ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

忘れえぬ船々~松丸 檜丸 くれない丸~

2011年06月20日 | 百伝。
国木田独歩の「忘れえぬ人々」のなかに、深夜の瀬戸内航路の船の中から、とある島の男をみた光景が書かれている。

小生は、幼い子供の頃、鮮烈な思い出を刻まれた客船がある。

瀬戸内海の女王と呼ばれた大阪から別府まで瀬戸内海航路を走る関西汽船の豪華客船「くれない丸」と「むらさき丸」の双子客船である。

ライトグリーンの船体の美しさは、子供心にワクワクするものがあった。

昭和30年代、大阪ー別府間を速力19.5ノット、14時間で結んだ「くれない丸」と「むらさき丸」が就航する。

当時の列車では、大阪から別府まで19時間を要したというから、船旅の方が速い!

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同じ頃、関西汽船は、内航貨物船を建造している。

機帆船から鋼船に変わろうとした時代である。

昭和29年、船名が、「松丸」と「杉丸」の双子小型鋼船を建造。

そして、昭和31年、小生と同年生まれの「檜丸」と「桂丸」の双子鋼船を建造。

さらに、昭和35年、「楠丸」建造。

上記の関西汽船の内航貨物船「松丸」と「杉丸」の運航委託管理したのが神戸の冨島商運である。

そして、其々の「松丸」と「杉丸」の船長になったのが、父と父の兄であった。

その後、松丸と杉丸は売船されて、檜丸と桂丸に変わった。

小生、幼い頃から父の船によく乗せられた。

松丸?だったか、檜丸?だったか・・すぐ横を、速力20ノット近いスピードで豪華客船「くれない丸」がサーと追い抜くのである。

幼い心に「くれない丸」を羨ましいぐらいに見上げるように眺めていた。

そして、若い甲板員のお兄ちゃんが、くれない丸に乗船している若い女性たちに白いタオルを持ってしっかり手を振る。

手を振られた相手の若い女性からも、しっかりと手が振られていた。

そんな光景を何度も観て、若い大人たちの挨拶は、そういうものなのかな・・と幼い子供心に考えていた。(笑)

今思えば・・立派な観光演出だったかもしれない。

おそらく、当時、関西圏と四国、九州圏を行き交わした人々が、「くれない丸」や「むらさき丸」の船名を聞くと、昭和のノスタルジー(郷愁)を思い起こすのではないかと思う。

それほど、「くれない丸」と「むらさき丸」は、船色も船体も麗しく美しく存在感があった。

それに較べて、内航貨物船の「松丸」と「杉丸」の存在は、当時、どのようなものだったのか?・・かつて船乗りだった方々から聞いた話である。

「松丸、杉丸、檜丸、桂丸・・憶えているよ。当時、白い鉢巻をした煙突の関西汽船の鋼船だろう。瀬戸内海じゃ、そりゃぁ、羨望の的だったよ」



私は、嬉しくなった思い出がある。

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関西汽船は、元大阪商船(現商船三井)の傘下で瀬戸内海航路に運営委託されて設立された。
(現在、関西汽船は、商船三井の子会社)

その大阪商船は、瀬戸内海の海船問屋を集合して設立された・・日本郵船の設立よりも一年早いらしい。

瀬戸内海の沿岸諸島(とりわけ愛媛県は有名)には一隻船主が多いが、集約して効率的には、海運及び陸運輸倉庫業を営む方向性もあるが・・現代においては、リスクの分散・・つまりは、日本及び世界各地の船主が海運会社に貸し出し船舶資産として運用しながら物流会社として動いている側面が強い。

以前の仕事で、海陸物流企業への見積り依頼から輸出入の船荷証券(BL)を扱った経験もあるが、日本を代表する海運業者と言うと、NYK(日本郵船)、MOL(商船三井)、K-Line(川崎汽船)である。

・・海事国家日本としては、世界の七つの海に向けてもっと頑張ってほしい。

海外の何処に行っても目にするコンテナ海運業者は、Maersk Line, Ever Green, OOCL、Hapag-Lloyd 等々・・これらの世界を代表する海運業者も、はじまりは、小さな一隻の船出から始まったのである。

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