生 還
十一月二十一日の夜、ここにも書いてきた孫のはーちゃんが大やけどを負った。高い所にあった加湿器のお湯をかぶってしまった。その電気コードを引っかけて倒したのである。すぐに全身に放水を続けた「寒い、寒い!」から、大学病院救命救急センターへの搬入、即入院という修羅場になったようだ。この通報から三週間両じじばば同伴の闘病生活が始まった。まず、火傷について学んだ知識などを描いてみる。
一 火傷は軽度、中度、重度とあり、体表に占める%と、浅い方からⅠ~Ⅲ度の傷の深さとで決まる。中度火傷が例えば、「十五~三十%のⅡ度」、「十%以下のⅢ度」というように。ただ、乳幼児は十%でもショックを起こす場合もあって重傷度が増し、深度も判りにくい。
二 直後の「流水で五分以上冷やす。服、靴下など衣類はそのままで」が、きわめて重要。
三 以降に怖いのは、血液に細菌が入る菌血症、低下した体力がそれに負け始める敗血症が起こりやすこと。細菌を防御する皮膚がないから、体中に注射をしたその日に汚い風呂に入るようものなのだ。これへの手当てが遅れると、治りかけた傷口もすべて内側からぶり返し、ケロイドが酷く残ったり、抗生物質が効かない細菌が入って衰えている体力の命を落とす場合もある。
四 対策、治療は、何よりも傷口の殺菌、二週間とか速やかに皮膚再生に努めること。感染予防のためには、個室隔離、看病者の限定と手洗い、うがいなどの徹底。本人の体力増強にも努め、水分、栄養、睡眠が特に大切になる。
まさに絶望の宣告、心境を体験した。
「血液に何かの菌が検出されて、敗血症が起こっています。三十九度の高熱がその証拠」
さらに週末を挟んだ数日後には、
「検出されたのは、黄色葡萄状球菌です」
抗生物質が効かない黄色葡萄状球菌なら大変だがなどと、この頃がどん底の底だったと思う。耐抗生物質性でないと確認できた時までは、僕自身食事ものどを通っていなかった。あんな数日の気分は人生でも初めてのことだ。若夫婦二人のためにも僕がはーちゃんと入れ替わってやりたい、よく語られるそんな表現が我が身にどれだけリアルだったことか。
三つ目の抗生物質が効き始めた。熱が下がり始め、顔など傷の赤みも日々見違えるようにとれていく。健康になった子どもの皮膚再生力は、魔法を見ているようなもの。敗血症の目安・血液炎症反応数値も瞬く間に下がって、負傷後二週間が過ぎた頃には一般の平常値よりも低くなった。後遺症関係も二週ほどで判明してきた。
「面積は十%を超えているが、酷い部分でも深度Ⅱの深浅両様で深い方が一%もなく、顔はもちろんほかの部分にも酷く掻かない限り傷跡はほぼ残らないでしょう」
この全員本当にほっとした時を、今もよく思い出す。若い夫婦二人の気持ちを考えたら、事実泣けてきた。
こうして、負傷日から数えてちょうど三週間の十二月十二日、退院となった。それから今日も含めて二日間、じじばばとイーオンへ行って遊び回り、リハビリと体力増強に努めてきた。二歳児がきれいな広いフロアーを走り、転げ回る姿は、まさに弾けていた。火傷を洗う悲鳴や退院直前まで続けた点滴針取り替えなどが思い出されて、「雪国の春」。
小原庄助の僕が朝五時起きで娘と付き添いを代わった2週間など、両じじばばもいかに君の命を大切にしてきたか。はーちゃん、君もどうか自分を大事にしていってほしい。
十一月二十一日の夜、ここにも書いてきた孫のはーちゃんが大やけどを負った。高い所にあった加湿器のお湯をかぶってしまった。その電気コードを引っかけて倒したのである。すぐに全身に放水を続けた「寒い、寒い!」から、大学病院救命救急センターへの搬入、即入院という修羅場になったようだ。この通報から三週間両じじばば同伴の闘病生活が始まった。まず、火傷について学んだ知識などを描いてみる。
一 火傷は軽度、中度、重度とあり、体表に占める%と、浅い方からⅠ~Ⅲ度の傷の深さとで決まる。中度火傷が例えば、「十五~三十%のⅡ度」、「十%以下のⅢ度」というように。ただ、乳幼児は十%でもショックを起こす場合もあって重傷度が増し、深度も判りにくい。
二 直後の「流水で五分以上冷やす。服、靴下など衣類はそのままで」が、きわめて重要。
三 以降に怖いのは、血液に細菌が入る菌血症、低下した体力がそれに負け始める敗血症が起こりやすこと。細菌を防御する皮膚がないから、体中に注射をしたその日に汚い風呂に入るようものなのだ。これへの手当てが遅れると、治りかけた傷口もすべて内側からぶり返し、ケロイドが酷く残ったり、抗生物質が効かない細菌が入って衰えている体力の命を落とす場合もある。
四 対策、治療は、何よりも傷口の殺菌、二週間とか速やかに皮膚再生に努めること。感染予防のためには、個室隔離、看病者の限定と手洗い、うがいなどの徹底。本人の体力増強にも努め、水分、栄養、睡眠が特に大切になる。
まさに絶望の宣告、心境を体験した。
「血液に何かの菌が検出されて、敗血症が起こっています。三十九度の高熱がその証拠」
さらに週末を挟んだ数日後には、
「検出されたのは、黄色葡萄状球菌です」
抗生物質が効かない黄色葡萄状球菌なら大変だがなどと、この頃がどん底の底だったと思う。耐抗生物質性でないと確認できた時までは、僕自身食事ものどを通っていなかった。あんな数日の気分は人生でも初めてのことだ。若夫婦二人のためにも僕がはーちゃんと入れ替わってやりたい、よく語られるそんな表現が我が身にどれだけリアルだったことか。
三つ目の抗生物質が効き始めた。熱が下がり始め、顔など傷の赤みも日々見違えるようにとれていく。健康になった子どもの皮膚再生力は、魔法を見ているようなもの。敗血症の目安・血液炎症反応数値も瞬く間に下がって、負傷後二週間が過ぎた頃には一般の平常値よりも低くなった。後遺症関係も二週ほどで判明してきた。
「面積は十%を超えているが、酷い部分でも深度Ⅱの深浅両様で深い方が一%もなく、顔はもちろんほかの部分にも酷く掻かない限り傷跡はほぼ残らないでしょう」
この全員本当にほっとした時を、今もよく思い出す。若い夫婦二人の気持ちを考えたら、事実泣けてきた。
こうして、負傷日から数えてちょうど三週間の十二月十二日、退院となった。それから今日も含めて二日間、じじばばとイーオンへ行って遊び回り、リハビリと体力増強に努めてきた。二歳児がきれいな広いフロアーを走り、転げ回る姿は、まさに弾けていた。火傷を洗う悲鳴や退院直前まで続けた点滴針取り替えなどが思い出されて、「雪国の春」。
小原庄助の僕が朝五時起きで娘と付き添いを代わった2週間など、両じじばばもいかに君の命を大切にしてきたか。はーちゃん、君もどうか自分を大事にしていってほしい。