落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

ファシズムの後で

2017年03月15日 | movie
『サバイバルファミリー』

鈴木家は会社員の父(小日向文世)、主婦の母(深津絵里)、大学生の長男(泉澤祐希)、高校生の長女(葵わかな)の4人暮らし。
ある朝、住んでいる地域一帯が停電し、時計も携帯電話も電車も自動車も、電気を使用するものがいっさい動かなくなってしまう。マンション暮しで水もなくなり食糧も尽きた一家は、母・光恵の父親(柄本明)が住む鹿児島に避難するため自転車で空港を目指すが・・・。
『スウィングガールズ』『ウォーターボーイズ』で知られる矢口史靖によるパニックコメディ。

たった10日足らずだが、電気のない生活をしたことがある。
6年前の震災当時、住んでいた地域では停電はしなかったけど、1ヶ月余り後に宮城県石巻市で緊急支援ボランティアに参加したときのことだ(出発日の記事)。ライフラインはある程度復旧していたが、滞在していた石巻専修大学グラウンドのボランティアサイトには電源がなかった。水道もガスもなくて、水は給水車で山の上の浄水場で汲んだものを、ガスは支援物資のボンベをつかって、毎日被災者1000人分の食事を調理した。コンビニもスーパーも飲食店も、半径30キロ圏内に営業している店は一軒もなく、自動販売機も一台もなかった。郵便局も銀行もATMも薬局も病院もホテルも銭湯もコインランドリーも、きれいさっぱり何もなかった。つまりクレジットカードはいうに及ばず、現金だってあったって何の役にも立たない。電車やバスなどの公共交通機関はまだ復旧前で、ガソリンも深刻に不足していてクルマは最低限しか使えないから、よほどのことがなければ、何か足りなくても買物のためにクルマを出そうなんて人間すらいなかった。
寒風吹きすさぶグラウンドで(大袈裟でなく本気で寒い)テント生活をしながら、300人以上のボランティアが文句ひとついわず自主的に電気のない生活をしていたあの日々。お金がなくても電気がなくても、互いに支えあえば何となく何とかなるということを身をもって知ることができた、貴重な体験だった。
ときどき、そのときのことを懐かしく思い出す。何もないからこそ、ただ隣にいるというだけで出会ったばかりの人同士、力いっぱい助けあおうとしていたときのことを。

電気が一般に普及したのは19世紀、まだ200年も経っていないのに、いまや人の生活は何もかもが電気に支配されている。
とはいえほんの半世紀ほど前まではこれほどではなかったはずだ。台所や風呂の煮炊きはかまどで薪や炭をつかっていたし、電気がなくても電話はかけられたし、写真も撮影できた。音楽だって演劇だって電気が登場するずっと前からあった。やはり震災のとき、被災されたお年寄りが「倉庫に眠っていた古い道具をつかって火をつけたり暖をとったりできて、若い人の役に立てたことが嬉しかった」といっていたのがとても印象的だった。
でもいまは何もかもが電化されて、ガス器具ですら電源がなければ使えないし、集合住宅などの給水ポンプも電気がなければ動かない。電話も電気がなければかけられない。何もかも電気がなければどうにもできない。そもそもただの便利な道具だった電気を中心にして世界はまわっている。電気のために環境が破壊され、人権が蹂躙されていても、ほとんど誰も気にとめない。
こんなの民主主義じゃない。ファシズムじゃないか。いつの間に、人間はそんなものをゆるしてしまったんだろう。

鈴木家一家はとくに仲良くもないごく普通の家族だ。独善的で見栄っ張りな父親、ただただ楽天的な母親、反抗的だが無口で気弱な息子、兄に輪をかけて反抗的で生意気な娘。よくもこんなにありきたりなキャラクターばっかり揃えられたなと、逆にビックリするくらい無個性な一家だ。個性がなさ過ぎて却って強烈ってところが天晴れ下劣な矢口節です。
その4人が電気のないサバイバル生活を経て、徐々に頼るものが互いしかいないことに気づき結びつきを深めていく過程が、状況のあまりの過酷さを通じて描かれる。コメディなんだけど、そこには嘘がない。無駄な状況説明もない。とにかくどんどん状況が悪くなっていくだけ。悪くなってもおなかはすく。水がなくなれば余裕がなくなる。精神状態も刺々しくなる。だからもうイヤになるくらい何度も衝突しあうんだけど、衝突したってなんにも解決なんかしっこないんだよね。そしてひとりひとりが助けあって譲りあえば、人の力と自然の力でちゃんと暮していくことはできる。そういう真理って、経験則でしか理解できない。

