たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

「ワクチン接種3日後に死亡 宮城・男性の妻「実態究明を」国に訴え 遺族会結成、訴訟も検討」

2022年11月28日 19時23分55秒 | 気になるニュースあれこれ
2022年11月27日河北新報、

https://kahoku.news/articles/20221126khn000027.htmlより、


「新型コロナウイルスワクチン接種から3日後に死亡した宮城県の男性の妻が「現実を知ってほしい」と「読者とともに 特別報道室」に情報を寄せた。妻は「夫は安全性を強調する国の言葉を信じて接種した。国は因果関係を含め『負の実態』を早急に究明してほしい」と訴える。

 死亡したのは大和町の会社員須田正太郎さん=当時(36)=。妻の睦子さん(34)によると、正太郎さんは昨年9月13日、町内の内科医院で1回目のワクチンを接種。同10月4日の2回目接種直後、関節痛と寒気、倦怠(けんたい)感に襲われた。

 医院に電話で状況を伝えると「副反応だから様子を見て」と言われた。翌5日、正太郎さんは39度超の発熱があり、息苦しさも訴えた。6日は熱が37度台に下がったためシャワーを浴び、夕食を普段通り食べて就寝した。

 7日朝、寝室で横たわったままの正太郎さんに長男(10)が声をかけたが返事がなく、睦子さんが119番した。心肺停止状態で仙台市泉区の総合病院に運ばれ、死亡が確認された。

-死因は「急性循環不全」-

 東北大での解剖で死因は「急性循環不全」とされた。ワクチン接種した医院の医師が8日に作成した死体検案書にも、死因は急性循環不全と記載された。

 正太郎さんは既往歴がなく、前年秋の健康診断でも血糖値のB判定を除き、全てA判定だった。睦子さんは「接種前日まで健康体だった。ワクチン以外に急変の原因は考えられない」と言う。

 睦子さんは接種後に亡くなった人の家族を支援する団体に連絡を取り、同じ境遇の人とも交流。今年10月20日、他の遺族11人とともに遺族会を結成した。会員は今月22日時点で46人に拡大。体験を伝える講演などを続けながら国への集団訴訟も検討している。

 取材の過程で、岩手県の女性(56)も会に参加予定であることが分かった。次女=当時(23)=が昨年10月30日の2回目接種から約12時間後、脳室内出血で急死したという。

 女性は「家族を突然亡くし、何の情報もなく周囲にも理解されず、やり場のない思いを抱えた遺族は私だけでないと知り、勇気づけられた」と話す。

-補償認定の壁高く-

 新型コロナウイルスワクチン接種後の健康被害を巡り、予防接種法に基づき国が全額補償する救済制度がある。だが、認定の壁は高い。

 厚生労働省によると、自治体を通じて同省に申請・進達された接種後の被害受理件数は7日現在、5013件。うち死亡一時金の認定は10件にとどまる。

 同省厚生科学審議会の予防接種・ワクチン分科会副反応検討部会は11日、接種後の死亡事例報告が昨年2月17日~今年10月28日で1908件あったと公表した。これに該当する全遺族が申請したかどうかは不明だが、死亡一時金の認定割合は0・5%にとどまる。

 睦子さんは、正太郎さんの死亡を確認した総合病院医師の作成書類に「ワクチン接種の副反応の可能性を否定できない」と記されていたことを受け昨年12月、死亡一時金や葬祭料の補償を大和町を通じて申請。26日現在、認否の連絡はない。

 「基礎疾患を持つ高齢者の認定例もある。夫のように健康で比較的若い年代の事例が認定されないとすれば大いに疑問だ」と睦子さんは言う。

 厚労省予防接種担当参事官室は取材に「死亡一時金に限らず(接種後に生じた)疾病や障害に関する救済申請も多く、審査が追い付いていない。迅速に対応できるよう努めたい」と説明した。(武田俊郎)」




https://twitter.com/wotakumame/status/1596023185094606849より、

「繋ぐ会 須田さん

「今、乳幼児にまで接種を勧めていますけど、あとどのぐらい犠牲者が出たら満足ですか?夫が打ったロットでもう6名亡くなっている。あとどのぐらい死者が出たら接種が中止されますか?」

「打たせたいなら安全性と危険性どちらも伝えた上で接種させるのが本当」」



https://twitter.com/molbio08/status/1596716674157191169
より、

「mRNA型生物製剤は細胞内で異物のスパイクタンパク質を生産して免疫しようとしたことが原理的失敗。免疫システムが抗原を産生する自己細胞を攻撃する。まさにミスコンセプション。接種を推奨した側は愛する人を失った人たちに何を言えるのか?接種中止と被害者の全数調査以外の選択肢はないと思います。」

