たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

花組『ハンナのお花屋さん』_Make a Wish(願い事は?)

2017年10月22日 21時21分23秒 | 宝塚
 「Make a Wish(願い事は?)

 作詞:植田景子

 人生の途中で ふと立ち止まり
 振り返り 立ちすくむ
 分かれ道 曲がり道
 その先にあるのは


 子供の頃 迷子になった森の中
 ただ歩いた
 祈りながら 信じながら
 大丈夫 きっと見つかる
 辿り着ける 帰るべき場所へ


 Make a Wish
 自分の心が 
 見えない
 もどかしさ
 

 願い事を星に語り
 雲を追いかけた
 あの森で


 Make a Wish
 叶うならば
 Make a Wish
 叶うことのない
 あの日の願い 永久(とわ)の幻

 Make a Wish
 欲しいものは?
 Make a Wish
 願い事は・・・?」


 台風接近の中、『ハンナのお花屋さん』のライヴビューイング中継をみるべく映画館へ出向いてきました。いちいち心に沁みて、会場を出た後しばらくぼうっとなってエスカレーターの場所がすぐにはわからず、さまようようにふらふらと歩いてしまいました。心を揺さぶられすぎてちょっとつらくなるところもありましたが、やさしい物語。心の傷を抱え、自分だけが幸せになることなんてできないという仙名彩世さん演じるミアに対する、声がアルファ波をもっている明日海りおさんクリスの「幸せになっていいんだよ」がじんわりと心に沁みわたり、やさしく響いてきました。わたし、妹のお別れのあと、自分だけが笑ったりしてはいけない、笑うことすらしてはいけないと自分を責め続けてきました。自分を責めるミアの姿に自分を投影させていました。苦しいことが続いてきたけれど、幸せになっていいんだ、これからは自分の幸せを求めていいんだ、過去を変えることはできないので背負いながら先に逝った人の分まで精一杯歩んでいけばいいんだ、って素直に思えました。

 席は一番後ろ。老眼加速中につき、近くをみやすいようにかつ遠くもそこそこみえないと困るというレベルにコンタクトレンズを合わせている身にはちょっとみえづらいところもありましたが、オペラグラスでは追いきれなかったところが確認できるのはいいですね。自分の過ちによって小さかった弟は亡くなってしまったと重い過去を打ち明けるミアの話を必死に聴いているときのクリスの、眉間にしわを寄せた表情が美しすぎて見惚れました。『金色の砂漠』でも苦悩しているときのギィの眉間にしわをよせた表情が美しいと思いました。眉間にしわを寄せた表情がこんなに美しい方は他にいらっしゃらないかも。子供の頃暮らした森の中の家を買い戻して、デパート出店の話を断り、人の役に立つことがしたいと新しくフェアトレードビジネスを立ち上げようとしているところにミアを呼び寄せたクリス。「これからのことはゆっくり考えればいい」っていう言葉がほんとにやさしくってあたたかくって心に沁みました。現代ものなので衣装がシンプルな分、演じる人の人柄が自ずと滲み出るものなのかなと・・・。シンプルな衣装がどれもよく似合っていて着こなしが素敵すぎました。瀬戸かずやさんのスーツの着こなしも素敵すぎのかっこよすぎ。胸ポケットにチーフが入っているのが素敵過ぎました。

 わたしがクリスと出会うことはないと思いますが、あんまり希望がもてない社会の中でも自分の感性を信じて、上を向いて歩いていこうよ、って背中を押してもらえたような気がしました。会社の数字数字数字の犠牲になりズタズタのボロボロとなったところからここまで立ち直ってきました。信じて祈ることしかできなくなったわたしを包み込んでいた霧は、気がついたら晴れていました。収入は会社で働いていた時と比べるとかなり落ちますが会社で働くことはもうできないわたしが、少しは人の役に立つこともあるかもしれない援助職のはしくれへと、運とタイミングで足を踏み入れました。ハードな仕事、自分がつぶれない程度になんとかやっていければいいなと思います。


 先日断捨離中に妹から届いた葉書が出てきました。お別れの一年余り前。全部実家に持っていったつもりでしたがまだありました。自分を責める気持ちがまた沸き起こってきてつらいので、郵便で弟に送りました。仏壇に供えてもらうの。父がね、わたし宛になんつうも届いていた手紙やはがきを読みたいと言ったことがあったけれど果たしませんでした。だからね供えてもらいます。わたしはもう十分すぎるほど自分を責めてきたのでもう自分を責めません。幸せになっていいんだよ。そんなあったかいメッセージを明日海さんと花組のみなさんからいただきました。

