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自民「中立性逸脱」教育ネットアンケは、憲法、教育基本法の精神に反する。教員弾圧が狙い。

2023-06-24 22:34:51 | 教育

 「政治的中立」に関する2015年7月の自民党の動向については、別稿「ごまかしの『政治的中立逸脱』ではなく『憲法尊重擁護義務逸脱』への罰則を提言すべきだ」を参照してください。

 自民党文部科学部会は6月25日から党の公式HPで、学校教育での「政治的中立を逸脱するような不適切な事例」の情報提供を呼びかけてきた(「学校教育における政治的中立性についての実態調査」。作成指示者は木原稔・党文部科学部会長。調査は7月18日付で終了)。(部会は教育公務員特例法を改め、中立性を逸脱した教員に罰則を科す事を検討中)

 調査理由は、18歳以上の選挙権が拡大された事で、「主権者教育が重要な意味を持つ中、偏向した教育が行われる事で、生徒の多面的多角的な視点を失わせてしまう恐れがある」としていた。HPの調査の呼びかけでは「教育現場の中には『教育の政治的中立はありえない』と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいる事も事実」と断定。また、「高校などで行われる模擬投票等で意図的に政治色の強い偏向教育を行う事で、特定のイデオロギーに染まった結論が導き出される」などと主張していた。

 また、アンケートには投稿者の使命や連絡先、職業とともに、「不適切事例」について「いつ、どこで、だれが、何を、どのように」を明らかにして記入する事を求めていた。

 馳浩文科相は7月12日、記者会見で「党として、たぶん実態がどういうものか分からず、(把握するには)どうしたものか、と考えた中の一案だ」と理解を示したとの事だった。

 7月20日、木原稔氏は、「政治的中立性」を確保するための提言を出す方針である事を公表した。

 さて、自民党のこの「政治的中立性」、またその「逸脱」という表現に、不安や恐れを感じる必要はない。逆に彼らを論破非難し責任追及すべきである。なぜなら、「政治的中立性」など存在しないからである。それを自民党は「中立」という立場があるかのようにまたそれが正しいと思わせ、また、自分たちこそ「中立」であると思わせ、自分たちの「中立ではない」姿勢を正当化し、安倍自民党政権を批判非難する学校の教育内容やそれを担う教員に「中立性逸脱」という表現で抑圧し弾圧排除し、自分たちの考え方を押し付け浸透させ画一化させようとしているのである。これほど謀略的な態度はなく、大日本帝国下で言えば「非国民」のレッテルを張り「自己規制」「転向」をさせ、それに従わなければ処罰したのと同じである。

 そして、このネットアンケートの手法は、敗戦までの大日本帝国下で国家権力警察権力(特高など)が国民に対して反政府活動者や政府批判者の「密告」を奨励強制していた手法を、今回公然と「ネット」を使って行ったという事なのであり、憲法が保障している国民の人権を侵害する看過できない問題として重要視しなければならない。

 2006年に第1次安倍政権で改正された「改正教育基本法」では、前文に、「日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家をさらに発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献する事を願うものである。我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、……。ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、……。」とあり、第1条「教育の目的」では、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とある。

 つまり、学校の教育内容は、現行の「日本国憲法の精神にのっとり」実施されなければならないのである。現行の「日本国憲法の精神」とは「国民主権、基本的人権の尊重、平和主義(戦争放棄)」の3原則なのである。これこそが学校教育のめざさなければならない目標でなければならないのである。自民党は現行の憲法を否定しているので「日本国憲法」に則りという表現を使わず、「政治的中立性」という表現を使用しているのである。

現行憲法が廃止され、「自民党憲法改正草案」が成立すれば、「改正教育基本法」の中の「日本国憲法」という言葉の中身は現行とは異なる内容となり、「改正教育基本法」はその内容に沿ったものへと再び改正するつもりなのであろう。そして、「政治的中立性」という表現は使用しなくなるだろう。

主権者教育は名ばかりで形骸化し、中身は変質し「臣民」化教育となるだろう。そして、さらに進化して「皇国臣民」化教育となるだろう。

(2016年7月24日投稿) 

 

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自民「政治的中立」ネット調査は1954年「教育2法」成立前の状況と酷似

