たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

最後まで気が抜けません

2016年12月14日 22時05分49秒 | 日記
 のこり14日間となりました。あと9回我慢すれば終わりますが最後まで何がおこるかわからず、気を抜くことはできません。今日は寒さのきびしい一日で、欠勤にして正解でした。明日はさらに寒くなるので、地下で冷え込みがきびしくなると思います。わたしも含めて痩せている三人が寒い、寒いとふるえている時にお腹でっぱっている方は暑いっていうんですよね。こんなこと言いたくありませんが体温が高いのでしょうかね。いやはや大変。お昼休憩が明日は11時30分から、明後日は13時30分から。お水を飲む時間が午前に多くなるか、午後に多くなるかの違い。この二時間の時差は体がおかしくなりそうで慣れることができません。お昼の休憩時間と休日を一定のリズムで刻むことができない、こういうシフト勤務、わたしにはこれ以上無理。もっときついシフトが組まれる仕事も世の中にはあり、それをこなされている方もたくさんいらっしゃいますがわたしにはこれが限界です。ローテーションというのも、業務の内容によってはどうなんだか、ほんとに考えもんだとも思います。

 そんなこんなのグチ日記、失礼しました。こんどの休日には楽しいことも書ければいいなと思います。

 写真は秋のプリンス・エドワード島。モンゴメリさんが『赤毛のアン』を書いた家の跡の庭の木々が色づいています。風がぴりっと冷たかったけれど幸せな時間を過ごしました。

第三章_日本的経営と女性労働_その歴史の概観③高度経済成長期

2016年12月14日 18時15分33秒 | 卒業論文
 アメリカの初期占領政策は、日本の民主化と世界の平和を指向したから日本の女性の解放はその前提とされていた。その指向に沿って行われた前後の日本の民主的改革がとりわけ女性にとって大きな意義をもったのは先に見たとおりである。憲法24条に「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」が謳われたことに象徴されるように、「男女平等」は初めて日本女性の労働権、参政権、学習権、労働組合加入の権利などが保障されたのである。しかし、やがてアメリカの対日政策が大きく転換し、日本社会の民主化よりも経済発展が優先されると、巨大企業の復活とも相俟って、女性労働を囲む社会的環境は、逆コースをたどることになった。1)

 この転換を機とする日本の高度経済成長期は、1955年から始まり途中に若干の景気後退局面のあったものの、73年の第一次石油危機まで続いた。1964年(昭和39)には東京オリンピックがあり、モノレール羽田線、名神高速道路、新幹線の開通など着々と産業基盤が整備されていった。個人消費に企業の投資、輸出の拡大と経済はバランスよく厚みを増していった。この好景気はいざなぎ景気と呼ばれた。重化学工業化が進展したこの時期、労働需要はきわめて旺盛で、大企業の雇用数も飛躍的に増大していった。女性の雇用者数も量的には拡大した。日本の労働者数は、5年間に400-600万人ずつ増加し、55年の1,778万人は73年には3,995万人へ2倍に膨張した。そのうち女性労働者についてみると、労働者純増分に占める女性の割合は30-40%であり、55年に531万人が67年に1,000万人の大台に乗り、さらに73年には1,187万人へ2.2倍(55年比)に膨張した。

 この女性労働者増加の拡大状況から読み取ることができるのは、女性労働者の増加率は男性のそれを上回ったこと、また労働者純増分に占める女性の割合が高度経済成長後期の65年から70年に最高となり、女性労働力は依然として追加労働力的性格を帯びていることが示されている、ということである。2)日本的経営システムの成立の過程で、女性労働者は量的には増えたが、女性の経済的地位は相対的に向上しなかった。女性が労働市場において重要な役割として組み込まれることはほとんどなかったのである。
 
 第一章のM字型雇用で見たように、女性の労働力率は、結婚・出産を契機に二つの山に分断されている。M字型を描くようになったのはこの頃である。企業の女性労働対策は、短期間の単純労働要員としての若年未婚労働者に対する定着阻止策と、若年労働力の不足を補う単純労働要員としての中高年主婦労働者の吸引対策がセットになった形でとられた。それらはいずれも低賃金労働力として巧みに利用され、合理化推進のテコとしての役割を果たしていったのである。この性別管理による低賃金政策が大企業においては、基幹男性労働者の、終身雇用・年功序列賃金による生活の安定を保障していた。


 ひと口に高度経済成長期の労働力供給構造といっても、1960年代半ばを境に様相は変化している。60年代前半までは、女性労働力供給の中心は新規学卒者の若年層と農業の家族従事者の賃労働者化であった。それは雇用者純増分に占める若年層の比重が高いことや、雇用者の純増分が労働力人口のそれを大きく上回り、しかもその差が家族従事者の純減分に見合っていることから推察される。それに対し、1960年代以降、特に70年代以降の女性労働力供給源の中心は、主婦の賃労働者化であった。それは、新規学卒者の顕著な減少(15-29歳層は70年以降、労働力人口・雇用者数共に絶対減)と家族従事者の減少幅の縮小、加えて雇用者純増分に占める労働力人口純増分の比重の急増、及び労働力人口純増分に占める40-50歳台の高い比重などから推察される。こうして女性労働力供給源の中心は農家の家族従事者から家庭の主婦に移行しつつ史上初めて既婚女性の大量職場進出が実現したのである。このような労働力供給構造の変化に伴い、1955年には53%を占めていた家族従事者は73年には25.9%に減少し、逆に雇用者は58.7%と大幅に増加した。3)

