『マルテの手記』より(3)
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「今から思うと、あの熱の世界からいつもどうやらまた無事に日常の世界へ戻ることができて、なんでも分け合う大人の世界へ移り住むことができたことは不思議に感じられさえする。大人の世界では、だれもが親しみなれた世界に住んでいるという安心を強め合おうとして、単純なわかりやすい世界に仲よくとどまることに腐心した。なにかが期待されるにしても、その期待が実現するかしないかのいずれかであって、第三の場合は存在しなかった。悲しいことときめられてしまったこと、うれしいことときめられてしまったことがあって、そのほかにはどうでもいいことがたくさんあった。大人が僕たちを喜ばせようとしてなにかをしてくれたら、それを喜びに感じ、うれしそうにふるまわなくてはならなかった。これはほんとうは非常に単純であって、それをのみこみさえすれば自然にそれへ調子を合わせることができた。そして、なにもが申し合わせされた埒(らち)内にとどまっているのであった。窓のそとは夏であるというのに教場にすわっていなければならない長い単調な授業時間、あとでフランス語で報告をしなければならない散歩、戸外で遊んでいるところを呼びこまれて、お辞儀をさせられる訪問客もその一例であった。訪問客は僕が悲しい気分でいるときにかえって僕の顔をおかしがり、生まれつき悲しそうな顔をしている鳥の顔をおかしがるように僕の顔に笑い講じた。むろん誕生日も同様であった。ほとんど見たこともないよその子供たちが招かれてきた。かたくなって僕までがかたくなってしまうような内気な子供、僕の顔をひっかき、僕が誕生日のお祝いにもらったばかりの玩具をこわしてしまうような乱暴な子供。そして、箱や引き出しのなかの玩具をすっかり取り出し、山のように散らかしたままで不意に帰ってしまうのであった。しかし、僕がいつものとおりにひとりでいるときには、この申し合わされた世界、ほんとうは邪気のない単純な世界をいつのまにか踏みこえて、それとは全く違う予測できない世界へはいりこむことがあった。」
(リルケ著・望月市恵訳『マルテの手記』1946年1月20日第1刷発行、岩波文庫、102-103頁より)