 
 芹香斗亜さん演じるクリスの父アベルとクリスが舞台上で言葉を交わす場面はありませんが、心臓発作を起こして突然旅立ったアベルとクリスとのお別れの場面は描かれませんが、客席の想像力に訴えかける余白を残してくれた演出でよかったかなと思います。クリスがアベルのことを話すとき、舞台上に姿はなくてもずっとアベルがそばにいるような感覚でした。クリスが幼いころの自分の姿を出会い、若かりし頃のアベルと若くして事故により旅立った母ハンナと出会いながら自分を見つめ直していく物語。舞空瞳さんのハンナは天使すぎてアベルとの幸せな日々はいとおしすぎます。芹香斗亜さん、この公演をもって宙組へと異動。つらいですね。白いお衣装がよくお似合い、優しさと覚悟を決めたようなかっこよさがあって素敵すぎました。


 カーテンコールで明日海さんから「今日は販売用DVDの収録日でした。DVDをご覧のみなさま、お買い上げありがとうございました。」と明日海節の挨拶。「全国の映画館のみなさん」のよびかけに直接応えられないのがほんとに残念。「演じるものにとっては盆と正月とハロウィンとクリスマスがいっしょにきたような話」と。幕が降りるときに花組ポーズも。芹香斗亜さんの挨拶がなかったのはちょっとさみしかったですが千穐楽じゃないから仕方ないか。久しぶりにDVD買っちゃおうかな。心が折れそうになった時、やさしく背中をおしてくれそうな物語。大劇場のような派手さはありませんが、歌も素敵で繰り返し会いたい、やさしい物語。一人で多くの方にみていただきたい物語。宝塚は今女性演出家の熱い想いのこもった作品が素敵です。上田久美子先生、植田景子先生、小柳菜穂子先生。伝え方は違いますがそれぞれに想いが伝わってくる作品。こうしているとお金には縁遠い生活が続いてくことになりますが生きている間しか観劇できないし、こうして観劇できるのが幸せなのでまあいいか。小さな幸せはいつもそばに・・・。現実部屋にいる時間が長いとちっそくしそうで、でも部屋にいないとできないことたくさんあるし、外食しているとお金もたないし、一年間だけれど次の居場所が決まったのでなんとかやっていければと思います。

 色々と想いは尽きませんが、またゆっくりと振り返っていければと・・・。気がついたらまたとめどなく長くなったので今日はこれぐらいにしておきます。


 10月10日の赤坂ACTシアター。
 


 

 

 

 


  
 

 

第四章 OLという存在_エピローグ

2017年10月21日 18時52分19秒 | 卒業論文
 「女の子は結婚すればいいと育てられてきた。でもある日、実は選択肢があることに気づき、がく然とする」。 1) 序章に記したように選択肢が多いことは良いことである。しかし、多くの選択肢の中から自分にとって大切なものを選びとることのできるだけの価値観を身に付けていない人にとってはかえって辛いことと言える。「個」として生きるためには、まず女性自身が主体的意識をもつことが重要である。女性自身が従来からの「世帯主」を中心とした標準モデルに埋没している限り、個人として生涯を自立して行く方向は見えてこない。現代のフェミニズムは女性もまた生涯を通して一個の人間、一個の市民としての義務と権利を得る方法を提起した。


  日本ではこれまで家事労働の評価として被扶養者の妻、「専業主婦」を保護してきた。被扶養の既婚女性をモデルとして設計されたベヴァリッジの社会保障を見直す方向へと進んではいるが、実際の企業社会の中では、人件費削減の為に専業主婦のパートタイマーの活用がさらに進んでいる。目先の利益に捉われて経費を削減しようとする企業のニーズと家事に差し支えない程度にぼちぼち働きたい主婦のニーズが一致した結果がパートタイマー労働である。しかし、正社員の代替として活用が進む今日、仕事内容は正社員を補完するものばかりではなくなりつつある。スリム化が進む企業社会の中でぼちぼち程度の働き方に留まっていることは困難である。勤続を積むにつれ徐々に高度化した仕事内容をこなし、時間給もそれに応じて上昇する対応の基幹型パートも普及する兆しがある。にもかかわらず、被扶養者の地位を維持するために就業時間を制御しなければならないという矛盾が見られる。

