第2次近衛文麿内閣は1940年7月22日に組閣され、41年7月16日まで(第3次近衛内閣は41年7月18日から同年10月10日まで)であった。そして翌日の23日夕に、近衛は「大命を拝して」と題したラジオ放送を行った。近衛は1937年6月4日の第1次近衛内閣組閣の当日夕にも「全国民に告ぐ」というラジオ放送を行っていた。これは史上初の試みであった。
さて、「大命を拝して」の放送の趣旨について以下に紹介しよう。
「世界情勢の一変に対応して国内体制の一新を図らねばならないとして、特に政党について、『立党の趣旨において、自由主義をとり、民主主義をとり、或は社会主義をとって、その根本の世界観人生観がすでに国体と相容れない』、またその目的が政権争奪にある事は『立法府における大政翼賛の道では断じてない』として非難した。また、日本独自の立場で外交を進める事、そのためには日本経済を外国依存から脱却せしめて、満州・中国との提携、南洋方面への発展を要する事、国民生活は確保するが、増産と節約が不可欠である事、個人の創意を重んじるが、種々の統制は不可避であるという事、教育の刷新が根本である」と主張した」
この内容については、リベラルな元老西園寺公望や議会主義の鳩山一郎などは批判的であったが、極めて少数派であった。既成政党の主流も、新党の指導者を狙っていた社会大衆党も、革新派の官僚や運動家も、それ以上に軍部が歓迎した。
(2024年8月14日投稿)