2020年8月4日の朝日新聞夕刊「戦後75年 被爆地往復書簡」を読んだ。その中で、広島の甲斐さんが「広島は軍都でした。軍の施設があり、港から兵隊や物資が大陸に送られていったのです」と述べている広島についての認識は、なぜ原爆を投下されたのかを考える場合、また日本人が核兵器廃絶運動に理解を得る上で、非常に重要な認識だといえる。それは加害の認識であり、その事については、8月4日朝刊『オピニオン&フォーラム』「被爆建築 軍都の証人」で被爆者の切明千枝子さんも「広島は戦争のおかげで大きくなった街なんです。日清戦争の時なんか、大本営が広島にきたんですから」「被服支廠は、太平洋戦争に至るまでの日本の軍国主義のシンボル。広島が軍都だった事、原爆被害を受ける前は加害の地であった事の証明です。そんな歴史も知らず、『原爆にやられた可哀そうな被爆地でござい』って平和を叫んでも、空しいものがある」と語っている認識と通じている。そして、拙稿カテゴリー「核兵器」の「核廃絶の本気度が疑われる『広島平和記念館』……」に書いたが、すでに広島の平岡敬元市長がそのような認識をもつ事の重要性を主張していたからである。そして、この加害の認識については長崎の本島等元市長も主張していたのです(上記拙稿参照)。
しかし、甲斐さんは、長崎についてのイメージにはそのようなもの(加害)がないように語っている。そして、長崎の原田さんもその事を知らないのか、触れていない。しかし、二人は知らないのである。実は本島等元市長はきちんと主張していたのです。それは「長崎は原爆の被害を被ったわけですが、実は大橋という所に兵器工場があり、そこでは日本で作られる魚雷の実に8割を生産していました。そして、その工場で作られた魚雷が実際に真珠湾攻撃などで使用されたわけですから、やはり外に向かって戦争責任があり……」(2002年8月4日第2回『大東亜聖戦大碑』の撤去を求める全国集会で講演)というものです。そして、2020年8月5日朝日新聞「戦後75年 被爆者は託す4⃣」でも、山口美代子さんについて「戦時中、長崎には魚雷や防雷具などを作る兵器工場があった。長崎県立長崎高等女学校3年生だった山口さんは、長崎市の三菱兵器大橋工場に動員され、魚雷の部品の図面を複写していた」としているのである。長崎も加害の街だったのです。二人がこの事実を知っていたら、もっと違った内容の語らいになった事だろう。
そして、二人は戦争も核兵器をなくすためには、原爆を投下された事について、ともに「米国」に対する「憎しみ」「悲しみ」を「越え」る事の大切さを共感し、「知り、行動し、平和を作っていく」事の大切さで意気投合しているが、その目的を達成するためには先ず知らねばならない事がある。それは米国に2発の原爆投下を実行させた神聖天皇主権大日本帝国政府為政者の投下前後時点の意識や対応であり、そこから教訓を得る事である。主権者国民は「憎しみ」や「悲しみ」は神聖天皇主権大日本帝国政府へ向けるべきなのである。そして、安倍自公政府に対し、大日本帝国政府の罪を認めさせ謝罪させるとともに、戦後、今日に至るまでの自民党の「核」に関する様々な事故事件などに対する姿勢についても、その罪を認めさせ謝罪させる取り組みを行う事こそ先ず必要であろう。その事なしに原爆(核兵器)の被害者だとして世界の人々に対し「悲惨さ」「酷さ」だけをどれほどの量どれほどの時間訴えても、自分本位にしか理解されず、筋が通った主張とは言えないために、真に心に響かず共感を得る事はできないのである。
(2020年8月7日投稿)
以上について、僕の個人体験を一つ添えたいと思います。僕の父は、江田島にある海軍兵学校の数学教官になりました。僕が生まれた後だから1942年だと思います。父自身は良い家の出ではなく、愛知県知多半島の小島の漁師の3男として生まれましたが、たまたま出来が良くって東京高等師範学校・文理大を出た、その結果でした。江田島村に1945年夏過ぎまでいたから、三学年上の兄は原爆を覚えています。4歳だった僕も、裏山に墜ちた米軍飛行機を父に抱かれて見に行った覚えがある。途中で消防団に「この奥はもう、通行禁止」と制止された時、「この奥には鬼がいるのだ」と言うような感覚になったのを、痛烈に記憶しています。軍港の記憶もありますね。広島県は確かに軍都、しかも「加害者」を象徴する県とも言えましょう。