そんな緻密なシミュレーションの積み重ねが非常にリアル。超バカバカしい笑い話を、無茶苦茶真剣に根性はめて追求する姿勢は相変わらず素晴らしい。素敵。
けどよく考えたら矢口監督の初期の『裸足のピクニック』やら『ひみつの花園』も転落サバイバルコメディだったよね。
若手スター主演のメジャー映画に転向してからおもしろくなくなったと思ってたけど、キャラクターをひたすら過激においこみまくって観客をドン引きさせる下品なセンスは全然衰えてなかった。さすがっす。
ただストーリーそのものに芸がないのはちょっとどーかとも思った。そんなもんいらん、という潔さはある意味ストイックなのかもしれないけど、正直物足りなさも残っちゃったです。これはこれでいい映画だけどね。



桜の花の満開の下

2017年03月14日 | movie
『「知事抹殺」の真実』

2006年、収賄罪で辞任に追い込まれ、のちの裁判でも有罪判決を受けた佐藤栄佐久・元福島県知事。
1988年の初当選以来、県民の厚い支持を受け18年間も県政を率いてきたが、当初支持していた原発のトラブル隠し発覚後は反対の立場をとっていた。
中央政権に背いたばかりに、現実には存在しない罪に問われた政治家のドキュメンタリー。

仙台の映画館で観てまいりました。

いまから11年前、事件当時のことは正直あまりよく覚えていない。なにしろTVをいっさい観なくなっていたからだ。
それでも、同じ年に佐藤氏に続いて和歌山県知事の木村良樹氏と宮崎県知事の安藤忠恕氏が談合で逮捕起訴され、相次いで3人もの県知事が辞職に追い込まれた騒動のことは印象に残っている。
ちなみに現在の安倍首相が最初に自民党総裁に演出され首相となったのは、佐藤氏が逮捕される5日前。逮捕翌日に第一次安倍内閣が発足している。
そりゃ臭いますよね。めっちゃ臭うよ。いわゆる“人食いの村の入口の髑髏”みたいなことだよね。やっぱさ。

映画としての完成度はハッキリいってまあイマイチです。
客観的なドキュメンタリーなんて世の中には存在しないけど、建前としてドキュメンタリーは客観性=信憑性、主観的になればなるほどどんな素敵なお話も嘘くさくなってしまう。確かに佐藤氏はクリーンで地元では人気の方なんだろうけど、それをやたらめったらひけらかされても観客は「へーそうかいな」とひいてしまう。しかもその“佐藤さん素敵”パートが映画が始まってすぐです。さらにナレーションは佐藤さんご自身でございます。ビックリするよ。
あとね、けっこう複雑な題材なのに構成がザツ。原発に反対ならもうちょっと長期的な原発政策を具体的に描写していただかないと、ただ「トラブル隠しに疑問を感じた」「原発12基止めました」だけでくくられてもついていけない。逆に収賄やら裁判の部分はやたら細かい説明が多いのに、ファクターとファクターの関連性がざっくり抜け落ちてて全体がはっきり見えてこない。わかりにくい。観ててめっちゃストレスたまる。

自民政権はコワイですよ、いうこときかん知事はありもしない事件で闇から闇に葬られますよ、ヤバいですよ、でも佐藤さんは立派ですよ、すごいでしょ、というところをいいたいのはすごくわかるし、情熱もじゅうじゅう感じるけど、いかんせん映像作品としては三流かな。
題材がものすごくいいだけにとってももったいない。
冒頭に一社を除いてどこの局も映像を貸してくれなかったというテロップがあったけど、それはいいわけだと思う。
世にも美しい福島を舞台にドキュメンタリーをつくるんなら、もっといい作品にできたはずです。
富岡町の桜並木のシーンなんかよかったじゃないですか。元GEの名嘉幸照さんと涙をこらえながら語りあうシーン。事件後も信じて応援してくれた支持者への思いで感極まるシーンもぐっときました。
福島という豊かに自然溢れるあたたかな土地への愛に満ちたシークエンスが撮れたなら、そこを中心に据えて、もっとストレートな物語をくみたてることもできたと思う。
国の犯罪を暴くったって、ただただファクトとディテールばっかりじゃ映像は成り立たない。できることならつくりなおしてもらって、もっかい観たいよ(無理)。

関連記事:
『怒り』
『太陽の蓋』
『みえない雲』
『故郷よ』
『希望の国』
『原発のウソ』 小出裕章著
『朽ちていった命―被曝治療83日間の記録』  NHK「東海村臨界事故」取材班編
『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』 矢部宏治著



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沖縄の人が話さないこと

2017年03月05日 | lecture
公開講座「東京で考える沖縄・辺野古」 第5回 なぜレイプが繰り返されるのか?

