【日曜に書く・12.01】:ノーベル賞の話をしよう ■論説委員・中本哲也
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【日曜に書く・12.01】:ノーベル賞の話をしよう ■論説委員・中本哲也
10月のノーベル賞週間は、郷里の大崎上島(広島県豊田郡大崎上島町)にいた。
◆退社の実感
自然科学系の3分野(生理学・医学、物理学、化学)の受賞者発表はテレビのニュースで知った。緊張感はなかった。重圧も感じなかった。寂しさがこみ上げた。
<もう新聞記者じゃない>
9月末に退社した。
40年の記者生活のうち後半の20年余は科学の報道、論説に携わった。2002(平成14)年7月から24(令和6)年9月まで。日本の研究者のノーベル賞受賞が相次いだ。一方で、日本の科学、研究開発力が危機的な衰退、低落傾向に直面した時期でもある。
ノーベル賞について、記憶の断片を書いてみよう。筆者が科学担当だった22年間に、自然科学3分野の日本の受賞者は米国籍の3人を含めて18人いる。なかでも、田中耕一さん(02年、化学)と山中伸弥さん(12年、生理学・医学)の受賞は強く印象が残っている。2人は筆者と同世代でもある。
「タナカ・コウイチ?」
「質量分析?」
受賞者発表の段階で、名前も業績も知らない「完全白紙状態」だったのは、田中耕一さんだけだ。
◆田中耕一さんの衝撃
ノーベル賞の時期に科学記者は緊張し、重圧を感じる。その緊張と重圧の何割かは、02年10月9日の「タナカコウイチ・ショック」に起因している、と思われる。
科学担当となって3カ月。前日の小柴昌俊さんの物理学賞受賞で、手いっぱいだった。
混乱の中で締め切り時間に追われ、1面の本記をどうにか書いた。解説記事は先輩の長辻象平さんが引き受けてくれた。
<あの時、自分には解説は書けなかったな>と今も思う。
テレビ各社のニュース、通信社の配信記事から、「白紙状態」はどうやらウチ(産経)だけではないらしいと察した。横並びで安心するのは恥ずかしいことではあるけど、正直に告白すれば気持ちは楽になった。
田中耕一さんは筆者と同じ昭和34年生まれ。戦後生まれでは日本人で最初のノーベル賞受賞者である。直接取材する機会はなかったが、日本の科学にとって、また筆者個人にとっても、田中さんの受賞はインパクトが大きい。
◆山中伸弥さんの志
さまざまな細胞に分化する能力があるiPS細胞(人工多能性幹細胞)の作製技術を確立した山中伸弥さんの受賞は、筆者にとっては、ささやかな自慢の種である。
山中伸弥氏(安元雄太撮影)
日本の研究者がノーベル賞を受賞すると、新聞、テレビは大々的に報じる。しかし、受賞対象となった業績が発表された段階で、一般紙の記事やニュースで報道されることは、めったにない。吉野彰さん(19年、化学)のリチウムイオン電池、本庶佑さん(18年、生理学・医学)の免疫チェックポイント阻害因子の発見、そしておそらく湯川秀樹博士(1949年、物理学)の中間子や朝永振一郎博士(65年、物理学)の繰り込み理論も、論文発表のときには報道されていないだろう。
山中さんのiPS細胞は、2006(平成18)年にマウスの皮膚の細胞からの作製が米科学誌で発表されたとき、新聞、テレビでも報じられた。
文部科学省での事前レクチャー(解禁日指定あり)に足を運び、数十行の本記と解説風のサイド記事を書いた。各社横並びの報道ではあるけど、6年後にノーベル賞に輝く業績を最初に報じた記者の一人であることとiPS細胞が再生医療に飛躍的な進展をもたらす可能性を伝えようとしたことは、科学記者として密(ひそ)かな誇りになった。ちなみに、人工多能性幹細胞と表記されたのは翌年発表されたヒトiPSからで、マウスのときは誘導多能性幹細胞と書いた。
山中さんは「患者を救いたい」という思いから医師から研究者に転身した。iPS細胞に関連する記事を書くときにはできるだけ、山中さんの志も伝えたいと思ってきた。使い方によっては倫理的な問題もはらむiPS細胞を健全な医療技術として育むには、多くの人が山中さんの志を共有し、日本の研究が世界を牽引(けんいん)していくことがとても大事だと思う。
元稿:産経新聞社 主要ニュース 社説・解説・コラム 【日曜に書く】 2024年12月01日 15:00:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。
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