  ここには、日本の社会保障制度が持つ問題と同時に女性自身のジェンダーシステムの内面化という問題があると考えたい。筆者が勤務する会社でもパートタイマーの活用が進んでいることはすでに記したが、最近(2003年8月時点)採用された30歳代前半の女性は、自らを「パートのおばちゃん」と言っている。これは、自分自身で一個の労働者としての人格を否定していることにはならないだろうか。働いているにもかかわらず「主たる家計の維持者」である夫の「被扶養者」の地位に留まる専業主婦のパートタイマーという就労形態は、男性中心の日本型企業社会の象徴であると同時に、女性自身が「世帯主」を中心とした標準モデルに埋没した象徴でもあると言えるだろう。パートタイマー労働者の多くは、若年期に一般職の「OL」として働き、結婚・出産を機に一度労働市場から撤退している女性である。


  働く女性というとキャリアウーマンばかりがクローズアップされがちである。誰でもできるような仕事をしている一般事務職の女性は「OL」という言葉で十把ひとからげにくくられる。いつでも取り替えがきき、「個」としての異質性を認められないというのが一般的なイメージである。しかし、新聞やテレビで紹介されるような特別なキャリアを持つ女性ばかりが働く女性ではない。第一章の性別職務分離で見たように、事務職は女性労働者の最大の勢力である。「OL」の仕事が一般的にイメージされるように、毎日同じことを繰り返すばかりで何ら生産性をもたないものだとすれば、男性労働者は基幹的なやりがいのある仕事に就き、反対に女性労働者の多くが、つまらない、やりがいのない仕事に従事していることになる。しかも、社会保障制度等、今の日本型企業社会の構造の中で女性が経済的に自立していくことは大変困難である。しかし、平凡な「OL」だって、一個の人間として企業社会の中で認められ、「個」として生きることができるはすだ。「女性に適した」と男性たちが考える仕事に従事している女性たちが、一個の人間として生きることを考えるために、この章では、現実に組織の中で働く人々がその意識と行動の両面でどのように性による支配を受けているか2)をまとめながら、女性自身の「被差別者の自由」の享受、ジェンダーシステムの内面化の問題を中心にOLという存在について検討してみたい。


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引用文献


1) 朝日新聞日曜版編集部編『この地球で私が生きる場所-海外で夢を追う女たち13人』
 52頁、平凡社、2002年。

2) 小笠原祐子『OLたちのレジスタンス』6頁、中公新書、1998年。


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「パートのおばちゃん」に「わたしはボチボチと働ければいいんです、自分の趣味に使うお金と家計の足しになる分ぐらいが稼げればそれでいいんです」と昼食をはさんで目の前で言われたとき、言いようのない怒りのマグマが心の中で噴火したことを今も鮮やかに思い出します。大会社が経費削減のために、フルタイムの派遣社員を切ってパートタイマ―二人交替に代替させるようとしていました。その後7年に及ぶ二人分労働の始まりでした。結局「パートのおばちゃん」はほとんど仕事についていくことができず、ご懐妊をもって契約終了となりました。言い方悪いですが、誰もが納得できる一番妥当な理由。「おばちゃん」を雇用した大会社、甘い考えで仕事に就いた「おばちゃん」、どっちもどっち。これ以降大会社はパートタイマーをとっかえひっかえしていくことになり、部署の中で隙間から落ちてくる諸々を全て私が拾うこととなりました。一生懸命に拾ってしまいました。目先の経費削減にとらわれ、雇用形態の多様化を進めた日本株式会社という船はこれからどこへ向かっていくのか。東芝、日産、神戸製鋼、名だたる大会社たちが長年抱えてきたねじれがここにきて露わになってきているニュースをみるにつけ、暗澹たる思いがしています。こうしてねじれはいつかどこかで露わになっていく。組織が大きければ大きいほどねじれは大きく、露わになったときの代償も大きい。大会社たちよ、これからどこへ向かっていくのか・・・。

『美しき氷上の妖精 浅田真央展』

2017年10月20日 23時37分49秒 | 美術館めぐり
 台風が近づいて雨模様の一日、10月だというのに12月のような寒さの中、お昼を部屋で食べた後、目薬とコンタクトレンズを処方してもらうため眼科に出かけると、デバートで『浅田真央展』をやっているのが目に入ったので立ち寄りました。(最近おた昼は夕方安くなったお弁当を買っておいて食べるようにしています。高いお金出してお店に入ってもおいしくないし居心地よくないし、お金もたないし・・・)。

