【社説②・03.09】:東京大空襲80年 惨禍の記憶を語り継ぎたい
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【社説②・03.09】:東京大空襲80年 惨禍の記憶を語り継ぎたい
戦争は兵士が犠牲になるだけでなく、国民も巻き込まれる。一夜で10万人の命が奪われた大空襲の実相を後世に伝え、国土が焦土と化すに至った経緯を考えたい。
先の大戦末期の1945年3月10日未明、米軍の大型爆撃機B29約300機が東京の下町一帯を 焼 夷 弾で焼き尽くした。戦争は前線と銃後を問わず、多くの国民が命の危険にさらされることを如実に示したと言えよう。
空襲は当初、主に軍需工場を標的としていた。しかし、東京大空襲を境に、日本国民の戦意を 削 ぐことを目的として、焼夷弾による低空からの夜間無差別爆撃という非人道的作戦が本格化した。
終戦までに多くの都市が焼け野原となった。米軍は、日本の木造家屋を効率的に燃やす方法まで研究していたという。戦争はそこまで人間を非情にするのだろう。
空襲の惨禍は長く語り継がれてきた。だが、戦後80年を迎え、体験者も高齢化している。記憶を風化させないための取り組みを強化しなければならない。
3月10日を「平和の日」と定める東京都は、新年度から江戸東京博物館で空襲体験者ら約170人の証言映像を公開する方針だ。民間の東京大空襲・戦災資料センターでも、猛火で黒焦げとなった病院の壁の一部を公開している。
戦後世代も、こうした資料に触れ、戦争の悲惨さを感じてもらいたい。若い語り部を育て、空襲の実相を伝えていくことが大切だ。空襲で心身に傷を負った人が今もいることを忘れてはならない。
国土が焦土と化すまで戦争を続けた理由にも目を向けたい。
米軍は、日本の防衛線の要とされたサイパン島を44年7月に陥落させ、本土空襲の拠点とした。
この時点で、日本の軍部内にはもはや勝ち目がなく戦争を終結させるべきだという考え方もあったのに、指導者はその後も1年以上、フィリピンや硫黄島、沖縄などでずるずると戦いを続けた。
約310万人の戦没者の多くはサイパン陥落後の最後の1年間に命を落としたとの指摘もある。確たる勝算もなく「戦争完遂」「本土決戦」を連呼した罪は重い。
その悲惨な教訓に学び、日本は80年間、平和を守ってきた。
空襲でがれきの山と化した東京の街を映した映像や写真は、ロシアの侵略を受けているウクライナの惨状とも重なる。日本は世界に平和の尊さを訴え、各地で続く紛争の解決や国際秩序の再構築に主導的な役割を果たすべきだ。
元稿:読売新聞社 朝刊 主要ニュース 社説・解説・コラム 【社説】 2025年03月09日 05:00:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。
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