神聖天皇主権大日本帝国政府は、1910年の韓国併合から、アジア太平洋戦争を経た1947年の日本国憲法と改訂皇室典範施行まで、旧皇室典範において「王族」と「公族」という身分を存置させていた。明治天皇が韓国併合に際して、大韓帝国皇室を懐柔するために詔書を発して創設した身分であった。高宗太皇帝、純宗皇帝、皇太子李垠など大韓帝国皇室の嫡流を「王族」とし、皇帝の弟に当たる義王李堈(りこう)や太皇帝の兄に当たる興王など傍系は「公族」とした。「王族」「公族」は法的に「皇族」と見做さなかったが、礼遇上はあくまでも「皇族」として扱った。敬称は「皇族」と同じ「殿下」とし、「王族」の李太王(高宗)や李王(純宗)の葬儀は「国葬」で執行した。
2023年5月21日、第49回G7広島サミット開催で、岸田首相と尹錫悦韓国大統領夫妻が広島平和公園内の「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」を訪れ、献花と黙祷を行った。「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」は1970年に、元々は現在地である公園内ではなく、本川を挟んだ平和公園の対岸に建立された。その理由は、そこは上記の「公族」李グが原子爆弾に被爆した場所ではあったが、広島市が平和公園内に新たなモニュメントの設置を認めなかったためであった。しかし、1980年代に「公園の外にあるのは民族差別の象徴である」という批判が起こり、在日本大韓民国民団広島県地方本部や広島市民、修学旅行生らからの要望もあり現在地へ移設されたのである。
慰霊碑裏面に刻まれた韓国語碑文の意味は「悠久な歴史を通じて、わが韓民族は他民族のものを貪ろうとしなかったし、他民族を侵略しようとはしませんでした。……しかし、5千年の長い民族の歴史を通じて、ここに祀った2万余位の霊が受けたような、悲しくも痛ましい事はかつてありませんでした。韓民族が国のない悲しみを骨の髄まで味わったものが、この太平洋戦争を通してであり、その中でも頂点をなしたのが原爆投下の悲劇でありました。……」という内容である。
さて、上記の「李グ公」について少し紹介しよう。「王族」「公族」の男子は、「皇族」男子と同様、満18歳で陸海軍の武官になる義務があった。「李グ公」は、1931年3月に大日本帝国政府陸軍士官学校予科を卒業した後、陸軍第一師団野砲兵第一連隊に配属された。陸軍砲兵少尉となった1933年11月には、栃木県近辺で実施された第一旅団の演習で斥候として活動中に落馬し、頭部、顔面、右腕、右下腿部負傷。1938年6月には、千葉県での中隊教練で落馬し骨折。1945年に陸軍中佐として広島赴任、8月6日に馬車で出勤途上、十日市町の市電交差点付近で原子爆弾の直撃を受けた。顔面、頭部、両手、両膝にやけどを負い、似島町の陸軍療養所(書類上は大須賀町1番地の第二総軍司令部)で翌日午前5時5分死亡した。「李グ公」の御付武官の吉成弘中佐は被爆を免れたが、自責の念から、陸軍療養所前の芝生に正座し拳銃自殺した。「李グ公」は「陸軍葬」となり、8月8日に空路で京城(現ソウル)へ移送され、15日に玉音放送の後、京城運動場で執行された。安倍信行第9代朝鮮総督、遠藤柳作政務総監、上月良夫朝鮮軍管区司令官、昭和天皇名代の坊城俊良式部次長らが参列した。
ついでながら、1945年8月12日に、昭和天皇が「ポツダム宣言」受諾の意思を、皇族を皇居に招き伝えた時にも、「王族」「公族」も同席した。
メディアはこのような事実をまったく報道していないが、積極的に日本の為政者や国民に報道し、両国の為政者や国民がこのような歴史を共通認識として持つために尽力すべきではないだろうか。国民同士の真の友好を築くためには。また、岸田首相は献花と黙祷だけで済ませて良いものであろうか。又、今回の行為は国内で、例えば群馬県高崎市の県立公園内に設置されている強制連行された朝鮮人労働者の追悼碑設置更新訴訟で、2022年6月15日に最高裁が「県が設置期間の更新を不許可」としたのを「憲法違反などなし」、と市民団体の上告を棄却した事などと矛盾した状態にあるのではないかと考えらるのであるが、首相自身は当然であるが、メディアもどう考えているのか明らかにすべきだろう。
(2023年6月25日投稿)