トルコ、イスタンブールのダウンタウンを散策している際、急に催したくなり公共のトイレに駆け込んだ思い出があります。
和式同様なトイレでしゃがみ込んで素早く用を済ますと、さて? トイレットペーパーが無い、紙が無いのです。
目の前にドアを凝視していると、何やら模様だと思っていた茶色の縦筋、右横にチョロチョロと流れていた水・・はて? 全て理解できました。
トルコはイスラム教国、左手は不浄の手、その手を水に濡らし肛門を洗い、その手に付いた糞をそのままドアに拭うようにした跡なのです。
それで、どうしようかな?と思案しながらも自らの手で肛門を洗うことは出来ませんでした。
文庫本の「まえがき」「あとがき」の部分を破いて、その紙面を使って用を済ませました。
帰国後、この事を父に話したら、戦時中ジャワ島ではロープのようなものを両端の木につないで、用を足した後は、そのロープをまたいで歩きながら股間を拭いていたと言っていました。
今日は、父の命日。
随分、昔のイスタンブールでの旅の思い出です。
さて、時代は移り変わり現在へ。
先日、人生4回目となる大腸内視鏡検査を行いました。
端末に高性能カメラがついたスコープを肛門から挿入し、肛門、大腸、小腸の一部(回腸末端)を調べる検査です。
苦痛? 「断腸の思い」とは無縁です。
まぁ、出るわ、出るわ、宿便にオナラ・・腸=腹は、第二の脳だと言われています。
腹を括る、腹を固める、腹を決める、腹に納める、つまりは、「覚悟を決める」と「丹田に気を集める」という養生訓に繋がります。
日本のアリストレスと言われる江戸時代の儒学者貝原益軒の「養生訓」より抜粋。
「怒れば気が上がる。喜べば気が緩む。悲しめば気が消える。恐れれば気がめぐらない。寒ければ気が閉じる。暑ければ気がもれる。驚けば気が乱れる。労すれば気が減る。思い悩めば気が結ばれる。」
「すべての病気はみな気から生じる。病気とは文字通り「気が病む」ことである。ゆえに、養生の道は気を調えることにある。調えるということは、気を和らげて平らかにすることである。 ともかく気を養う道は、気を減らさないことと、気をふさがないことにある。気を和らげて平らかにすれば、この二つの憂いはなくなる。」と説いた貝原益軒。
およそ人間には三つの楽しみがある。
一つは道を行ない心得ちがいをせず、善を楽しむこと。
二つは健康で気持よく楽しむこと。
三つは長生きして長くひさしく楽しむことである。
いくら富貴であっても、この三つの楽しみがなければ真の楽しみは得られない。
老後はわずかに一日でも、楽しまないで空しくすごすことは惜しまなければならぬ。
老後の一日は千金に値するものである。
ひとの子たるものは、このことを心にかけて思わないでよいはずはない。
ひとの身体は父母を本(もと)とし、天地を初めとしてなったものであって、天地・父母の恵みを受けて生まれ育った身体であるから、それは私自身のもののようであるが、しかし私のみによって存在するものではない。
つまり、天地の賜物であり、父母の残して下さった身体であるから、慎んで大切にして天寿をたもつように心がけなければならない。
これが天地・父母に仕える孝の本である。
身体を失っては仕えようもないのである。(後略)
そう結局便が詰まる所、養生訓は「心楽しく」と語っているのです。