2023-06-24 22:31:37 | 教育

 自民党は公式HPで「学校教育における政治的中立性についての実態調査」なるものを、6月25日に開設し、7月18日付で閉鎖した。投稿の際には、投稿者の氏名や連絡先とともに「いつ、どこで、誰が、何を、どのように」を明らかにする事を要求していた。閉鎖に際し、作成を指示した木原稔・党文部科学部会長は「参院選が終わり、一通りの(事例)が出尽くした」と述べた。この調査では、「政治的中立を逸脱するような不適切な事例」を募集するとしていたが、その目的について木原氏は、「選挙年齢が18歳以上となった参院選前後で高校などで混乱がなかったかを調べるためである」と説明していた。またHPでは、「主権者教育が重要な意味を持つ、偏向した教育が行われる事で、生徒の多面的多角的な視点を失わせてしまう恐れがある」とか、「教育現場の中には『教育の政治的中立はありえない』と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいる事も事実」と断定し、「高校などで行われる模擬投票等で意図的に政治色の強い偏向教育を行う事で、特定のイデオロギーに染まった結論が導き出される」などと主張して情報提供を呼びかけていた。

逸脱しているか否かについては、「安保関連法は廃止にすべき」については「逸脱」するとしていた

部会内のPTは5月に、高校教員が政治的中立を逸脱場合に罰則を科せるように法改正を検討するという中間とりまとめをすでに発表している。また部会は「教育公務員特例法を改め、中立性を逸脱した教員に罰則を科す事を検討している。

さて、敗戦後の日本で、政府が、教育を「偏向」しているとみなし問題とした最初は、1953年の第5次自由党吉田内閣(1953年5月21日~1954年12月7日)の時である。6月、大達茂雄文部大臣が山口県教組の作成した小・中学生の夏休み日記帳に「偏向」記事があるとしたのである。

 1953年12月23日、文部省は「教育の中立性が保持されていない事例の調査について」という極秘通牒を全国の教育委員会に出した。その内容は、

「近時新聞等に、学校内において教育の中立性を阻害するがごとき事例が報ぜられているが、その実情を承知致したいので、貴都道府県内の公立学校等において、特定の立場に偏した内容を有する教材資料を使用している事例、または特定の政党の政治的主張を移して、児童・生徒の脳裏に印しようとしている事例、その他一部の利害関係や特定の政治的立場によって教育を利用し、歪曲している事例等、教育の中立性が保持されていない事例について至急調査の上、該当事例の有無ならびに該当事例があれば、その関係資料添付の上、できる限り具体的に、至急報告願います。」というものである。

 その動きを受けた中教審(53年1月発足)からは1954年1月に「教育の政治的中立維持に関する答申」が出された。

 その動きに対して同月の参院本会議で左派社会党の荒木正三郎が質問(教育規制の特別立法に対する質問)に立って述べた。その大まかな内容は、

「今回の措置は、吉田首相のいう占領政策の是正に名を借りて、占領中の諸制度を一挙に反動化しようとする現れの一環であって、教育と警察と知事を一手に掌握する事は、民主主義を崩壊させるものである。さらに、池田・ロバートソン会談(1953年10月共同声明、1954年3月MSA協定=日米相互防衛援助協定締結、内容は①日本は米国による軍事的・経済的援助を受ける ②日本は防衛力を強化する義務を負う)の目的である再軍備という深い関連性がある。

 さらに、会談の中で日本政府は教育及び広報によって日本に愛国心と自衛のための自発的精神が成長するような空気を助長する事に第一の責任を持つという了解がなされている。MSA再軍備を推進するために、日米双方において責任を持って愛国心を養成するとともに、自発的に再軍備に協力させようというものである。これを実施に移そうとすれば、政府に忠誠を尽くす教員でなければならないという事になるのである

  大達文部大臣は、平和教育は困ったものである。何とか今のうちに禁止しなければならないと言っているが、平和教育とは何の事か。何を指しているのか。日本国憲法は平和憲法と言われている。戦争を永久に放棄して恒久の平和を理想とする憲法だからである。この憲法に基づいて教育基本法第1条に教育の理想を掲げ、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期す」とある。日本の教育は平和教育だと名づけても一向おかしい事はない。なぜいけないのか説明をしてもらいたい。」などである。

 しかし、「平和教育」が「偏向教育」の見本として攻撃され、1953年2月22日には「教育二法案」(①「教育公務員特例法の一部改を正する法律」と②「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」)が衆議院に提出され、参議院の議決を経て、1954年5月29日衆議院で「教育二法案」は成立したのである。二法案の①は「教育公務員の職務と責任の特性を逆用して、公立学校の教育公務員の政治的行為を地方公務員法ではなく、国家公務員法により制限すると規定」したものである。

