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「学徒出陣」までの、学徒の在学・修学年限の短縮措置

2023-10-22 21:18:20 | アジア・太平洋戦争

 「学徒出陣」とは、神聖天皇主権大日本帝国東条英機内閣が、1943(昭和18)年10月2日公布、即日施行した「在学徴集延期臨時特例」(勅令第755号)に基づく「徴集猶予措置停止」に伴い、理工系・教員養成系以外の学生・生徒を兵員として戦争に参加(陸軍ー入営、海軍ー入団)させた事をいう。

 同年10月21日には明治神宮外苑競技場において「出陣学徒壮行会」を実施。同年10月25日から11月5日まで、1943年度の「臨時徴兵検査」を、出陣学徒の本籍地において実施し、11月15日に陸軍海軍別の入営入団を本人に通知した。陸軍は12月1日に部隊に入営させ、海軍は12月9、10日に本籍地の所属する4つの海兵団(横須賀のち武山、呉のち大竹、佐世保のち相浦、舞鶴)に入団させた。

 ところで政府は、「学徒出陣」開始までの学徒には、すでに「在学・修行年限短縮」の措置を実施していた。1941(昭和16)年10月16日には、「大学学部等の在学年限又は修業年限の臨時短縮に関する件」(勅令924号)を交付し、大学学部の在学年限、大学予科、高等学校高等科、専門学校、実業専門学校の修業年限を1941年度以降「当分の内」それぞれ6カ月以内短縮する事とした。この措置は、「下級幹部の教育養成を行って軍の要員充員上遺憾なきを期し、人的資源の最高度の活用による軍需の充足並びに生産の増強のため」とし、趣旨は、「学生生徒の修学期間を短縮して成るべく速やかに卒業生を世に送り、各般の緊急なる要望に応じ夫々の部署に就かしむる事は、正しく現下の国家的要請に沿う所以である。国の危局に臨んで学生生徒が常時よりも速やかに学窓を出て実務に就き、或は召されて兵役に服し、以て天業を翼賛し奉る事は、一朝事あらば直ちに立つの覚悟を平素から堅持して居る学生生徒の本懐を充たすものである」(文部省計画室『大学学部等の在学年限又は修業年限の臨時短縮に関する件』)とした。以降「臨時短縮」の措置は文部省令により毎年度規定し、大学(修業年限3年)卒業は「繰り上げ卒業」措置とした。1941年度は3カ月卒業12月)、1942年度から1945年まではそれぞれ6カ月(卒業9月)短縮した。

(2023年10月22日投稿)

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国家神道体制下の「宗教団体法」制定の意味

2023-10-19 18:54:34 | 宗教

 宗教団体法は、1939年4月、平沼騏一郎内閣(1939年1月5日~8月28日)の下で、明治以来初の宗教法として公布された。この法律は「国家神道(天皇教)」体制下、ファシズム化した神聖天皇主権大日本帝国政府が、宗教を「統制」と「利用」をするためのものであった。

 荒木貞夫文相の帝国議会での提案目的を、「非常時局における国家による宗教の監督、統制、保護、育成」とし、文部大臣又は地方長官が、宗教団体(神道、仏教、キリスト教など3区分)設立の認可をした。第16条には「宗教団体又は教師の行う宗教の教義の宣布若しくは儀式の執行又は宗教上の行事が、安寧秩序を妨げ臣民たるの義務に背く時は、主務大臣は之を制限し若しくは禁止し、教師の業務を停止し、又は宗教団体の設立の認可を取消す事を得」と定めている。

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、この法律を根拠に、「国体(国家神道体制)」に反する教義を有すると見做した宗教団体を弾圧したが、ホーリネス系の聖教会、きよめ教会、安息日再臨教団などのキリスト教系宗教は、設立を取消される弾圧を受け、殉教者も生じた。

 ちなみに、宗教団体法の施行は1940年で、神聖天皇主権大日本帝国政府はこの年が「神武天皇即位2600年」にあたる(1872年12月15日、政府は『神武天皇御即位をもって紀元と定められ候』という太政官布告342号を出した)として、「紀元2600年奉祝会」と「日本放送協会」とが奉祝国民歌「紀元2600年」を制定し、11月に皇居前広場において「紀元2600年式典」を盛大に挙行した。式典のために建築使用した式殿「光華殿」は現在、小金井公園内に1993年に開設された「江戸東京たてもの園」のビジターセンターとなり、園の出入り口兼休憩所として利用されている。

(2023年10月19日投稿)

 

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第6次エネルギー基本計画「放射性廃棄物処分」のアメリカ業者委託は非常識

2023-10-16 12:00:11 | 原発

 原発の放射性廃棄物の処分については、国際条約(放射性廃棄物等安全条約、廃棄物等合同条約、バーゼル条約など)では放射性廃棄物の発生国での処分が原則である。しかし、相手国の同意があれば例外的に輸出できる事になっているが、日本政府は外国為替及び外国貿易法(外為法)通達で禁止している。