諸事情あって少し前から沖縄の基地問題に関わる機会があり、現地も訪問しているのだが。
実際に行ってみていろいろと感じることがあり、もっと知見を深めたいという意識もあってこんな本も読んでみたりしてます。

タイトルはショッキングだけど、内容は普通に社会学の調査報告。
スピーカーの小野沢あかね氏は沖縄・旧コザ市でAサインバーと呼ばれた米兵相手の性風俗店に従事した人々に聞き取りをするフィールドワークをされていて、まあ結果ざっくりいえば、沖縄の米軍関係者による性暴力の背景にこうした官製性産業の存在があることは否定できないということらしい。はっきり名言はしませんけど。たぶん。

性暴力事件といえば、社会的にはどうしても加害者と被害者の個人的な問題にされやすいが、こと基地の周囲に関していえばそうではない(構造的暴力)。
そもそも軍隊が制度化された暴力装置であるからこそ、世界中どこでも軍隊のいるところ必ず性産業があり性搾取がうまれ、性暴力が発生する(関連記事)。なぜなら軍隊では「人を殺せる人間」を養成する。そこでは「暴力をふるうことができる人物」が理想である。しかも軍隊は地域社会とは結びつきがない。よしんば組織にはあっても、そこに属する兵士には任期があり、必然的に時期がくればよそへ移っていく。かつまた彼らには圧倒的経済力があり、性産業に従事する女性たちとの関係性は決して対等ではない。

コザ市で性産業が盛んになったのは、朝鮮戦争が始まって沖縄に基地建設ブームが起こったあとである。
地元住民を銃剣で脅迫し暴力で強制的に排除したうえで設置された基地の周囲に、米兵相手の歓楽街がつくられた。初めそこで働いていたのは困窮した戦争未亡人や戦災孤児、奄美諸島や本部・東村出身者が多かったという。本来は農業地帯だったこの地域の主幹産業はこうして性産業にとって替わられ、男性は基地雇用、女性は性産業か美容院・レストラン・ホテル・衣料品製造販売など米兵や彼らを相手に働く女性が主な顧客となる業種に就く比率が高くなった。地域経済そのものが基地に依存する構造に変わったわけである。
先述の通り、圧倒的経済力をもつ米兵を相手に商売するAサインバーは米軍の認可がなければ営業できない。そしてそのAサインバーの女性と客を顧客とする業種が地域経済の大半を占める。そこに均衡などありえない。そして権力がある側の存在意義の中心は暴力である。さてどうなるか。

一方で米軍統治時代の沖縄のローカル紙の紙面には、ほぼ毎月、米兵の沖縄女性への性暴力事件が掲載されていた。もともと性暴力事件は親告罪であり、暗数(実数と当局の把握している件数の差)が大きい。だから紙面に載るのは氷山の一角だとしても毎月って凄い数です。去年うるま市で起きた米軍属の強姦殺人事件の被告は「日本では報道力が弱いから逮捕は怖くなかった」と供述したというが、被害が露見することがないならなにをやってもよろしいという感覚に陥る人間がいてもおかしくない環境が、営々と醸成され続けているということもできるわけです。極端にいえば。

印象的だったのは、小野沢氏がインタビューした当事者(元ホステス・女給)が、一様にこうした性暴力や過酷な人身売買の実情については明言しなかったといった点。
毎月新聞沙汰になっていた強姦や殺人事件に彼女たちが一貫していっさい関わりがなかった、何の感興も抱いたことがないというのはおそらく真実ではない。またより厳しい条件で働いていたという地元住民相手の性風俗店の女性たちに対しても、何かしら思うところはあったはずである。
個人的には、そこに世間一般の大好きな“自己責任論”の無責任な罪深さを強く感じる。いまも頻発している米兵の性暴力の被害者の多くが、その事実を告発しないのと同じ原理だ。暴力に正当性なんかあるわけがないのに、100%加害者の責任であるはずなのに、なぜか世論は「そんな場所にいた被害者がいけない」「そんな人間に近づいた被害者が悪い」「どうせ殺されるようなことをしでかしたんだろう」といいたがる。事実がどうかなんて関係ない。とにかく加害者の責任や環境要因よりもまずいの一番に、取り返しのつかない傷を負った被害者やその遺族を貶めようとする、それがたとえ同業の人々であったとしても、被害者はただ運が悪かった・何か間違いを犯した、自分とは別な種類の人々=他人事としてかたづけようとする。
圧倒的な共感の欠如。

専門的で聞いてて若干しんどい部分もあったにせよ、沖縄にいって感じたことの裏付けにもなり、さらにもっとこの問題について知りたくなりました。
資料あたってもうちょっと勉強したいと思います。


関連レビュー:
『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』 矢部宏治著
『怒り』
『ハブと拳骨』
『ひめゆり』
『セックス・トラフィック』
『ハーフ・ザ・スカイ 彼女たちが世界の希望に変わるまで』 ニコラス・D・クリストフ/シェリル・ウーダン著

