掌編小説 パナマ文書 文科系
四月中旬、ある日曜日の夕暮れ。ランニングの装備を整えて戸口を出ると、お向かいの若主人さんにばったりと出くわした。最近エレベーター付きの三階建て三世代住宅に建て換えたばかり、一階のシャッター付き車庫には白い最新型ポルシェが納まっているという非常に裕福なお方だ。まだ五十歳前とお見受けできるが、これら全てが彼の収入によるものなのである。新興のコンピューター・ソフト会社の経営者のような方と聞いていた。そんな彼を冷やかすような冗談が、今日も僕の口をついて出てしまった。十年やってきたブログのためにお勉強したての知識なのだが、こんな軽口をよく叩きあう仲なのである。
「おはようございます。『パナマ文書』対策で大変って顔してません?」
「えっ、どうして! ………パナマ文書にお詳しいんですか?」
いかにもという彼の真顔をともなった予期せぬ反応に僕も口調が換わって、
「……長年やってるブログのためによく勉強してみたんですが……やっぱりご関係が?」
「実は大ありなんですよ。我が社も大もめです」
「パナマ文書」とは、この四月になってから世界中を大騒ぎさせているもの。中米パナマのある法律事務所から、世界の大金持ち個人やペーパー会社などのこの四十年近くの金融取引・脱税関連情報とも言える膨大な文書類が世界に公表され始めた事件である。これらは匿名の提供者からドイツのある新聞社に提供されて、この新聞社とワシントンにある「国際調査報道ジャーナリスト連合」とが分析中で、四月初めの世界初公開部分は、記者四百人近くが参加してまとめたもの。日本大企業四百社なども含めて「関係者」とおぼしき人々がしきりに「合法でしょう?」と煙幕を張り始めているという大事件なのである。
さて、軽い冗談が急に真剣み、興味津々に入れ替わって来て、僕は答える。
「大もめって、そんな心配はまったく要らないと思います。だって、政府が二十年ほど前だったかに合法としたものを今さら非合法にはできませんから。ましてや法的に脱税でもない税金を取り直すって、出来る訳もないことだ」
「でも、会社の名前が出てくるとかの心配があるでしょう」
「それも心配無用。官房長官が、政府としては調査などしないと言ってたから。思うにあれってもともとは、アメリカのリークだと僕は観てます。ケイマンとかじゃなくってパナマってのが怪しいし、米大富豪上位五百人のわずか二九人だけが関係してるとも発表された。アメリカが中ロとかの敵を傷つけるためにやった政治的なリークじゃないですかね」
「パナマと同じことをやっているケイマンに波及するってことはないですか?」
「ケイマンの日本企業関連の投資残高すべてが税金逃れとしたらその脱税金額は十四兆円ほどになるらしいですが、パナマでさえも調査する気がないと語った政府です。ケイマンに触れる気などゼロ以下というもの、こちらはさらに心配ないと思いますね」
「どうしてそんなにお詳しいんですか? お宅も何か関係がおありで?」
一瞬こんなこと全てが頭をかすめる。
〈そう、ブログの勉強目的として大いに。ケイマンの脱税十四兆円とは、消費税を一%とした場合の年額が二兆円だから、消費税を七%とした場合の年額に当たる。消費税上げるなという立場から、かなり詳しく勉強してみたことなんです〉。
が、僕は、さりげなくこう応えた。
「いやー、利害関係には無関係ですが、ちょっと世界経済のお勉強が好きなんですよ」
「世界経済のお勉強って、それでアメリカのリークだなんて……どうしてまた?」
「プーチンとか中国首脳とか、シリアのアサドとか、パナマ文書ではアメリカの敵ばかりに焦点が当たって来た。そのくせ、こういう仕組みの元祖であるアメリカのことはほとんど出て来てないし、アメリカ関係の大富豪が二十九人なんて、可笑しいと思いません?」
「イギリスのキャメロンも名前があがってませんでした?」
「あれはイギリスをユーロから引き離す、ユーロ瓦解工作と見てます」
ここで僕は論理的に次に来るべき質疑応答を予期して、瞬間的に頭を巡らしていた。
〈「じゃあお宅は、こういう仕組みそのものには賛成なんですか?」。「いやいや、賛否よりも、こう考えるだけです。さっきも言ったように政府がこれを合法にしたのだ。合法ならみんなやれる単なる節税対策です。でも、消費税の十四兆円分と言えば、今度上げる予定の倍を優に超える税額分であって、庶民から見たら一大事ですよね。合法にした今の政府が大変な悪者になります。各国がやってるから自分だけやらぬとは難しいと答えたとしても、国連で相談し合って止めようという道だってあったはずだし、この一部が政治献金になったとも言える最近の日本なら、政党交付金と二重取りの悪とも言える〉
と、僕は身構えていたが、今朝のお相手からは次の質問はなく、ちょっと間を置いて軽い会釈。同じく笑顔を向けた僕も、麗らかな春の中へと走り出して行ったのだった。
(2017年3月発行の同人誌に初出作品です)