遅ればせながら、「表現の不自由展」についての河村名古屋市長の発言には、大変な違和感があった。1人の人間としてならいざ知らず、地方行政長の発言としてはあまりにも個人感情的なだけのもので、その見識が疑わしいと言いたかった。彼が「日本人を踏みにじった」と述べたのは、昭和天皇を焼いている映像作品についてだったからだ。
昭和天皇も日本国民の象徴だったが、同時にその人物自身が戦前の大日本帝国統治者でもあって、その大元帥の命令であの太平洋戦争が起こされたのである。それに対する怒りの表現は当然ありうるものだろう。何もおかしくない。
また、象徴天皇という彼の後半生についても税金を使っている国家の一機関であるという意味では、それについてどういう表現、発言をしようとも、主権者である国民の政治言論、表現の自由に属することだ。
こういう「筋」があるにもかかわらず、河村氏があーいう発言をしたというのは、地方行政長という立場を忘れて、個人の感情を語っているに過ぎないことになる。つまり、昭和天皇という一身に、大日本帝国統治者と日本国象徴という2側面が存在したことに目を向けず、その宗教性のみを取り出して個人的感情を述べていることになる。そして、行政に携わる者らがこんな発言を続けていれば、日本政治の主権者が天皇について自由に物を言えなくなっていくはずだ。今でも既に、そうなってきているのに。憲法上の天皇について自由に物が言えなくなっていくのは、戦前日本をちょっとでも考えてみれば、大変恐ろしいことである。日本政治世界には今でも天皇を神格化する政治思潮が大きく存在するからだ。象徴には、何の神聖も、統治者性もない。
最後に、こう付け加えておきたい。政治には意見対立があって当たり前、それが普通のことである。そんな世界で、いちいち反対者の意見に「傷つけられた」と言ってみても個人の感情を述べているだけ、何の正当な抗議にもならないどころか、主権者の自由な政治論議を妨げるものである。行政の長、権力者などは特に、そんな発言は慎むべきだ。彼の意見に反対する主権者にも自由な政治的発言をさせる責任がある立場だということを忘れてはいけないという理屈である。
昭和天皇も日本国民の象徴だったが、同時にその人物自身が戦前の大日本帝国統治者でもあって、その大元帥の命令であの太平洋戦争が起こされたのである。それに対する怒りの表現は当然ありうるものだろう。何もおかしくない。
また、象徴天皇という彼の後半生についても税金を使っている国家の一機関であるという意味では、それについてどういう表現、発言をしようとも、主権者である国民の政治言論、表現の自由に属することだ。
こういう「筋」があるにもかかわらず、河村氏があーいう発言をしたというのは、地方行政長という立場を忘れて、個人の感情を語っているに過ぎないことになる。つまり、昭和天皇という一身に、大日本帝国統治者と日本国象徴という2側面が存在したことに目を向けず、その宗教性のみを取り出して個人的感情を述べていることになる。そして、行政に携わる者らがこんな発言を続けていれば、日本政治の主権者が天皇について自由に物を言えなくなっていくはずだ。今でも既に、そうなってきているのに。憲法上の天皇について自由に物が言えなくなっていくのは、戦前日本をちょっとでも考えてみれば、大変恐ろしいことである。日本政治世界には今でも天皇を神格化する政治思潮が大きく存在するからだ。象徴には、何の神聖も、統治者性もない。
最後に、こう付け加えておきたい。政治には意見対立があって当たり前、それが普通のことである。そんな世界で、いちいち反対者の意見に「傷つけられた」と言ってみても個人の感情を述べているだけ、何の正当な抗議にもならないどころか、主権者の自由な政治論議を妨げるものである。行政の長、権力者などは特に、そんな発言は慎むべきだ。彼の意見に反対する主権者にも自由な政治的発言をさせる責任がある立場だということを忘れてはいけないという理屈である。