4月中旬から、このブログが過去最高に盛り上がっている。100人ぐらいの熱心な固定読者の方々にその状況をご報告するとともに、喜びを分かち合いたい。
まず4月13~19日の週の週間アクセス数が過去最高の1048人、次いで同週の閲覧数が久々の2000台で、2580面。そして4/27~5/3日の週が4823面の837人である。さらに、昨日4日だけでも、803面の165人!
5月に入ってからの盛り上がりは間違いなく、1日に載った二つの投稿がもたらしたものだろう。「このブログのフル利用法」と「投稿者の方々はカテゴリーに分類してください」である。前者から「すべての過去画面、コメントの見方」が多くの人々に伝わり、後者から、分野別過去画面が見られるような作業がなされて、この二つが相乗しあって閲覧者数、画面数を増やしてきたと考えられる。
努力はするものだ。もっとも、積み上げてきた一定の歴史、実績がなければ、コンテンツ・中身のないただのサイト、インターネット機械に過ぎない。継続的投稿者、コメンテイターの存在が大きいわけだ。そもそも、最近の投稿無し日はいつのことだったろうか。継続は力、歴史なのである。
30代以降の子どもがゲームでバラバラにされたように、60代以降の大人はそれ以前にテレビでバラバラにされて育ち、家庭団らんをすら乗っ取られてきたのではなかったか。このように、商業主義(文化)が、おのれに人を引きつけるのに比例して、人間を個別化、非社会化したと言われて久しい。会社、職場がなくなった男たちはどうしているのだろうか? おせっかいを承知で言うが、バラバラにされているという自覚すら乏しくなっているのではなかろうか。そんなふうに想うにつけて、元々は日記の一種といわれるブログというもののこんな使い方はとても貴重なことだと僕は考えて、参加してきた。
読んでいる方々、是非一言でもコメントしてください。
また、もっともっと私的なことを書く人がふえても良いと思う。日本人は公と私を分けすぎ、公の場で私を出すのを何か恥ずかしいこと、いけないことのように思ってきたのではなかったか。しかも文化的なコンテンツは、私を語らなければ全く面白くないものだから、日本人の公には文化が欠ける。会社にならされた男が女に比べて文化に弱いのは、そんなことも大いに関係していると僕は確信している。
公としての「政治」に右も左も文化が欠けてくるのも、上のことが関わっているのではないか。「個人主義」とか、「すぐ目立とうとして」「(公的に振る舞わないと)変わり者」とかの反応は、日本の男社会では恐ろしく頻繁になされてきたと思うのだ。
健康な個人の(クリエイティブで深い)楽しみがなくて、何の政治か、何の社会か、何の未来か? そういう物が見えなければ、家を建て、見栄えの良い車を買うという程度しか、働く意味も持てないはずである。家や車では、「子どもの未来」は作れないと思う。何度も言うが、今の子どものニート、パラサイトは大人たちがもたらしたものと、言えるのではないか。
乱文、失礼。
まず4月13~19日の週の週間アクセス数が過去最高の1048人、次いで同週の閲覧数が久々の2000台で、2580面。そして4/27~5/3日の週が4823面の837人である。さらに、昨日4日だけでも、803面の165人!
5月に入ってからの盛り上がりは間違いなく、1日に載った二つの投稿がもたらしたものだろう。「このブログのフル利用法」と「投稿者の方々はカテゴリーに分類してください」である。前者から「すべての過去画面、コメントの見方」が多くの人々に伝わり、後者から、分野別過去画面が見られるような作業がなされて、この二つが相乗しあって閲覧者数、画面数を増やしてきたと考えられる。
努力はするものだ。もっとも、積み上げてきた一定の歴史、実績がなければ、コンテンツ・中身のないただのサイト、インターネット機械に過ぎない。継続的投稿者、コメンテイターの存在が大きいわけだ。そもそも、最近の投稿無し日はいつのことだったろうか。継続は力、歴史なのである。
30代以降の子どもがゲームでバラバラにされたように、60代以降の大人はそれ以前にテレビでバラバラにされて育ち、家庭団らんをすら乗っ取られてきたのではなかったか。このように、商業主義(文化)が、おのれに人を引きつけるのに比例して、人間を個別化、非社会化したと言われて久しい。会社、職場がなくなった男たちはどうしているのだろうか? おせっかいを承知で言うが、バラバラにされているという自覚すら乏しくなっているのではなかろうか。そんなふうに想うにつけて、元々は日記の一種といわれるブログというもののこんな使い方はとても貴重なことだと僕は考えて、参加してきた。
読んでいる方々、是非一言でもコメントしてください。
また、もっともっと私的なことを書く人がふえても良いと思う。日本人は公と私を分けすぎ、公の場で私を出すのを何か恥ずかしいこと、いけないことのように思ってきたのではなかったか。しかも文化的なコンテンツは、私を語らなければ全く面白くないものだから、日本人の公には文化が欠ける。会社にならされた男が女に比べて文化に弱いのは、そんなことも大いに関係していると僕は確信している。
公としての「政治」に右も左も文化が欠けてくるのも、上のことが関わっているのではないか。「個人主義」とか、「すぐ目立とうとして」「(公的に振る舞わないと)変わり者」とかの反応は、日本の男社会では恐ろしく頻繁になされてきたと思うのだ。
健康な個人の(クリエイティブで深い)楽しみがなくて、何の政治か、何の社会か、何の未来か? そういう物が見えなければ、家を建て、見栄えの良い車を買うという程度しか、働く意味も持てないはずである。家や車では、「子どもの未来」は作れないと思う。何度も言うが、今の子どものニート、パラサイトは大人たちがもたらしたものと、言えるのではないか。
乱文、失礼。