 安倍自公政権による、教員を沈黙させ、抵抗を削ぐ弾圧は、さらにパワーアップしたものとなりそうである。権力で暴力で憲法改正(自民党改憲草案)を達成し、それに基づいた政策の実現をしようとしているのである。

 「天皇の生前譲位」も「改憲草案」実現の地ならしである。感情に流され騙されてはいけない。彼らは国民は理性的に考える事ができないと考えているのだ。それは彼らの常套手段である。そのためには、これまでの天皇のダブル・スタンダード(二枚舌ともいう)の動向を正確に把握しておかなければならない。彼らは権力維持のためには非常に悪賢いのであり、高度な知恵者であるから。それを打ち倒すためには、国民はそれ以上の悪賢さと、彼らの真実をしる努力が必要である。そして彼らを上回る知恵を持つ事が必要なのである。「悪人世にはばかる」にしてはいけない。

(2016年8月8日投稿)

 

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ごまかしの「政治的中立逸脱」ではなく「憲法尊重擁護義務逸脱」への罰則を提言すべきだ!

2023-06-24 22:29:53 | 教育

 自民党(冨岡勉・党文部科学部会長)は7月8日、選挙権年齢を18歳以上に引き下げる事に伴う主権者教育のあり方について、高校教員に「政治的中立」を求め、逸脱した教員には罰則を科すよう法改正を促す提言を安倍首相に出した。提言には「学校における政治的中立性の徹底的な確立」を掲げて「教員個人の考えや特定のイデオロギーを子どもたちに押しつけるような事があってはならない」と明記。罰則については「教育公務員特例法」の改正を求めた。しかし、「政治的中立性」の明確な定義や、誰がそれを判断するのかは盛り込まれていない。また日教組が「教育を偏向させている」という考えのもとに、教職員組合に対し収支報告の義務づけも盛り込まれている。

 下村文科相は2010年、教員が違法な政治活動をした場合、「3年以下の懲役か100万円以下の罰金」を科せるようにする「教育公務員特例法」改正案を、みんなの党とともに国会提出したが12年に廃案。2014年4月には衆院文科委員会でも、「政治的中立性が教育現場で担保されている事を示す事も必要」と述べていた。政治的中立性の意味について「多数の者に強い影響力を持ちうる教育に、一党一派に偏した政治的主張が持ち込まれてはならない」「(自治体の)主張や教職員組合という主体を問わない」と述べていた。ただし、「違反しても刑事罰は受けない」とした。

 自民党内には日教組が「教育を偏向させている」(中立ではない)という意見が多いらしいが、彼らの言う「偏向教育」とはどういうものだろうか。安倍首相が日教組に関する事実でない「ヤジ」発言をした事をメディアが報道した事もあったが。自民党の言う「偏向」の意味とは、一言でいえば、「ある事が事実であっても、自民党が自身にとって不利益となると判断した事を、教員が授業などで生徒に話している場合」といえる。それを「政治的中立逸脱」という言葉で批判し処罰しようという事なのである。人権無視、憲法違反そのものであり理不尽も甚だしいことだ。だから、「政治的中立性」の定義をしないのである。というよりできないのである。さらに、逸脱した場合に「罰則」を科すべきだとしている事には、非常識も甚だしいといわねばならない。「偏向」という言葉で教師を「萎縮」させる事を狙い、それでも従わない教師に対しては「罰則」で脅すという考えだ。さらに言えば、「罰則」を科す教員が出た場合、彼らを「見懲らし」(勧善懲悪)として利用する考えだ。その目的は何かと言うと、教師を教育を子どもたちを、安倍自公政権にとって都合のよいように作り上げるという事だ。前近代的発想(例えば江戸時代の刑罰思想)そのものである。民主主義的ではない。人権を持つ個人として子どもたちを見る(子どもの権利条約)のではなく、安倍自公政権にとっては単なる人的資源(奴隷?)である。

 安倍自公政権ワールドは、国家(国民も国土も主権も)を自分たちのものだと考えており、彼らのいう「国益」という言葉は、、「彼らのワールドの利益」を意味し、「国民の利益」は考慮していない。考慮したとしても、それは「活かさぬように殺さぬように」考慮しているだけである。主権は国民にあるとの考え方ではなく安倍自公政権にあるのだ(国民は政府のためにあるのだ。「百姓とごまの油は絞れば絞るほどとれるものなり」)とし、国民は安倍自公政権に従っておればいいのだ(「由らしむべし知らしむべからず」)とする考え方に立っている。

