7月31日の朝日新聞の「文化の扉」欄に「香道 心で聞く」という記事が載った。
その記事の「タイトル」は大きく書かれていた。そこには、「聞く」という表現に「威厳」を持たせを使用する事を「強調」したいという思いと、「香道に親しむ人たち」がこの記事の読者に対する「上から目線」の「優越感」が、否応なく「にじみ出ている」のを「見え見え」で感じた。
なぜなら、「聞く」という表現については、一般的に日本人が「匂いを嗅ぐ」と表現するのに対し、中国では「聞」と表現してきたのである。それを日本人が「聞く」と日本語的に発音表現してきただけの事であって、日本人が「特別」に深い由緒があるかのように威厳を持たせて使用するべき「ことば」とする必要がないからだ。「聞く」という表現を使用し続けてきたという事は、これまでの日本人の、中国や朝鮮半島諸国に対するコンプレックスの表れ以外の何物でもないと考えるべきである。
現在の日本で、日本語で表現できる事を「英語」で表現する意識とその理由は同じである。
また現在、この「香道」から発展変化してきたものといってよい「アロマテラピー」というものがあるが、「医療介護」分野において世界でも有効視されている。
最後に、「匂い」や「香り」を「消す」という文化を持つ国民は「日本人」だけといえる事も知っておいた方が良いだろう。現在の日本の国ほど生活に「匂い」や「香り」のない国はこの地球上で存在しないだろう。昔の日本はそうでもなかったけれど。
「匂い」「香り」のない、またそれを「消す」「文化」は日本人にとって、幸せを導くのだろうか?
(2016年8月2日投稿)