たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

「トスカーナのサン・ジミニアーノ」

2020年09月01日 18時50分31秒 | 本あれこれ
2015年5月1日:『トスカーナの青い空』より_「ボッティチェッリの春」

https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/3a69000ea21c684a72ca6e0078436f13

 1999年日本公開『踊れトスカーナ』、日比谷シャンテ前のTOHOシネマズシャンテで鑑賞したと思います。映画館がまだ自由席だった頃のこと。名称も今とは違ったかもしれません。今は日比谷シャンテに行っても前を通り過ぎるだけ、映画館に入っても映画をみることはなくなったこの頃。本国イタリアで大ヒットしたというトスカーナが舞台の陽気な映画でした。スクリーンに映し出されたトスカーナの美しい風景に、いつか訪れてみたいと憧れました。それが叶う前にコロナとなってしまいました。この世にいる間にいつか、という望みをすてさったわけではありませんが諸々考えるとたぶん無理かな。あの世に旅立つときできるだけ悔いのないように生きていきたいですけどね、厚生年金保険料天引きでどっちゃり納めきたけどまだダメなの、もうかんべんしてくれよ~・・・。







「イタリアのトスカーナを旅していたときのことだが、ある日の午後、私たちはシエナから路線バスで丘の上の搭の町として知られるサン・ジミニアーノに到着し、予約していたホテルに入った。客室に案内されたが、私はさっそく窓辺に立った。息を呑むほど美しいトスカーナの風景が視界を飾っていた。ゆるやかな丘の連なりが目に触れたのだった。大きな驚きが体験されたのは、翌朝のことだった。朝六時前のことだったと思うが、なんとなくさらさらというような微妙な音があたりに漂っていたように感じられたので窓を開いたところ雪景色が目に入ってきたのである。前日はいくらか雨模様だったが、今度は雪、まさにサン・ジミニアーノの雪の朝だった。その日、私たちはこの丘の上で、トスカーナの雪と雪のサン・ジミニアーノを体験したのである。視界の激変によって私たちはまったく様相がことなるサン・ジミニアーノを旅することがでできたのが、私たちにとって旅の幸いな出来事だった。サン・ジミニアーノの集落の景観とトスカーナの丘の風景において、環境世界と生活世界のすばらしい光景が、オリジナルな現実として体験されたのである。


 ヴァルター・ベンヤミンは、あるとき、このサン・ジミニアーノの宿で、早朝、窓からまるで小石のような太陽を目にしている。このサン・ジミニアーノは、路上であろうと、広場であろうと、まるで中庭にいるように感じられると、ベンヤミンはいう。どの広場にいても庇護されているような気がする、とベンヤミンは書いている。つぎにベンヤミンはの言葉を紹介したいと思う。

 立っていられる場所ならどこでも坐っていることもできる。子どもたちばかりか女たちまで、それぞれ家の敷居に決まった場所をもっている。まさしく肌を接しているのだ。大地と、大地の風習と、またたぶん大地の神々と。玄関前に置かれた椅子はそれだけで都会の新風が吹き込んだことを物語っている。

 私はこの都市に来るまで日に出をそのように自分の部屋の窓で迎えたことはなかった。夜半あるいは午後、私がベッドに横たわっていると、見えるのは空ばかりである。私は日頃の習慣で日の出直前にめざめはじめる。それから私は太陽が山並みの向こうに顔を出すのを待っている。やがて太陽が石ころほどの大きさに見える日の出の最初の短い瞬間が訪れる。山の背の上の燃える小石なのだ。ゲーテが月を歌った《ふたたび雲間からそっとお前の顔がほ星かげのようにさしのぞく》という一節を、太陽にあてはめて理解した人はこれまでだれもいなかった。太陽はしかし星ではなく、石とよぶにこそふさわしい。古人はこの石をお守りとして身に帯び、よって時間を幸福へと向かわしめる術を心得ていたに違いない。

 私は私の周囲の上から眺めている。この国は建物や集落を誇らしげに見せびらかしたりはしない。そうして建造物には事欠かないが、いずれも覆いや影に隠れているのだ。もっぱら必要に迫られて建てられた住居が、輪郭だけでなく瓦や窓ガラスの色調ひとつひとつをとってみても、庭園の奥のどんな邸宅にもかなわぬほど上品なのである。しかし私が今寄りかかっている壁は、樹冠は硬くもろい花冠となり、無数の裂け目を天に向けて開いているオリーブの木と秘密を分かち合っている。」