原爆投下の犯罪性について法廷で初めて提起されたのは、極東国際軍事裁判(東京裁判。1946年5月~48年11月)においてであった。A級戦犯の弁護人であったアメリカ人弁護士ブレークニーが「真珠湾攻撃が殺人罪に問われるならば、原子爆弾での殺人はどうなるのか」と提起したのであった。しかし、極東委員会を構成していた11カ国から各一人が任命されていた裁判官たちは合議の結果、却下している。
原爆投下による被害に対する損害賠償請求訴訟の動きは、1952年4月28日のサンフランシスコ講和(平和)条約発効(1952年4月28日)後に起ってきた。それを提唱したのは岡本尚一という弁護士であった。彼は『原爆民訴惑問』というパンフレットを発行し、「原爆投下は国際法違反であり、被爆者やその遺族はアメリカ政府に対し損害賠償請求訴訟を起こすべきである。そして、悲惨な状態に置かれている被爆者を救済し、今後原爆の使用を禁止させよう」と訴えた。しかし、日本政府(第3次吉田茂内閣)が講和条約の第19条で「日本国及び日本国民(被爆者を含む)による連合国及び連合国民(アメリカ国及びその国民)への賠償請求権を放棄」したという事で、アメリカ政府を訴える事ができないと理解した。そこで1955年4月に、広島、長崎の被爆者5人が後遺障害や家族を失った被害の賠償を日本政府に求めるため東京地裁に提訴(国家賠償請求訴訟)した。判決(裁判長古閑敏正、三淵嘉子、高桑昭)は1963年12月に下った。内容は「残虐な爆弾を投下した行為は、不必要な苦痛を与えてはならないという国際法(戦争法)の基本原則に違反している」事を詳細に指摘して認定した。また、判決では「国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだ。被告(国家=政府)がこれに鑑み、十分な救済策を執るべきことは、多言を要しない」とした。しかし、「現行国際法の下では被害を受けた個人には賠償請求の権利は認められない」と日本政府に対する(米国政府に対してでないにもかかわらず)損害賠償請求については「棄却する」とした、棄却を求めた「国家=政府」の「敗訴」の明確な判断を避けた曖昧で矛盾した内容であった。この判決内容は日本政府にはもちろん米国政府に対しても忖度したものであったため内容が矛盾した判決であった。この時訴訟代理人の一人であった岡本弁護士はすでに亡くなっていた。判決は、今日まで世界で「唯一」原爆投下を違法としたものとなり、この後訴訟の原告の名前から「シモダ・ケース」と呼ばれ海外でも知られていった。
1996年に国際司法裁判所が示した「核兵器の威嚇と使用は一般的には国際法に違反する」という勧告にも影響を与えたといわれている。
※「原爆裁判」判決での主な言及……「広島、長崎両市に対する原子爆弾の投下により、多数の市民の生命が失われ、生き残った者でも、放射線の影響により18年後の現在においてすら、生命をおびやかされている者のあることは、まことに悲しむべき現実である。(中略)このような残虐な爆弾を投下した行為は、不必要な苦痛を与えてはならないという戦争法の基本原則に違反しているということができよう。「国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。(中略)被告がこれに鑑み、十分な救済策を執るべきことは、多言を要しないであろう」「高度の経済成長をとげたわが国において、国家財政上これが不可能であるとはとうてい考えられない。われわれは本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおれないのである」
※「日本国憲法前文」におけるアジア太平洋戦争についての定義……「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」
(2024年5月21日投稿)