「グレートジャーニー」という本をご存知だろうか。関野吉晴という医者でもある探検家が、世紀の移り目の足かけ10年ほどをかけて自転車とカヌーだけでほぼ世界を一周したその記録である。大西洋は除いて、太平洋はその上のベーリング海峡を渡るなどなどの旅が、写真をふんだんに使って報告されている。「グレートジャーニー」とは、人類がアフリカに誕生して南米パタゴニアの果てまで渡っていったその人類の拡散・進化?の足跡がグレートジャーニーと呼ばれてきたのだが、それを逆コースに辿ってみようとの発想から生まれたものだと述べられている。この元祖グレートジャーニーには、ユーラシア大陸の南回りと北回りがあったはずであって、その北回りコースを関野氏は(逆に)辿ったようだ。さて、そこには、現代アメリカ金融アナリストらが恥ずかしくなるような人類が無数に存在していることが伝えられてある。大好きな本であって、僕としては3度目の読了を昨日終えたのだが、この一部を抜粋してみよう。
なおこの拙稿は、最近のコメントで「イスラム教徒や中世カトリックは、利子を禁止していた」とか、「強欲は恥ずかしいことだという人々はまだまだ多い」とかの論議がなされていたから、その延長という一興である。
以下の前者はイスラム教徒、後者はキリスト教徒だ。
『(スーダン北部ヌビア砂漠で)基本的にテントを張って野宿をしたが、村がある時はそこに投宿した。村では人々が外から見えるところで食事をしている。旅人や食事がなくて困っている人に施しをするためだ。村に滞在する時は私はいつも村人にご馳走になった。・・・・・イスラム教徒にとっては、天国に行くためにはしなければならない五つの善行がある。そのうちの一つが「困っている人への施し」なのだ』
『エチオピア南西部、スーダンとの国境地帯には様々な少数民族がひしめいている。・・・・・彼らの村で医療行為をした。患者は頻繁にやってきた。一日の半分以上を診療に費やした。発熱した者、便に虫をもっていたり、血が混じっている者が多かった。子供の患者が多いのが特徴だった。
そして、ここの患者たちは、診療しても特に私に感謝するふうでもない。治癒したり、軽快したりしても報告にも来ない。初めは抵抗を感じたが、彼らの「価値観」を知って次第に納得するようになった。彼らには「ありがとう」という言葉も無いのだ。
彼らの特徴はモノを貯め込まないことだ。彼らにとって最も重要なことは「集うこと」と「モノをあげたり、もらったりすること」だ。私たちがモノを貯め込んで将来に備えるにの対して、頻繁に人間が行き来し、モノを滞らせない。』
先進国が往時に、こういう人々と土地とを植民地にするのはさぞかし容易だったことだろうが、征服者と被征服者とどちらが人として品格があったと言えるのだろうかと考えてしまった。今のアメリカの金持ちは、部外者が入れない金持ち村に隔離されて住んでいる。いや、そうせざるを得ないのだ。上との対比で言えばつまり、莫大なモノを貯め込んで、仲間内だけしか行き来をしない。これらのアフリカの人々などとは正反対で、奪わなければ暮らせない人々を無数に生み出してきたからなのだ。例えば金融関係者などは確実に、彼ら自身がこういう人々を直接間接に生み出したといえるはずだ。
このグレートジャーニーに関わって、余興をお一つ。これは僕のある同人誌小説の末尾の方に付けた拙文であるが、失礼して。
『ボスについて走り続けるのは犬科動物の本能的快感らしいが、二本脚で走り続けるという行為は哺乳類では人間だけの、その本能に根差したものではないか。この二本脚の奇形動物の中でも、世界の隅々にまで渡り、棲息して、生存のサバイバルを果たして来られたのは、特に二本脚好きの種、部族であったろう。そんな原始の先祖たちに、我々現代人はどれだけ背き果ててきたことか?! 神は己に似せて人を作ったと言う。だとしたら神こそ走る「人」なのだ。・・・徒に緩み、弛んだ尻・腿は、禁断の木の実を食べた人というものの、原罪を象徴した姿である』