 4月の引退会見後に、デパートで共同通信社が撮影した写真による、真央ちゃんの軌跡をたどった展示をみましたが、今回の展示は真央ちゃん自身が選んだ衣装や写真が展示されているみたいで、出口には真央ちゃんグッズも売っていました。発売されたばかりの映像も会場で流れていました。4月の写真展の時もそうでしたが、10代半ばから注目され続けてきた真央ちゃん。こんなに細い体でどれだけのものを背負い続けてきたのだろうと思うと涙があふれて仕方ありませんでした。宝塚のステージ衣装ほどではないけれど、きらびやかな衣装がどれもほんとに細くって小さいの。お母さんとお別れしたあとの真央ちゃんはあまりにも細くって心配なぐらいでした。

 まだ10代だった頃、スポーツ新聞が真央ちゃんのことをあれやこれやと書き立てているのをみるたびに、いい歳をした大人たちがよってたかって10代の女の子のことをこんなふうにネタにするなんてみっともない、いい加減にしろよって怒りを感じたものです。アマチュアとして最後の大会となった全日本選手権は上位の結果ではなかったけれど自分自身が納得できるところまでやったから悔いなしなのかな。結果が全てではなく、いかに歩んできたかが大切なのだとあらためて心に刻みました。ジュニアからシニアの世界へと踏み出した頃は怖いもの知らずでぴょんぴょんとジャンプをとんでいた真央ちゃんが歳を重ねていくと共に、色々な経験をし、苦悩の中から立ち上がってきた、ジャンプばかりじゃないしなやかに美しい真央ちゃんのスケーティングが好きです。清らかな妖精さん。これからどんな道を歩まれるのかな。楽しみです。幸せになっていただきたいです。





2007年から毎年アイスショーを開催してきたそうで、大会ではみられなかった燕尾服にステッキの衣装の真央ちゃん。



撮影OKの場所での写真、まだありますので明日以降チャンネルに追加しようと思います。
今日は遅くなったのでこれにて。

『アンデルセンの生涯』より_『人魚姫』(1)

2017年10月19日 19時08分19秒 | 本あれこれ



 先日、『ハンナのお花屋さん』を観劇した時、長い間積読になっていた『アンデルセンの生涯』という本をたまたま読んだばかりだったので、クリス(明日海りおさん)がミアに出会ったミア(仙名彩世さん)に矢車草の花束をプレゼントするとき、クリスのデンマークの家を訪れたミアが矢車草の花束を手に喜びを現わすとき、「人魚姫の瞳の色」というのがなんとも心に沁みました。昨年の12月、加藤清史郎君の「人が自分をどう思うわけではなくじぶんがどうしたいかなんだ」というパブロの無償の愛に心を動かされた『スマイルマーメイド』の舞台も鮮やかによみがえりました。なので、デンマーク、フューン島の旧都オーデンセの極貧の家に生まれ、70歳で亡くなった時国葬をもって祀られたアンデルセンの生涯に思いを馳せつつ、山室静さんの『人魚姫』の解説と鑑賞を書いてみたいと思います。


「1837年に出た『子供のための童話集』第二冊に収録。これがアンデルセン童話の名声を決定づけた最初の作である(略)。

「海をはるか沖へ出ますと、水は一番うつくしい矢車草の花びらのように青く、また、 この上なく澄んでいます。けれども、その深いことといつたら、どんなに長い錨綱でもとどかないほどで、その底から水面までとどかせるには、教会の塔をいくつもいくつも積み重ねなくてはならないことでしょう。人魚たちが住んでいるのは、そういう海の底なのです」

  この書き出しのすばらしさ!文章がたいへん美しく、矢車草の花のように青い海とか、教会の塔――ヨーロッパの町へ行ってみればわかるように、それは町の家々の屋根をはるかに抜いて高く聳えている――をいくつも積み重ねなければとどかぬ深さとか、イメージがいかにも鮮やかで具体的で、しかも浪漫的な香気をもっている。話がどんな展開をとるか、おのずと想像させるような魅力をもった書き出しだ。