これは、主権は天皇政府にあり、その政府が国民(臣民)を自己の利益のためだけに利用し存在する事を許した、敗戦までの「神聖天皇主権大日本帝国政府」の考え方そのものなのである。この点でも、安倍自公政権ワールドはこの「神聖天皇主権大日本帝国」への回帰を目指している事がわかるのである。(天皇も善人を装った「グル」なのだ)。

 主権者がどの政党に政治を託すかを判断する場合、現在の政党・政治家がどういう政治活動・政策を実施しているかを知る必要がある。そのためにはその政党・政治家がどういう事をしてきたのかを知る必要がある。そのためにはその政党・政治家に関わる過去の詳細な歴史を知る必要がある。そのためには学校教育でその事を保障しなければならない。その場合、特に地歴公民の教科書で現在社会とそれに至る過去がどのように説明されているかが大切であるが、現在の教科書の内容はそれに対して十分とはいえない。最低限の条件として「もっと詳しく」叙述される事が必要だ。細かく叙述される事によって理解が深まる。それによって誤解を少なくできるし、恣意的な解釈が生まれる余地も少なくなる。それこそが「政治的中立」とかの言葉遊びをするのではなく、教科書の目指すべき事であり、あるべき姿ではないか。そしてその教科書をベースにして、教師の教育活動は行われるべきである。その教育の目的は、その最大の目的は、すべての教科や活動が、その特性を生かして、この日本社会のあるべき姿を示す日本国憲法の理念や内容を、生徒が理解し、生活に生かし、幸せな生活を獲得できる能力、民主主義を支える能力を身に付けられるようにサポートする事だ。この考え方こそ「政治的」に「偏向」しているかどうかの判断規準とすべきものである。

 それを判断基準として、それを意図的に逸脱する教師の授業は「指導」に値するし、場合によれば教師不適切として「処分」の対象または「辞職」を求めてよいであろう。

 しかし、自民党の提言は冨岡勉・党文部科学部会長の記者団に対しての「罰則規定がないから、野放図な教員の政治活動につながるのではないか」という発言からは、ただ単に自分たちの求める教育をしていない教員に対しての不満にしか過ぎないのではないか。これこそ偏向発言でしかない。また、安倍首相からは異論はなかったとの事であるが、やはり「同じ穴のむじな」である事が証明されている。これこそ偏向であり、問題としなければならない。

 他の安倍自公政権ワールドの政策についても上記の判断基準で考えると、「国旗国歌の掲揚を強制」する文科相が偏向しているのか否か、同じく文科省が「大学の人文社会科学系学部の廃止」が偏向しているのか否か、同じく文科省が「道徳」を教科化する事が偏向しているのか否か、などについては、明確に結論を出すことができる。また安倍自公政権ワールドは、「日本国憲法」を判断基準としていない事が明確に理解できる。憲法制定以後、自民党は少しづつ着実に国民の反対に対して、むき出しの権力と欺瞞によって対抗しながら「日本国憲法」体制を空洞化し、敗戦前の大日本帝国憲法への回帰をすすめてきたが、今日の安倍自公政権ワールドは最後の仕上げをする役割を担っているのである。

 日本の教育は、どんなに表面的には自由であり、民主的であるように装っても、「国家」に奉仕する教育という根本的な性格からそれてはならないものとされてきた。これは明治以来の日本の教育がもつ性格であった。

 有島武郎1921(大正10)年3月『自由教育』「一人の人のために」によれば、

「自由教育なるものも……それを実行に移すに少なからず困難を伴うと私は考える」「現代において、社会生活の内容が……一人の人というものが無視されているに近いからだ」、その当時の社会生活においては「国家に有用なものでなければ学問でも学問ではないのだ。(社会の)柱石のお役に立つものでなければ技術でも技術ではないのだ。僻見なしに物を正視しようという人間や、自分の天分を思う存分伸ばしてみようというような人間は、いわばわが教育当事者にとっては継子である」「小学校は中学校のために、中学校は高等学校のため、高等学校は大学のため、大学の目的は先ず第一に国家有用の人物をつくるにあるということになっている」「つまり人間になるのは二の次にして、始めから石や柱になりたがるものになる稽古をするのが当時の教育だった」とある。

(2015年7月13日投稿)

 

 

 

 

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