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人間上界下界

2006年09月30日 | 千伝。
加藤廣著の「信長の棺」「秀吉の枷」を読み終えました。

大胆な歴史小説ですが・・ちょっと大胆な推理すぎるかなぁ。

天下人と言えども鬼畜としての「心の闇」と人間としての「心の地獄」というものを読まされてしまったような推理小説でした。

ところで、昨日で東京タワーに1億5千万人ものが上ったとか・・

小学生の頃、はじめて東京に連れて行ってもらった日のことが思い出されます。

東京タワーと当時出来上がったばかりの日本一の高層ビルだった36階建ての霞ヶ関ビルに行きました。

「東京タワー」から、タクシーで「霞ヶ関ビル」まで移動しましたが、子供心としての記憶は、ずっと東京タワーの方が高くてスリルがあったような記憶があります。

それが、東京タワーとの出会いでした。

残念ながら霞ヶ関ビルの方は、その後、それ以上の高層ビルが沢山出来上がったからでしょうか・・透明なガラスと展望台からの眺望が低かったような記憶しか残っていません。

その後、東京で働いていた頃、ぼくのデスクから、東京タワーが見えました。

毎日、窓から眺めながら、東京タワーから元気を貰っていたような気がしたものです。(笑)

計20回ぐらいは、東京タワーの最上階の特別展望台に上ったと思います。

昔、あの場所から、東京の街を眺めながら、あれこれと他愛もない事をよく考えていました。

基本的には、東京(江戸)は、徳川家康が作った人工的な街です。

加えて天海僧正なる人物が、五色不動、上野の寛永寺をはじめとした実相学やら風水やら密教やらを基づいて摩訶不思議な力を江戸という地に呼び込んでいます。

静岡に久能寺東照宮があります。

その地が、富士山を結んで日光東照宮と一直線上にあります。

さらに駿府城と家康公の出生地、岡崎までもが一直線上になります。

偶然だとしても驚くべきものです。

400年ほど昔、どれぐらいのレベルでの測量知識があったのだろうか・・。

天海は、天才か・・。

因みに、この天海は、秘密裏に生き延びた明智光秀ではないかという説もあります。

・・理由は、日光の近くに明智平という地名もあるし、日光東照宮陽明門には、坐像の着物には明智家の桔梗紋が使われているという事柄等々。

それって・・違うだろうなぁ。

当時、織田信長は、切支丹、南蛮寺の守護神のような存在であり、逆に、鬼畜としての仏敵でした。

その仏敵を葬った明智光秀は、仏教徒であった天海や信心深い家康にとっては、光秀は、「成仏」になったのだと考えたほうが理解しやすいはずです。

秀吉は、どうだったのだろう?

長崎が切支丹の領土化されているの目にして、切支丹禁止令を出しています。

これだけは、豊臣憎しの徳川と言えども、踏み絵までして同じ政策を取り、鎖国令まで発しています。

ところで、信長と秀吉は、切支丹の影響で「地球は丸い。という宇宙観」があったようです。

つまり、海の向こうにある世界観というものです。

家康には、そういった感覚がなかったように映ります。

厭離穢土・欣求浄土(えんりえど・ごんぐじょうど)の仏様の世界観を中心として生きていたように映るのです。

さらに、東照宮とは、東の天照大神という意味です。

仏様ではないのです。勿論、イエス・キリストでもありません。

つまり、あるべき姿として、仏様が大神様を守っていらしゃるのです。

約400年ほど昔、信長、秀吉、家康という日本史上稀有の大人物の1人でも欠けていたならば・・61年昔のヒロシマに原爆が、落ちていなかったのを確信します。

写真は、先日訪ねた静岡の久能寺東照宮から俯瞰した太平洋です。

当時の人々や家康は、海の向こうに何を思うて、生きたのでしょう。

「畏れ」かなぁ・・。

東京タワーから眺めた下界は、「ままならぬ人間世界」でした。