな社会問題を、あえて正義を振りかざすことなく、ストレートに淡々と、無私無欲な子どもの立場から描いているからだ。本来なら盛りこみたいはずの多くの要素を必要最低限まで排除し、サンドロにわかること、サンドロにできること、サンドロが感じとれることに限定して構成している。非常にオトナなアプローチだと思う。

このサンドロを演じた子役は映画初出演だそーですが、なかなか存在感があってお芝居もうまかったです。父親役のアレッシオ・ボーニは二枚目なんだけどとても40歳にはみえない。せいぜい30か、ヘタすると20代後半の青年のようだ。それも狙ったキャスティングなのだろう。子どもを失いかけるという衝撃的な経験をして改めて父の自覚を感じるという複雑なキャラクターにとてもあっている。
クルド系ルーマニア人兄妹役のふたり(ヴラド・アレクサンドル・トーマ/エスター・ハザン)もなかなかインパクトある風貌。とくに妹の方は小柄なのにダイナマイトバディ(爆)で野性味たっぷりな顔だちがセクシーでした。ったってあの子たぶん13〜4歳くらいなんだろうけど。
オープニングのトム・ウェイツが激シブでした。

笑いなさい

2006年06月03日 | book
『プラダを着た悪魔』ローレン・ワイズバーガー著 佐竹史子訳
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元ヴォーグ編集長アシスタントの女の子が書いた、ファッション雑誌の編集部を舞台にした娯楽小説。映画化も決まってますね。てゆーかアメリカではもう公開されてんのかな?日本ではどーでしょー。ちなみに主演はアン・ハサウェイとメリル・ストリープ。
ここんとこカタめな本ばっかり読んでたから、息抜きに軽めのやつをと思って手にとってみたんだけど・・・うーむ。
業界コメディという点では前に読んだ『二遊間の恋 大リーグ・ドレフュス事件』と似たような小説です。ただし、『二遊間〜』が球界、『プラダ〜』はファッション界、前者が主人公をとりまく無数の人物の目を通した三人称で、後者が新卒社員の主人公の一人称で描かれているという、モチーフとスタイルが違う以上に、筆者にモチーフに対する愛情があるかないかという点が大きく異なっているが。
おそらくだが、このアンドレアというヒロインに多少なりとも洋服に対する情熱が備わっていれば、この本はもっとおもしろくなったんではないかと思う。このままでも充分に楽しめるが、どうしても「洋服なんて」という気取った目線が鼻についてしまうのがもったいない。もしもともと彼女がファッションに憧れなり哲学なりをもっていて、異常な職業環境によって自らの幻想を棄てるように変化していくという物語であれば、この小説はただのコメディではなく、きちんとした青春文学になる可能性があったかもしれないのだ。

先日『ロスト・イン・トランスレーション』を観た時も思ったことだが、マスコミ業界というのはなぜいつでも、とにかくただただ滑稽でバカバカしいだけの世界としてカリカチュアされ続けなければならないのだろうか。一般の観客・読者にとって、それはいつまで笑えるネタとしての鮮度を持った世界なのだろう。
実際にマスコミの現場にひととおり関わってきたぐりには、当然そうした小説や映画はとくにおもしろくもなんともない。それで?だから?で終わってしまう。TVでも映画でも、これまで何十年にもわたって使い古されたネタ以上でもなければ以下でもない。
傍目に異常にみえても、当事者はプロ意識をもって誠心誠意情熱をもって働いている人間を単純に笑ってバカにするだけの傲慢が、果たしてどれだけの「文化」「芸術」と呼び得るものだろう。
何も業界コメディがいけないとはいわない。その世界の歪みを通して、もっと広い世界観を表現しているのでなければ、その作品には最低限のオリジナリティがあるとはいえないのではないか?と思う。それだけのことだ。

ワイズバーガー氏にとってこの小説はデビュー作。まだ20代だそうだ。今後の活躍に期待したい。
ちなみにぐりオススメのモード・ドキュメンタリーは『アンジップト』と『都市とモードのビデオノート』デス。