たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

宝塚歌劇の殿堂より_『男役の美学展』

2019年10月20日 23時00分29秒 | 宝塚
 息抜き投稿。

 5月20日『オーシャンズ11』の日帰りバスツアーに参加した際訪れた歌劇の殿堂『男役の美学展』の写真をようやくアップ。10月13日をもってこの並びが過去となりました。わかってはいてもさみしいものです。ネットの時代になり劇団のホームページから名前が消えるのでリアルタイムでいなくなったのだと実感させられます。

 燕尾服の着こなしに、男役の経験値がでるとききます。退団公演のショーの最後は、キラキラのない燕尾服。男役としてのこだわり、集大成ですね。

































































かなり様変わりする今年のタカラヅカスペシャル、ライブビューイングがあるだろうから申し込むと思いますが複雑な気持ちです。



苦悩していた日々を思い出す_実習記録ノートより(8)

2019年10月20日 19時29分27秒 | 祈り
「実習5日目が終わった。繰り返しになるが自分の中で母のことがまざまざと思い起こされてとても、とても苦しかった。数年前無理矢理入院させた場面には、私は居合わせなかったが、弟から話を聞かされた時の苦しさを思い出す。自分の母親が精神疾患者であることは、これほどまでに苦しいのだとあらためて自分の中で繰り返し言い続けている。自分もどっかおかしいんじゃないかと思われるのがこわくて、ほとんど人に話すことができなかった。実習に来る時でさえそう思った。それが今スタッフさんに話すことができている。最近友人になった女性にも、こうしてPSWの勉強を始めた動機のひとつとして母のことを少し話すことができた。彼女は涙していた。私はもしかしたら母を乗り越えることができているのかもしれない。母は今どんなぶうに毎日を生きているのだろう。薬の副作用もあるのだろう。歯がほとんど抜けてしまって、髪もうすくなり、形相がすっかり変わってしまっていることを弟から伝えられてはいる。私は自分がつらくなるし、こわいし、会いに帰ることができないであいる。その現実を受けとめていかなければならない。ただ、母には母の生きている世界があって、それを私が引き受けることはできない。妹の不幸な最期もふくめて、なにが悪くて、だれのせいでこうなったのでもない。答えなどないのだ。

フリースペースは決して居心地のいい場所ではない。やることが決まっていないのは本当に残酷だ。洗い物をしてみたり、軽く掃除をしたり、何かしらやることがほしい。本当に自分はここにいていいのだろうかと思ったり、利用者さんからどんなふうに見られているのだろうかと気になってみたり・・・。

私は何となくFさんに対してのことも含めて、自分がお話をきいてあげている、という気持ちがあったような気がする。どこか特別な人たちだとすごくかまえていた。もし、上から見ているようなところもあったかもしれない。

少し落ち着いて見回してみれば、利用者さん同士気をつかい合っていたり、それぞれの世界をもちながら自分の居場所、過ごし方を見つけて過ごしている。
そこに自分がどう関わっていくのか、実習生の役割はなんだろうなんて考え始めれば難しくなってしまう。
今の私にできることは、あいさつだけはちゃんとして、あとはできるだけ笑顔でいること、それまででも十分だ。
10月の実習はあと一日。
利用者さんそれぞれが生きてきた世界にほんの少しでも触れることができれば、楽しいと感じることもできるかもしれない。
肩の力を抜いて、そこにただ居てみよう。
メンタルな場面で、本当に普段の私がでているなと思う。
こんなに緊張しながら生きてるんだ、これはつらいよ・・・。」

「平成18年10月28日(土) 晴 実習6日目。

本日の目標

笑顔で一日過ごすこと。
利用者さんのつらさや苦しさを引き受けなければならないと思っていたところがあるような気がする。気負わずフリースペースを楽しみたい。」

 

 その時はわかっていませんでしたが、母は医療保護入院でした。親族の同意による強制入院です。幻聴と妄想がひどかったのでいやがるのを無理矢理車に乗せるしかなかったと聞かされました。わたしがその場に居合わせることには耐えられなかったと思います。いなくなって7年の歳月が流れた今、この苦しみ続けた日々はどんどん自分の中から遠ざかりつつあります。それでいいのだと思います。解き放たれていきたいです。台所のものをのぞけば母の荷物はほぼ整理できました。病気になってからの母が読んでは日付を書き込んでいた本をみるのがいやで少しずつリサイクルボックスに持ち込み中。形見わけにほしいものもなく、袖を通せるジャケットは着させてもらっています。それだけ。床の間に飾ってあるお土産物も少しずつ整理中。先日は自分が買ってきた高山土産、そして小学校の修学旅行の時奈良で買った置物とお別れしました。奈良の猿沢池近くの旅館に泊まった、その時の空気感をなんとなく今も覚えています。思い出は心の引き出しへ。モノは要らない。

動機とは別のところで、動機はもう忘れて、援助職をまたやりたいという想いがありますが、郷里および郷里近郊ではあり得ないとわかりました。母がはりきって建てたでかい家は母のためのもの。わたしのものではない。妹が亡くなった家だし、横浜で主治医が言った、そういう家に住まない方がいいんじゃないの、は正しいのかもしれません。物理的に離れていないと気持ちも距離感もてないみたいです。不便すぎるし、ここに居続けることは無理。歯ぼろぼろ、慣れない暮らしと慣れない業務に疲れ果ててしまっている自分がまた一歩踏み出す勇気とエネルギーがあるか。先はみえている、なん十年もあるわけではない。具体的にどこでどんな仕事をしながらこれからの人生を生きていくのか、家族から解き放たれ自分のために生きていくのか、身内いないと賃貸は難しいですが保証会社による保証もあることを前職で知りました。どうするのか、自分。その前に、荷物を減らすための時間がまだ必要・・・。



『アガサ・クリスティー自伝』(上)_第三部成長するより

2019年10月20日 16時13分04秒 | 本あれこれ
「わたしは時々思うのだが、この学校教育をつづけて受けていたら、わたしはどういうことになっていたろうかと考える。わたしは段々進歩していったに違いないと思われるし、またすっかり算数のとりこになっていたろうとも思える・・・いつもわたしを魅了していた科目だったから。とすると、わたしの人生は確実に全く違ったものになっていただろう。きっとわたしは三流か四流ぐらいの数学者になって、まことに幸せな暮らしをしていたかもしれない。おそらく本など一つも書くことはなかったであろう。数学と音楽さえあればわたしは十分に満足だった。この二つにわたしはすっかり専心して、空想の世界などは閉めだしてしまっていただろう。

 もっとも、よく考えてみると、人はなろうとしているものになっていると思う。人は幻想にふけって、「もしこれこれのことがあったら、自分はこれこれのことをしただろう」とか、「もし自分が誰それと結婚していたら、自分の一生は全く違ったものとなっていたと思う」などという。だが、人は常に何とかして、自分の道を自分の型に当てはめてみつけだすものである。というのは、ある型、自分の人生の自分の型に従っていることは確かなのだから。人は自分の型を飾りたてることもできれば、ぞんざいにすることもできるが、それは自分の型であって、それに従っている限り調和というものがわかり、心の安らぎが自然に得られるものである。」


第三部成長するより


(『アガサ・クリスティー自伝(上)』乾信一郎訳 早川書房 1982年8月10日5刷)