「人類拡散の時代」の特徴を色濃く残していると思われる上記アフリカの方々! 人類にこういう共同性がなかったら大型動物の狩りなどは不可能であって、その存続、拡散などはとうてい果たせなかったことだろう。こうした人類拡散の歴史的事実と比較する時、現生人類はその「支配的な」人々をそのままにしては、彼らによって滅ぼされるとしか思えなくなってくる。
なおこの拙稿は、最近のコメントで「イスラム教徒や中世カトリックは、利子を禁止していた」とか、「強欲は恥ずかしいことだという人々はまだまだ多い」とかの論議がなされていたから、その延長という一興である。
以下の前者はイスラム教徒、後者はキリスト教徒だ。
『(スーダン北部ヌビア砂漠で)基本的にテントを張って野宿をしたが、村がある時はそこに投宿した。村では人々が外から見えるところで食事をしている。旅人や食事がなくて困っている人に施しをするためだ。村に滞在する時は私はいつも村人にご馳走になった。・・・・・イスラム教徒にとっては、天国に行くためにはしなければならない五つの善行がある。そのうちの一つが「困っている人への施し」なのだ』
『エチオピア南西部、スーダンとの国境地帯には様々な少数民族がひしめいている。・・・・・彼らの村で医療行為をした。患者は頻繁にやってきた。一日の半分以上を診療に費やした。発熱した者、便に虫をもっていたり、血が混じっている者が多かった。子供の患者が多いのが特徴だった。
そして、ここの患者たちは、診療しても特に私に感謝するふうでもない。治癒したり、軽快したりしても報告にも来ない。初めは抵抗を感じたが、彼らの「価値観」を知って次第に納得するようになった。彼らには「ありがとう」という言葉も無いのだ。
彼らの特徴はモノを貯め込まないことだ。彼らにとって最も重要なことは「集うこと」と「モノをあげたり、もらったりすること」だ。私たちがモノを貯め込んで将来に備えるにの対して、頻繁に人間が行き来し、モノを滞らせない。』
先進国が往時に、こういう人々と土地とを植民地にするのはさぞかし容易だったことだろうが、征服者と被征服者とどちらが人として品格があったと言えるのだろうかと考えてしまった。今のアメリカの金持ちは、部外者が入れない金持ち村に隔離されて住んでいる。いや、そうせざるを得ないのだ。上との対比で言えばつまり、莫大なモノを貯め込んで、仲間内だけしか行き来をしない。これらのアフリカの人々などとは正反対で、奪わなければ暮らせない人々を無数に生み出してきたからなのだ。例えば金融関係者などは確実に、彼ら自身がこういう人々を直接間接に生み出したといえるはずだ。
このグレートジャーニーに関わって、余興をお一つ。これは僕のある同人誌小説の末尾の方に付けた拙文であるが、失礼して。
『ボスについて走り続けるのは犬科動物の本能的快感らしいが、二本脚で走り続けるという行為は哺乳類では人間だけの、その本能に根差したものではないか。この二本脚の奇形動物の中でも、世界の隅々にまで渡り、棲息して、生存のサバイバルを果たして来られたのは、特に二本脚好きの種、部族であったろう。そんな原始の先祖たちに、我々現代人はどれだけ背き果ててきたことか?! 神は己に似せて人を作ったと言う。だとしたら神こそ走る「人」なのだ。・・・徒に緩み、弛んだ尻・腿は、禁断の木の実を食べた人というものの、原罪を象徴した姿である』
「人類拡散の時代」の特徴を色濃く残していると思われる上記アフリカの方々! 人類にこういう共同性がなかったら大型動物の狩りなどは不可能であって、その存続、拡散などはとうてい果たせなかったことだろう。こうした人類拡散の歴史的事実と比較する時、現生人類はその「支配的な」人々をそのままにしては、彼らによって滅ぼされるとしか思えなくなってくる。