  もっとも、一般に言えば、彼の童話はもっと散文的な書き出しをしたものが多く、これほど高調した、ほとんど詩的といっていい冒頭をもった作は、稀にしかみつからない。ということは、この作が非常な意気ごみで書かれたことを示すものだ。それを一口で言えば、 いく度か愛でにがい思いを味わわされたアンデルセンが、〈愛の本質は何か〉という問題で苦しんだはてに、漸くつかんだものを、その悩みと救いごと、吐露しようとしたからだといえようか。

 もちろん、これは著者の恋の体験記でも、恋愛論でもなく、幼い人たちにも読まれる童話だから、人魚の王様の末娘の人間の王子に対する悲恋という筋立を用いて、すべては客観的に形象ゆたかに描かれている。しかし、その底を流れているのは、他ならぬ作者その人の 苦しい体験であり、その悲しみと悩みを克服して明るい世界に浮び上りたいとする熱い願いだ。それだけに、作者は全身全霊を打ちこんでこの作を書いて、執筆中に幾度も思わず涙を流したと言っている。そこにこの作の人を打つ力も生じているのだが、自分の失恋の悩み をぶちまけて書いたからといって、すべての作がそういう力をもつわけもないのは、言うまでもない。

  とにかくこの作は、アンデルセンの想像力の豊かさ、場面に応じて適切な美しいイメー ジを喚起し、表現しようとするイデーにそれにふさわしい形象を与える力の豊かさを、ほ とんど遺憾なく示した名作だと言えよう。

  例えば、人魚姫たちの年とった祖母は、家柄のよいのが自慢で、ほかの者はどんなに身分が高くてもカキは6つしか尻尾につけることができなかったのに、自分は12もつけていたとか、海の中には、ちょうど地上で鳥が空を飛びまわるように、魚がすいすいとめずらしい木や草の間をすべっていて、人魚の王様の城の窓を開くと、ツバメが私たちの窓にとびこんでくるように、その窓から泳いで入ってきたとか、姫たちは海底に自分の花壇を鯨の形につくったとかーそんなちょっとした表現にも、それがよく窺がわれるのだ。」




アンデルセンの生涯 (現代教養文庫)
山室 静
社会思想社

2009年2月‐6月『ルーヴル美術館展』_17世紀ヨーロッパ絵画(5)

2017年10月18日 16時17分59秒 | 美術館めぐり
 ウィキペディアで画像を見つけられなかったのでまた文章だけなのですが、2009年の『ルーブル美術館展』より、カタログをようやく振り返っていて心に留まった作品を書きたいと思います。


(公式ガイドブックより)

「17世紀フランドル派
 《襲撃》
 1600‐1630年頃
 油彩、カンヴァス
 115×147㎝

 ルーベンスにおける革新が現れる以前における、フランドル風景画の作品である。彼方を感じさせる青みを帯びた色調は、ヨース・デ・モンベルの様式を示しているが、この《襲撃》の作者について確かなことはわかっていない。まずローマで活動した多弁な風景画、パウル・ブリル(1554-1626)の名前が思い浮かぶだろう。近景から遠景までの段階的な景の連なり、自然についての瞑想に導くような広範な風景の中への人物像の参入、細部における関心の傾向(跪いて命乞いをする人物など)は、この画家の流儀を示している。ウィレム・ファン・ニューラント(弟)(1584‐1635頃)、あるいはアブラハム・ホファールツ(1589‐1626)らを想定することも可能だろう。そうすると、この絵はよりオランダ的な印象が強まる。作者がこれらの有名な風景画家でなかったとしても、彼らの影響の反映だと見なせるため、本作品を1600‐1630年頃の制作とすることができる。

 いずれにせよ、この大型の風景画は興味深い作品である。なぜならこの絵は、フランドル人がしばしば没頭したジャンルの混淆(こんぎょう)を示すからである。すなわち風俗画(森を通過する旅人への襲撃)と風景画(木々と川のあいだから眺まれる遠方の光)が、この絵では結合されている。このように森は脅威に満ちていたのだと思われる。悪事を企み徘徊する畑荒らしや敗走中の兵隊くずれの者たち、あるいはぼろを着た泥棒がいつも溢れていた。同時にこの情景は逸話的なものを超えている。そこでは、自然がもたらす感情に現実感のある脅威が加味されている。この印象は、絵をつぶさに見るにつれてはっきりしてくる。

