1月24日エントリー「安倍首相、無数の嘘を考える」を、こういう文章で結んだ。
『 森友、加計、桜と繋がって疑惑を全否定する安倍「嘘の履歴」のそれぞれにまた、多くの嘘が連なっている。森友では、そもそもの始まりの国有地大安売りをごまかす嘘や、その「忖度」を打ち消した嘘。加計にも「獣医学部が不足している」という嘘と、「加計しかない」という嘘。桜では、「国家功労者の称賛会」という政府自身が作った看板の下で「個人選挙の功労者会」を開き続けるという大嘘。こういう人物が日本国家歴代最長政権って、トランプの「フェイクと暴力政権」と並んで、それぞれの国民、政党はよほど胸に手を当てて考えてみないといけない。
安倍にはおそらく、嘘の意味が分かっていないのだ。嘘の常習犯の言葉は信じてもらえない。政治家の武器は言葉である。その言葉が信じてもらえないとは、どんな政策も信じてもらえないということだ。また、嘘は自己(利益)追求、自己損害隠蔽のためにつくものだから、大国における国家的大嘘の常習犯首相とは、ヒトラーと同類の「最も大規模な利己的人間」であり、周囲を巻き込んできたことも含めてその害悪は甚大である』
さて、今また、管新首相の長男が主導した「汚職」事件で、総務省の次期次官最有力候補らが処分されている。これとても、とことんまでバレなければ嘘がつき続けられ、隠蔽されていたはずのことだったろう。事実、一放送局の案件で次官候補までが出席して10数回も総務省幹部総出が続けられていたのである。
さて、これだけ政治腐敗とそれにまつわる嘘とが続くということを、もう一度よくよく考え直してみたい。なによりもまともな政治をやる気など全くないということだろう。政治家がそうだからこそ、官僚もその色に染まって忖度に励む仕事、すっかり人気のない職業になってきた。ということで、こういう総体こそが安倍長期政権の最大の産物だったのである。そしてこんな政治とは、結局たった一言「権力願望」なのだろう。政権を維持するためだけの政治といえば良い。その象徴がこれ、桜じゃなかったか。
「桜を見る会」は、国家功労者を招待して、その功績を祝う会として企画されたと聞いた。ところがそこに呼ばれたのは、与党議員の個人選挙功労者達だったのである。それも首相枠招待者がどんどん増えて、「ちょっと歩けば山口県人」という様相があったと報道された。こうして、「桜」は国家功労者が与党功労者に化けていった歴史を持っているわけだ。権力欲だけの政治という、その象徴になってしまった。それがばれたからこそすぐに、この「桜」、取りやめになった。
国民は今年の選挙に向けてよほど考えないといけない。森喜朗、小泉、安倍の清和会国会議員などは特に大臣病の権力志向なのであって、これに投票してはいけない。よって新聞は、与党候補の所属派閥を必ず明記すべきである。細かいことだがこんなことが大事だと思うから、よく覚えておきたいもの。ちなみに、森喜朗の「あの言葉」は、彼の哲学そのものから出たもの。「日本は神の国」「天皇は男系で」「行きすぎたジェンダー教育(の弊害)」これらは皆、「日本会議」の文書「日本会議がめざすもの」にある言葉だ。清和会には元々、文教族が多いが、こんな理念で文科省を動かして来たのだった。