 主婦の賃労働者化が進んだ背景としては、家庭電化製品や乗用車の普及、マイホーム、進学率の向上など生活様式の高度化に伴い家計補助的就労を必要としたこと、一方で家事の合理化や出生率の低下などによる職場進出を可能とする時間的余裕の創出である。さらに、「労働力流動化政策」「積極的労働力政策」と呼ばれる政府の労働力政策も「婦人労働力の活用」の必要性を強調した。


 主婦の賃労働者化は、雇用の質の悪化という側面をもつ。臨時・パートタイマーなど不安定雇用者が急増したのである。男性の臨時労働者が実数で横ばい(60-67万人)であったのに対し、女性は73年には123万人(10.4%)と、60年の2.2倍に急増した。パートタイマーも同時期57万人(8.9%)から170万人(14.7%)へと約3倍に急増し、パートタイマーの中心が男性から女性へと移行した(パートタイマーの女性比率は43%から61%へ上昇)ことがわかる。主婦の賃労働者化が本格化するのに伴い、未組織・無権利の労働者としてパート雇用労働者も急増したのである。4) この高度経済成長期に女性労働者は製造業部門に補充労働力として登場したが、その大半が家庭の主婦であり、好況時は人手不足の場合に労働市場に参入し、不況になると解雇され家庭に戻った。そのため、不況時でも女性労働者は失業者として市場に滞留することがなく、常に完全雇用水準を維持することができた。(1960年代、70年代を通じて失業率は1%台であった)。5) 編辺労働力市場を形成したパートタイマーは、より安く景気の安全弁としての役割をも果たしたのである。これが日本経済の好・不況にかかわらず、全体の失業率を低め、しかも男性中核常用労働者の雇用を守る役割も果たしたといえよう。6) 雇用者で被扶養者である「専業主婦」のパートタイマーは、日本的経営システムの中で、フレキシブルな労働供給源として不可欠な構成要素となったのである。働く「専業主婦」は、性別役割分業の枠につながれたまま、「家事・育児に差し支えない程度の働き」を期待され、経済的には自立不可能な低賃金を押し付けられた。
 

 上記にみてきたようなパートタイマーとして企業の合理化体制の一環に組み込まれていく女性労働者は、若年のうちには未婚短期補助労働力として男性に扶養されるのを前提に、フルタイムでの雇用は結婚までの短期間を通例としていた。一部の大企業においては、女性のみ30-25歳という若年定年制を導入し、また明文化した規定はないが慣行として女性は結婚したら退職する制度が多くの企業であった。結婚退職制度の大多数が上司による勧告といったあいまいな方法で、個別的に圧力をかけ、あるいは様々の手段を用いて社内に退職ムードをつくる方法が採用されていた。7)

 女性にはこのように早期退職を強要する一方で日本型雇用慣行においては、何よりも長期勤続を尊び、個人の能力・資格・意欲はその上で初めて意味をもつ仕組みになっているので、女性労働者は未熟練労働力として労働市場において差別され、長期勤続を必要としない補助的職務しか与えられなかった。この若年未婚短期補助労働力者は、大部分が事務部門に吸収されていった。女性労働者の職業を見てみると、男性労働者の場合、増加率が増大なのは技能工・生産工程従事者であったのに対して、女性労働者ではこの時期に最も増加したのが事務従事者であり、増加数の4割強(43.4%、ただし1960-73年)を占めている。その結果、1973年の職業別構成比は第一位で30.8%(365万人)と大幅に上昇した(60年は25.4%)。8) 事務従事者急増の背景としては女性労働者の学歴の向上が考えられる。新規学卒者の中心は中卒から高卒に移行し(1970年には約3分の2)、女性労働者全体でみても高卒が最多(46.2%、71年)となった。9)

 高卒の女性たちは、大企業の事務部門においては常用雇用者として吸収されていった。これらの女性労働者はしっかりとした組合組織に守られたグループが多く、大勢は結婚・出産によって労働市場から一度は撤退する。子育て終了後に今度は消費の拡大による付加収入を求めてパートタイマーとして再び労働市場に戻っていく。この一般事務職、いわゆる「OL」を日本的経営システムの中で求められてきた女性と職業の関係を象徴する階層として筆者は捉えたいのである。


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引用文献

1)藤井治枝『日本型企業社会と女性労働』68頁、ミネルヴァ書房、1995年。

2) 竹中恵美子編『新・女子労働論』76-77頁、有斐閣選書、1991年。

3)竹中恵美子編、前掲書、79頁。

4)竹中恵美子編、前掲書、79頁。

5)篠塚英子『女性が働く社会』19頁、勁草書房、1995年。

6)藤井治枝、前掲書、320頁。

7)藤井治枝、前掲書、84-85頁。

8)竹中恵美子編、前掲書、78頁。

9)竹中恵美子編、前掲書、79頁。