 数ある会戦(白山の戦い、ブレダの開城、ロクロワでのスペインとフランスの衝突など)に加えて、掠奪という事象は、「黄金の世紀」のヨーロッパに共通する宿命として、絶え間ない不安感を人々に与えていた。この作品は、あまり重要とは言えない流儀で描かれてはいるが、単なる美しい光景や逸話の面白さに陥ることなく、否定しがたい歴史の厚みを理解させてくれる。」


 グリム童話の森、『ハンナのお花屋さん』の森、森という言葉がわたしのなかでひっかかって書いてみました。絵がないので臨場感ないですね。ガイドブックよりの絵をアップロードするわけにはいかずで失礼しました。

次の居場所へ

2017年10月17日 19時30分23秒 | 日記
 先週末面接に行ったところで、また援助職として働くことになりました。来月半ば失業保険給付の終了にあわせて就労を開始して一年間。その先更新はありません。本当にこれでいいのかどうかわかりませんが、今できることをやっていくしかなく、これがわたしに与えられた役割なら尽力したいという気持ちです。面接できれいごとを一切言えず、きれいごとを言ってできるうような仕事ではないとわかったし、わたしの性分として言えないし、全部正直ベース。それでよかったということですかね。大元の組織体としては今年に入って三か所目、システムの使い方とかやり方とかほんの少しだけわかりかけてきたところなので、わかってきたところで、身内意識もあるところでやった方が気持ちが楽だし、いやすいですね。是非にと言われて行くのだから、ハードでやりたい人がたくさんいるわけではないし、福祉の資格を持っている人しかやれないし、年齢を考えるとたまたまこうしてなんとか運よく仕事がつながってきているだけよかったと思います。その先のことはわかりません。一年後無事に終わることができたら家に帰ろうかな。読むことと書くことをやりたいな。夢絵空事。12月にプリンス・エドワード島を訪れるツアーに参加したい。その前にお正月は宝塚大劇場で花組公演『ポーの一族』。3年前の3月会社に使い捨てにされて以来はじめて旅。ちょっとしたハードル。少しずつ、少しずつ前に進んでいます。こうしてここまで立ち直ってくることができるだけの運とタイミングに、たまたま恵まれ、ここまで立ち直ってくることができただけよかったし、自分ほんとにえらいと思います。苦しみ抜いた先にはきっといいことだってあるさ、って思いたいです。『夜と霧』のなかにありました。収容所の過酷な環境の中でも、「希望を失わなかったものだけが生き残った」と。心の片隅にいつもあることばのひとつです。

 健康診断を受けて、書類が整って、就労開始となるまでもう少し時間があるので、断捨離やぐちゃぐちゃの写真整理をできるだけ進めたい。マンションの斜め向かいの引きこもりのおじさんは、わたしには信じられませんがほんとにずっといるので、相変わらず部屋にいると胃が痛いですが部屋にいないとできないこともたくさんあるのでなんとかやりすごしていきます。もうひとつ書類を送ったところは、さんざん待たされた挙句、相談窓口の人にいつになるか確認の電話を入れてもらったらようやく電話がかかってきて、「お断りさせていただきます」とのこと。たぶん出来レースでしたね。11月1日付採用の求人なのに不自然。他のルートですでに決まっていたか、求めるような人材が応募してきたんでしょう。そういうのに振り回されるのは、ほんとにかんべんしてほしい。最初に電話をいれてもらったときには歓迎ムードだったし求人票では見分けられませんでした。ちょっと悔しいですが大きく傷つかずにすんだのでよしとしましょう。いつ連絡がくるかとずっと気をもんでいたのでつかれました。募集する側が必ずしも正でありません。要注意。気持ちが落ち着いたところで明日はコミュニティハウスに行こうと思います。電車代がかかりますが、心の健康を保つためには必要な時間と場所。二年ぶりに会う子どもちゃんたち、大きくなっただろうなあ。楽しみ、楽しみ・・・。

春のプリンス・エドワード島への旅_3日目

2017年10月16日 19時15分09秒 | プリンスエドワード島への旅
「2010年6月8日(火)