『マイ・フェア・レディ』から『回転木馬』まで(6)

2022年11月28日 10時24分09秒 | ミュージカル・舞台・映画



『マイ・フェア・レディ』から『回転木馬』まで(5)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/9304d55e10910324829fdb826c7f8cfd

(1995年『回転木馬』帝国劇場公演プログラムより)

「東宝のミュージカル上演史『マイ・フェア・レディ』から『回転木馬』まで-小藤田千栄子-

 では、どんな作品が再演されたのか。70年代に最初に再演されたのは前述したように『ラ・マンチャの男』だが、この作品は、70年のあと、73年(日生劇場)・77年(日生劇場)・79年(帝劇)と公演され、アルドンサ役は77年版から上月晃に替わっている。

 ついで登場したのは『マイ・フェア・レディ』だった。初年キャストのあと、70年・7月の帝劇で、7年ぶりの登場だった。このときのコンビは宝田明と那智わたる。ついで73年には帝劇で平幹二郎と上月晃のコンビ。76年には文化庁移動芸術祭の全国公演があり、これは宝田明と雪村いづみのコンビだった。つまり『マイ・フェア・レディ』のイライザ役は江利チエミ、那智わたる、上月晃、雪村いづみと続いてきたのだが、ここにもうひとり登場する。1978年・東京宝塚劇場公演からの栗原小巻である。この栗原小巻版は、その後、名古屋、大阪を回り、80年代前半にも公演があった。

 そして『王様と私』である。これは68年にもアンナ役を那智わたるに替えて再演されているが、70年代に入ってからは、まず73年に帝劇で上演された。このときのアンナ役は草笛光子で、パンフレットの表紙には「トニー賞国際特別賞受賞記念」と印刷されている。

 この年のトニー賞は〈ブロードウェイの世界への広がり〉がテーマで、フランス、イタリア、旧西ドイツ、旧ユーゴと共に、日本では東宝が受賞した。東宝の多年にわたるブロードウェイ・ミュージカル上演の業績に対して授与されたもので、授賞式のために東宝は、当時の市川染五郎と草笛光子が歌い踊る「シャル・ウイ・ダンス」のシーンをビデオに収録して送ったそうである。このころはまだ、トニー賞のテレビ中継がなかったので知らない人が多いのだが(もちろん私も知らない)、同パンフレットの記述によれば「約五分間、東宝がいままで上演した主なミュージカルの写真による紹介と、帝劇の外観から舞台へ移動し、染五郎と草笛のシャル・ウィ・ダンスになる」構成だったそうである

 この後、76年・帝劇、79年・日生と上演され、79年版からアンナ役は安奈淳に替わっている。

 70年代再演ものの最大のトピックは、やはり『屋根の上のヴァイオリン弾き』であろう。再演は1975年2月の日生劇場で、初演から8年ぶりの登場だった。そして『屋根の上のヴァイオリン弾き』は、この再演版から、新たな命を持ち始めたのである。このときは1か月公演だったが、翌年8月には帝劇に進出し、78年には同じく帝劇で、こんどは11月~12月の2ヶ月公演になる。これがさらなるロングランとなるのは80年代に入ってからだが、人気は公演ごとに上昇し、同時に内容的にも、初演のときとは、かなり異なる味わいを見せるようになった。

 もちろん脚本も音楽も振付も、基本的には同じものだ。安住の地を追われるユダヤ人一家の話である。だが再演以降、このミュージカルには親と子のホーム・ドラマの味つけがなされ、それがほとんど日本人のドラマのように見えてきたのである。このちょっとした工夫が、大いなる支持を受け、さらにはこのようなドラマに、主演の森繫久彌はピッタリだった。演劇の世界における森繫久彌の、生涯の代表作になったばかりでなく。日本の翻訳ミュージカルの〈顔〉にさえなったのである。

 ほかに1970年代には『サウンド・オブ・ミュージック』の再演もあった。これは1965年に芸術座で初演されたあと、68年には梅田コマ劇場で越路吹雪主演版もあったが、75年には帝劇でオリジナル・キャストの淀かおるが再び主演した。そして80年代以降は、安奈淳、大地真央に引き継がれていく。

 もう一本『南太平洋』も1979年に再演されている。これは1966年の越路吹雪主演以来、なんと13年ぶりに上演で、このときの主演は安奈淳だった。このようにレパートリーは永遠の命を持ち始め、1970年代は、再演で名作が磨かれた時代であった。」


                                    →続く