近衛文麿は、「新体制運動」確立のため、1940年6月24日枢密院議長を辞職を発表した。「新党」設立の内容は不明確であったが、ナチス・ドイツの電撃的勝利による機運に乗って「挙国的な国民運動」を展開する方針とした。この動きに、政党は「バスに乗り遅れるな」と慌て「解党」していく。6月19日東方会、7月1日日本革新党、7月6日社会大衆党、7月16日政友会久原派、7月21日日本労働総同盟、7月26日国民同盟、7月30日政友会中島派、8月15日民政党。ポピュリスト近衛文麿は、日中戦争を開始し、アジア・太平洋戦争への道をも開いた。
7月22日第一次近衛文麿内閣(1937.6.4~1939.1.4)の成立。8月28日新体制準備会設立。10月12日大政翼賛会発足。綱領なし。翼賛会は、ナチス・ドイツのヨーロッパ制覇の気運と、それを礼賛する「メディア」が作った「ポピュリズム」のみに依拠したため、理念も目的もなかった。
この当時の国民意識について、武藤章軍務局長と親しくしていた矢次一夫は以下のように語っている。
「近衛の新党構想が、二転三転している間に、パリが落ち、イタリアが参戦し、イギリスが、ダンケルクの悲劇で四苦八苦して、明日にも独軍の対英上陸ができそうだ、という欧州大戦の発展は、連日の新聞紙上、日本国内にまで、一大戦勝ムードを作り上げた。日本人の常として、忽ちこのムードに酔い、昂奮したり、熱狂して、「バスに乗り遅れるな」という叫びが、至る所で、わめき立てられた。……独軍の対英上陸作戦の可能性は、みな、手に汗を握る思いで、今日か、明日か、と固唾を呑んでいた。こうした激動する状況の中で、西園寺公望が、いかにヒトラーが偉くとも、十五年つづくか、続かぬかの問題だ。……まだまだ前途は、わからぬ、といっていたことが、「原田日記」(六月十七日)にのっており、さすがは西園寺と、今にして思うけれども、当時駐英大使であった重光葵や、大使館付武官であった辰見栄一大佐が、独軍の上陸作戦は、制空権をもっていないとか、チャーチル首相の強力な抗戦計画などを理由に、不可能に近い事を打電してきていたのを、武藤が読んで、情勢は慎重に見るべき事を、語っていたのが思い出される。しかし、このような達見の士は、極く少数であり、沸き立っている大衆の耳からは遠く、かすかであった。……これを批判したり、水を掛けるような事を言うものは、袋叩きに会うのである。……武藤も、軍務局長として、政府と軍部との連絡役という立場で、色々と調整に努めてはいた。しかし、ドイツ大勝に煽られ、バスに乗り遅れるな、という大衆の昂奮や、参謀本部将校団の焦燥感とが、相乗作用を起こすし、沸き立つような「反米内内閣」の風潮の中で、次第に戸惑いを見せていた」(矢次一夫『政変昭和秘史─戦時下の総理大臣たち』)」
(2024年7月15日投稿)