たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

星組『食聖』『エクレール・ブリアン』_無事に千穐楽の幕がおりました

2019年10月13日 23時30分25秒 | 宝塚
 ライブビューイングが終わって外に出るとひんやり、長い長い夏がようやく終わったでしょうか。10月半ば、台風に阻まれるとは思わなかった昨日の宝塚大劇場日帰りバスツアーの中止(公演は行われましたが満席だった40人分のチケットがまるまる当日券に・・・)、東京宝塚劇場の前楽公演中止。トップスターの退団公演中止は阪神淡路大震災で安寿ミラさんの公演中止以来のこと。サヨナラショーで紅子さんが叫んでくれました。「台風いい加減にしろ!日本国民に謝れ!宝塚ファンに謝れ!」「スミレコードぎりぎり?そうでもない?」誰よりも紅さんはじめ退団される5名が無念だったと思いますが笑いにかえて明るく吹飛ばしてくれました。今日の青空のように清々しく、紅色に染め上げられた楽しい大千穐楽、あっという間に終わってしまいました。映画館なので一緒に手拍子したり大声で笑ったりできないのが残念でした。映画館の中、笑い声きこえてきたけど全体的におとなしめ?だったかな?サヨナラショーの最後、おりんのチーンの音が長かった、なんなら途中音量あげた?あがった?長く響いていておかしかったです。芝居の最後大団円、ホンが「リー・ロンロンがんばれ」ってエールと送るとガッツポーズでこたえた琴さん。ホンが客席に背を向けて舞台上の星組生たちがわちゃわちゃと働く姿を愛おしそうに眺めていた場面、大千穐楽は舞台上にいる星組生全員がホンとアイリーンを向いてヒューヒュー、誰もが笑顔でトップコンビを称え、ホンとアイリーンの幸せ満開の笑顔で幕。これが紅さんが守りぬいてきた星組なんだなあとしみじみ。

 如月蓮さんと綺咲愛里さんが、自分が退団することよりもさゆみさんが宝塚を卒業することがさみしいと。紅さん自身も明日から「元」タカラジェンヌになる、「元」ってつくのが寂しいと。こんなに宝塚を好きな方が卒業してしまうのかとしみじみ。「小林一三先生、宝塚をつくってくださってありがとうございます」とお礼のことば。ほんとにこの方は宝塚が好きなんだと。紅さんに宝塚の魔法をかけたきっかけが『雪之丞変化』『サジタリウス』で初観劇が『仮面のロマネスク』なのはこの頃の雪組ファンとして嬉しい限り。こうしてバトンが受け継がれていく唯一無二の世界。

 いかにもサヨナラ的な場面は皆無なのに次の世代への引き継ぎがうまく取り入れられていて、アドリブでサヨナラをいえる場面がちゃんとあって、演出家の愛情と尊敬の念が込められた異色の出来の退団公演作品。大劇場と東京宝塚劇場で二回ずつ台風などに阻まれることなく無事に観劇できてほんとによかったです。この時間は二度と戻らない、一期一会の奇跡の出会いでした。

 タータンの退団公演ではいちばん端っこにいたであろう姿を認識できていませんでしたが、10数年ぶりで宝塚に戻ってきて、トップなってからの作品、『オームシャンティオーム』以外はライブビューイングも含めて全て観劇しました。現実を忘れて楽しく幸せな時間を過ごすことができました。ありがとうございました。


 





明日また語ろうと思います。今日は胸がいっぱいだし、これぐらいで・・・。

『アガサ・クリスティー自伝』(上)_第一部アッシュフィールドより

2019年10月13日 08時45分22秒 | 本あれこれ
「人生の中で出会う最も幸運なことは、幸せな子供時代を持つことである。わたしは子供時代たいへんに幸せであった。わたしには家があり、大好きな庭があり、気がきいて辛抱強い”ばあや”もいたし、互いに愛し合い、結婚と、親であることにも成功した二人の人を父として母として持っていた。


 
 現代的な標準からするとわたしの父なぞはおそらくあまりよいとは認められない方であろう。父はのらくら者であった。時代が安楽に暮らしていける収入のある時代で、安楽に暮らしていける収入のある人は働かなかった。人も働くことを期待しなかったものだ。わたしの父はどっちにしても働くことにかけてはあまり得意ではなかったように思われてならない。


 わたしの母クララ・ベーマーは子供のころを不幸せに過ごしている。彼女の父はアーガイル・スコットランド高地連帯の将校だったが、馬から落ちて致命的な重傷を負った。祖母はその時まだ若く美しい27歳、四人の子供と、未亡人扶助料だけが後に残された。ちょうどそのころ、アメリカの金持ちの後妻として結婚していた彼女の姉から手紙が来て、養子に子供の一人を引きとって育てたいという申し出があった。

 四人の子供を養い、教育するため死に物狂いに針仕事をして働いていた若い不幸な未亡人にとって、その申し出は拒むべくもなかった。三人の男の子と一人の女の子のうち、彼女は女の子を選んだ・・・というわけは、男の子たちは自分で世の中へ出ていけるが、女の子は楽な生活の有利さが必要と思われたからか、またはわたしの母が常に信じていたように、祖母が男の子の方をよけいに気づかっていたかのどちからであったろう。わたしの母はジャージーを離れてイングランド北部の未知の家へやってきた。母は憤りを感じていたとわたしは思う-余計もの扱いにされたことが深く心を傷つけたに違いないし、それが母の人生に対する姿勢を特色づけることになったと思われる。そのために自分自身が信じられなくなり、また人の愛情を疑うようにもなった。彼女の叔母はやさしくて気さくでおおような人だったが、子供の気持というものを感じ取れない人だった。母はいわゆる快適な家やりっぱな教育の強みのすべてを手にいれたのだが・・・彼女が失ったものは何ものにも代えがたいものだった。それは彼女の兄弟たちと自分の家での気苦労のない生活だった。

 母は新しい生活の中でひどくみじめな思いをしていた。毎晩泣き疲れて眠りにつくような有様で、やせ細り青ざめ、とうとう病気になってしまった。叔母は医者を呼んだ。医者は初老の経験豊かな人だったので、この少女と話し合った後、叔母のところへ行って、「あの子はホームシックですよ」といった。叔母は驚いたが信じなかった。「いいえ、そんなはずはありません。クララはおとなしい、いい子で、一つも面倒なんかかけたことがありませんし、ほんとに幸せにしてます」でも老医者はもう一度この子のとろこへ行くとまたよく話をした。彼女には兄弟があったんじゃないかな。何人? みんなの名前は? すると、彼女は泣き崩れてしまい、すべてを話した。

 悩みを打ち明けると極度の緊張はやわらげられたものの、余計もの扱いの気落ちだけはどうしても抜けなかった。母は祖母に対して祖母が死ぬまでこの気持ちを持ちつづけていたように思われる。」


「ディッキーが戻ってきた喜びのほかに、その時何か得るものがあった-何か困ったことがあった場合の、母の愛と理解の強さである。悲嘆の真っ暗などん底にある時、母の手にしっかりつかまっていることが一つの安心だった。母の手に触れていると、何か引きつけられるような心がいやされるような気がした。病気の時など、母はかけがえのない人だった。母は自分の力と生気とを与えてくれる。」



第一部アッシュフィールドより抜粋。


(『アガサ・クリスティー自伝(上)』乾信一郎訳 早川書房 1982年8月10日5刷)