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太平洋戦争と天皇(2)  文科系

2012年12月10日 15時09分18秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 昨日書いた太平洋戦争決定経過は、天皇こそこれを決定したと示している。統帥権者が陸海軍両方の最高責任者に対して「外交よりも戦争準備を優先するべし」と命令を下したのであるから。この命令は、陸軍大臣、海軍大臣はもちろん、首相も内閣全体も一切口を挟めないものであった。これが統帥権の独立というものである。大元帥である天皇の軍への統帥権は絶対ということなのである。なおこの決定は、1941年9月5日のことであって、翌6日の御前会議の原案が決定された瞬間である。この9月6日の御前会議で決定された「帝国国策遂行要領」はこうなっている。「帝国は自存自衛を全うする為、対米(英欄)戦争を辞せざる決意の下に、概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整す」ること(第1項)、「右に並行して米、英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努」めること(第2項)。
 この御前会議以降、太平洋戦争に向かって日本はさながらまい進してゆくことになる。外交交渉を優先していた近衛内閣の解散(10月18日)と主戦派・東条内閣の誕生。そして、以降真珠湾開戦の12月8日までの経過は全て、「秘密裏のしゃにむに開戦」に向かう辻褄合わせにしか過ぎない。たとえばハルノート。「このあまりの無理難題!堪忍袋の緒が切れた」というがごときは、その最たるものである。そもそも、国務長官に過ぎないものの文書を最後通告のように扱うという話自身がおかしなことなのである。アメリカはまだ交渉をしようとしていた。が日本帝国は、密かな不意打ち開戦を準備していて、交渉はこの不意打ちのカムフラージュに過ぎなかった。そのことを示す経過を末尾に、過去ログから抜き出しておく。
 ただ次のことは断っておきたい。ここで述べているのは、どっちが悪いという単純な結論などではない。こういう断面の「歴史の事実経過」をそのまま語っただけのことだ。戦争に対する断罪は、もっともっと長いスパンの、総合的な話になるだろう。

『 米国務長官ハルの覚書が駐米日本大使に手交されたのが41年11月26日、外務省がこれを翻訳して関係方面に配布したのが28日でした。対して当時の日本政府はその行動を、このように説明してきました。ハルの、この4要求を「最後通牒」で「高圧的」と断定。それゆえ「自存自衛の為」(12月8日、宣戦の詔勅)の開戦を、12月1日の御前会議で決定、と。誰が考えても、国の運命を決めるような大戦争の決断経過としては動きが急すぎて、不自然です。』

 一国の開戦を決定できる者こそ主権者と言わずして誰をそう名づけられるか。しかもその権限が、例えば議院内閣制の首相のように国民から与えられたようなものではけっしてなかったのである。そんな「形」は、大日本帝国憲法のどこにも存在していない。絶対君主が持つ「統帥権の独立」。これこそが最高の「法」だったのであるが、現在から見れば「無法」の形としか言えぬものだろう。敢えて言うならば「王権神授説」がこれに近いだろうか。帝国憲法初めの「万世一系の天皇これを統治す」が、そういう法思想を示しているのだろう。
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