モンスター・クローゼット

2017年03月02日 | movie
『ひかりをあててしぼる』

合コンで知りあい惹かれあった浩平(忍成修吾)と智美(派谷恵美)は間もなく同棲を始め、智美の妊娠を期に結婚。ところが浩平の低収入に不安を感じた智美は堕胎してしまう。やがて夫婦関係は破綻し、浩平が転職に成功し高収入を得るようになると暴力が始まり・・・。
2006年に発生した新宿・渋谷エリートバラバラ殺人事件を題材にした舞台の映画化。

事件当時いっさいTVというものを観てなかったもので、正直にいえば細かいところまではよく覚えていないけど、報道にあったような「暴力をふるわれて精神状態を害した気の毒な妻が、切羽つまってついに夫を手にかけてしまった」というようなわかりやすい事件ではなかろうとも、どこかでは思っていた。
人間そこまで単純じゃないというのは一般論だとしても、DVという彼らの間にあったファクターのひとつだけをとりあげて、それだけで人間関係のすべてを語れはしないからだ。
DVは一種の病原体のようなものだが、それ単体で簡単に生命を左右するほどのものではないはずである。病原体が究極のカタストロフに到達するためには、そうなるだけの条件がすべて揃わなくてはならない。環境然り、宿主然り、栄養状態然り、タイミング然り、そしてこれら条件が一定期間維持される持続性然り。
まあ世間的にはふつうそういうのを「不幸な偶然のめぐりあわせ」とでもいうんでしょうが。

舞台の映画化なので(ごめん舞台版は観たことない)すごく舞台っぽい映画だし、たぶん舞台で観たらものすごい迫力だろうなとは思う。
とりあえず出演者の熱演がスゴイです。怖い。とくに派谷恵美怖い。「お姫様」なんて台詞があったけどそういう外見を鼻にかけるほどの容貌かどうかは完全に別として、忍成修吾に殴られたり犯されたり暴力ふるわれるたびにいちいち笑うのがもうむっちゃ怖い。あとあの金切り声気合いはいり過ぎです。怖いです。
事件を傍観してた浩平の友人・巧(永山たかし)の告白という形式にしたのもよかったと思う。夫婦の物語だから、うっかりするとふたりの狂気の館でぜんぶ完結してしまうのが非常につらい。だからたまに智美の妹(桜井ユキ)と巧のシーンに画面が変わると一瞬ほっと息がつける。そのリズムは悪くないと思いました。

が。
台本がいかんですなこれは。
台本の完成度が・・・・・45点だ。甘めにいっても。
まずもう台詞8割どうでもいい。しらじらしい。なくていい。いわなきゃいけないならもうちょっと頑張って、ちゃんと意味のある台詞にしてほしい。映画なんか台本で8~9割決まるんだから、とにかく妥協なしにもっと追い込むべきです。舞台でうまいこといってたとしても、所詮舞台(ライブ)と映画(映像)は別ものなんだから、映画の台本はそれとはまったくべつにイチから立ち上げなおすべきでは。
全体に統一感がないのも観ててへこむ。やる気まんまんなシーンとそうでもないシーンのギャップがでかすぎる。これが撮りたかったのよねっというシーン(めちゃくちゃわかりやすい)があるのはいっこうに構わない。しかしそれ以外のシーンはどうした。監督は本番中にほじった鼻くそでも観察しとったんかい。もしそうでなかったらむしろ逆に一大事やでこれ。困るよ。

実在の事件をモチーフにしているとはいえ、やっぱりドラマとしてのバランスにも疑問は感じます。
殺人事件なんだから殺す方が悪いに決まってる。それはわかる。異論はない。けどどんな暴力にも正当性はないのだ。殺されて当たり前の人間がいないのと同じように、起きて当たり前のDVはない。そこで唯一の正解は、何もかも捨てて逃げて逃げて逃げ通す以外には存在しない。それができなくて、人は命を落とす。
作品の中では精神的にもろくずるい夫が一方的に妻に振りまわされる図式になってたし、もしかすると事実そうなのかもしれないけど、だとしても物語の世界観として、主要人物の内面描写がほぼお留守という不均衡が、映画全体の緊張感を致命的に損なわせている最大の要因ではないかと強く感じる。
もしその点がカバーされていたなら、結末がわかっていても、より手に汗握る一級のサスペンス映画にできたかもしれない。
それにしてもやる気のないシーンの数々が・・・ああっ・・・。

辛いことばかり書いてしまいましたが、坂牧くん、せっかくここまで続けてきたんだから、もっと頑張ろう。とにかく台本、頑張ってください。