 しかし、経済産業省はその原則を変更し、低レベル廃棄物電力会社が責任をもって処分する事になっている)である「蒸気発生器」「給水加熱器」「核燃料の輸送・貯蔵用キャスク」の3種類の大型機器(原発の重要機器、低レベル廃棄物で埋設処分が必要)について、海外業者に委託できるように輸出規制を緩和する方針を新たなエネルギー基本計画の改定案に盛り込んだ。資源として再利用される事などを条件に例外的に輸出を認めるという。法改正しなくても通達の見直しで対応可能ともいう。

 米国やスウェーデンでは放射性廃棄物を国外から受け入れ、除染や溶解したうえで、金属素材などとして再利用するビジネスが確立しているという。

 米国では現在唯一ウランを精錬しているホワイトメサ精錬所(ユタ州)では、日本からの低線量放射性物質の輸入計画(ユタ州政府が7月に輸入許可)がある。対象物は日本原子力研究開発機構(JAEA)東濃鉱山地科学センター人形峠環境技術センターに保管中のウラン鉱石やウランを吸着させた樹脂・砂・活性炭など約136㌧。精錬すると99%放射性廃棄物となるという。つまり、日本政府は資源と称して取り扱いに困った放射性廃棄物そのものを輸出できるように通達を見直すという事である。

 ホワイトメサ精錬所を所有するエナジー・フューエルズ社資源の有効利用という名のリサイクルをうたっているが、実際はウラン混じりの放射性廃棄物を受け入れて処分するビジネスとなっているという。ところで、精錬所周辺は5つの先住民族の生活地(保留地)となっている。すでに先住民族はこれまで健康被害や環境破壊に対して人権侵害問題、先住民の権利擁護問題として精錬所の閉鎖を訴えてきているが、ここを日本政府JAEAは放射性廃棄物の捨て場所するという事なのである。

 このような「自国さえ良ければよい」という自公政権の発想を許してよいものであろうか。さらには、国内最終処分場決定の曖昧化や先送りを許したり、再生エネルギーへの転換や脱原発への明確なタイムスケジュールも作成せずに原発の稼働継続を認めたり、再稼働を認めていて良いのであろうか。いかなる原発も新設を許可する事など論外である。

(2021年9月25日投稿)

 

 

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日立造船のルーツ「大阪鉄工所」の起こり

2023-10-13 13:16:29 | 文学・歴史

 日立造船の起こりは、1881(明治14)年4月1日開業の様式造船所「大阪鉄工所」であった。その所長はイギリス人のエドワード・ハズレット・ハンター氏(当時41歳)であり、彼のワイフは日本人で平野愛子(当時31歳)であった。場所は大阪府西成郡春日出、六軒屋新田の松ヶ鼻。現在の此花区北安治川通3丁目。

 「鉄工所」には、6馬力の蒸気機関を原動力に、スチーム・ハンマー、旋盤などいずれも外国製の機械を設置。宣伝文句は、「造船、陸用諸機械はもちろん、架橋あるいは耕作用ポンプ、その他大小諸鋳物の製作並びに修理などすべて各位の乞いに応ず」とした。ここに「日立造船」の歴史が始まったのである。

 ハンター氏が大阪へ来たのは、1867(慶応3)年12月7日の兵庫開港、大阪開市の時。それまですでに、1865(慶応元)年に横浜へ来て、同郷の輸入商E・C・キルビー氏を手伝っており、関西へ来たのも神戸と大阪の川口居留地に店を構えた「キルビー商会」で働くためであった。

 ワイフ・愛子は、大阪市西区江之子島上之町にあった府立工業奨励館近くの薬種商・平野常助商店の長女であり、その出会いは、1868(明治元)年9月、愛子が18歳の時、腸を患っての高熱で、明日をも知れない重体で、医者も匙を投げていたところへ、27歳のハンター氏がたまたま「キルビー商会」の使いで輸入薬品を届けに来て愛子の命を助けたという。

 1873(明治6)年には、「キルビー商会」の同僚・秋月清十郎の重病も救い、これをきっかけに、秋月はハンター氏の片腕となり、西南戦争(1877)の海運業ブームの中で、「大阪鉄工所」を創設開業した。しかし、1881年に「松方デフレ政策」(緊縮政策)により経営難に陥った。その時、敷地提供者・門田三郎兵衛が「鉄工所」を譲り受けようとしたが、恐慌状態の中で経営に失敗。契約不履行から「鉄工所」は再びハンター氏の元へ戻った。ハンター氏が再開した「鉄工所」は、彼の「ジョンブル精神」(典型的英国人気質=不屈の精神)とワイフ愛子の協力により「日立造船」の土台を築いた。

 ハンター氏の子の代で、「ハンター」を日本語読みにした「範多」家を起こした。1907(明治40)年に神戸市生田区北野町に建てた「ハンター氏邸」は、1966(昭和41)年3月、重要文化財に指定され、現在神戸市灘区青山の「王子動物園」の隣に移築されている。

ハンター氏は、1917(大正6)年、76歳で死去。彼の死後、ワイフ愛子は社会福祉事業に生涯尽力したが、1939(昭和14)年、89歳で死去した。

(2023年10月13日投稿)

 

 

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大竹しのぶ旅記事「まあいいか」:吉田松陰「松下村塾」への偏向した評価、メディアも共犯

2023-10-13 10:25:14 | 日本人

 2020年10月23日の朝日新聞「大竹しのぶの『まあいいか』」が、萩、そして吉田松陰の私塾「松下村塾」を取り上げていた。大竹しのぶは「たくさんの弟子たちが松陰様の生き方を学び、そこから日本のリーダーが輩出した松下村塾。過去は変える事はできないが未来は変えられると言った彼の言葉を胸に刻む」と書いている。

 しかし、吉田松陰やその私塾「松下村塾」について、大竹しのぶによるこの程度の説明で済ませてよいものであろうか。これを読んだ人は間違いなく、吉田松陰を「偉い人」「立派な人」「その後の日本の発展、日本国民にとってかけがえのない人」というような印象を持った事だろう。朝日新聞もそれを「狙い」として載せた記事だと断じて良いだろう。なぜなら、歴史学会においては吉田松陰の評価はそのように決めつける事はできないものだからである。だから、大竹しのぶの評価は偏向したものとなっていると言って良いのであり、朝日新聞はそれを分かったうえで記事にしたと考えて良いと思う。

 吉田松陰を手放しで称賛してはならないのである。それは一面的な偏向した評価である。吉田松陰の思想として、今日の主権者国民が、特に知っておかなければならない事は、天皇支配に基づく「領土拡張思想」「侵略思想」である。

 松陰は「安政の大獄」事件(1858~59年)で、徳川幕府井伊大老にとっての危険人物として死刑に処されたが、その直前に、それまでに「松下村塾」で教授指導した弟子たちに向けて『幽囚録』という「遺書」を遺している。それを以下に紹介する。

「日昇らざれば則ち傾き、月満たざれば則ち欠け、国盛んならざれば、則ち衰ふ。故に善く保つものは徒にそのある所を失ふ事なきのみならず、又その無き所を増す事あり。今急に武備を修め、ほぼ備わりほぼ足らば、則ち宜しく蝦夷(北海道)を開墾して諸侯を封建し、隙に乗じて(ロシア帝国の)カムチャッカ、オホーツクを奪い、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯とひとしからめ、朝鮮国を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州中国清朝)の地を割き、南は台湾中国清朝)、ルソンスペイン領)の諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし」

という内容であり、彼の思想は、尊王攘夷の立場に立ち天皇支配に基づく「領土拡張思想」「他国侵略思想」であり、神聖天皇主権大日本帝国政府による台湾朝鮮国を手始めとしたアジア征服政策大きな影響とその正当性を与えたのである。そして、吉田松陰の私塾「松下村塾」で教えを受けた塾生たち(伊藤博文など)が松陰の意思を実行していったのがその後の日本のアジア太平洋戦争敗戦までの歴史であったのである。

 また、神聖天皇主権大日本帝国政府は学校教育においても、吉田松陰を高く称賛し、尋常小学校「修身科」の教材としても重視し、子どもたちの心に天皇崇拝軍国主義、国家主義、全体主義刷り込んだのである。「教材」内容は、「自信」という「徳目」で、

「……松陰は外国の事情がわかるにつれて、我が国を外国に劣らないようにするには、全国の人に尊王愛国の精神を強く吹き込まなければならないと、かたく信じて、一身をささげて此の事に尽くそうと決心しました。27歳の時、郷里の松本村に松下村塾を開いて弟子たちに内外の事情を説き、一生けんめいに尊王愛国の精神を養うことにつとめました。松陰は至誠を以て人を教えれば、どんな人でも動かされない者はないと、深く信じて、「松本村は片田舎ではあるが、此の塾からきっと御国の柱となるような人が出る」と言って、弟子たちを励ましました。松陰が松下村塾を開いていたのは、僅かに二年半であったが、はたしてその弟子の中からりっぱな人物が出て、御国の為に大功をたてました。

 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

というものであった。

そして、神聖天皇主権大日本帝国を理想とし回帰を狙う安倍自公政権が、この「松下村塾」を世界遺産に申請し、2015年に世界遺産として登録されたという現実が今あるのである。

(2020年10月26日投稿)

 

 

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