晴、雲の多い晴。12度か13度ぐらい。寒い。ダウンベストが役に立った。
がんばって6時過ぎには起きて、というよりはあまり眠れず目がさめて、モンゴメリさんの住居跡を目指して再びホンテッド・トレイル散策。
雨が小粒だが降っているし、寒い。
足元がさらに濡れてぐちゃぐちゃになりながら、アンが始めてグリーン・ゲイブルズで朝を迎えた6月の描写を味わいたくて、原文と訳のコピーを片手にリンゴの木の辺りをしつこく歩きながら、原文を読み上げてみる。
見上げれば晴れ間が見えてきた。青い空に雲が流れていく。
輝くような緑が陽射しに映えて夢のように美しい。
ライラックや忘れな草も美しく咲いていて、誰もいない静かな朝。

モンゴメリさんの息使いを感じつつ、立ち去り難いが時間もあるので、教会までの道を抜けていく。再びお墓に手を合わせて、またここを必ず訪れると誓う。
この時点でかなり疲労を感じるが、恋人たちの小径を目指すため、またグリーン・ゲイブルズへ。
雨の降る合間で、緑も小川もキラキラと輝いている。アンがいつも笑っているのよと語った小川だ。

歩き疲れて宿に戻り朝食。
9時から10時にかけてゆっくり食べてしまった。
私一人おそくまで残る。
だんだん晴れ間が多くなってはきたようだった。

サンセットに未練を残しつつ、11時集合。シャーロットタウンに戻る。
けっこう疲れを感じ始める。
車、大丈夫かな・・・。大丈夫だった。
シャーロットタウンの街並みもやはり美しい。

ホテルで休んで、16時30分からのお花畑ツアーへ。
大きな雲が流れている。かなり疲れを感じているので、朝2時間もガンガン歩いたのがきていて、でもがんばった。
Tさん、Oさんと御一緒。
残念ながらリンゴの花はもう終わっていて、ルピナスが咲き始めていたので、ルピナスやだいこんの花、ライラック(紫も白もある)、マロニエ、レッドメープル等を楽しむ。

遠い空に雲が流れていて、私たちの乗った車から雲は離れていった。遠くどこまでも広がる穏やかな景色。じゃがいもの芽が咲き始めた赤土の畑。
切りがないぐらいシャッターを押す。
なんとも美しい。

おトイレを借りるため、ブルーウィンズ・ティールームに立ち寄り、ケーキを2個持ち帰り。

お昼はホテルの部屋でカップ麺。夜もさとうのごはんと春雨スープですませる。胃痛が止まらない。
ビクトリアパークに誘われるが、力尽きていた。とにかく早く休むようにしよう。

でもやっぱり寝つけなかった。
2時を過ぎて、体操でやっと寝つく。途中めがさめてしまうとしばらく寝つけないが、やっと5時間近く眠れたようだ。

シャーロットタウン、ベストウエスタンホテル泊。

(キャベンディッシュの)サンセットはあきらめ。
お花畑ツアーの後に行くことも考えたが寒いし、逃げ場がないことを考えるとあきらめざるを得ない。」


 2009年の夏のプリンス・エドワード島への旅で出会った夢のように美しいキャベンディッシュのサンセット。もう一度みたいという願い。この時はかなえられませんでしたが、2012年の秋のプリンス・エドワード島への旅でかなえることができました。


移動中の車窓から。



お花畑ツアーから。







ルピナスが咲き始めていました。








吉村さんのお写真によく登場する光景に似ているかもしれません。




高い青空と高い木々の緑とルピナス。
北の国にいることを実感しました。







キンドレットの室内。可愛い~。








花組『ハンナのお花屋さん』_心の声に耳をすませて

2017年10月15日 20時28分01秒 | 宝塚
「Listen to your voice
 (心の声に耳をすませて)
  作詞:植田景子

 Listen to your voice
 心の声耳すませ
 Listen to my heart
 自分の心 信じるまま
 目を閉じて 聞いて
 木々のざわめき
 目を上げて 見つめて
 優しい木漏れ日
 Believe in the Miracle
 生きてる奇跡を
 Believe in the Life
 信じよう この世界


 聞こえる 森の妖精が囁きかける
 心の扉開き 歩き出せば
 手を広げ 感じて
 吹きわたる風 自分らしく生きたい
 心のまま

 自分の心見失い 
 深い闇に閉ざされても
 霧は晴れる いつか
 信じ歩き出せば
 見つかるさ 幸せが」


 『ハンナのお花屋さん』、歌もやさしかったです。ブログでは音声をお伝えできないのが残念ですが、アルファ波をもつ明日海りおさんの歌声が、疲れた心に沁みました。すごく身近な歌詞に涙がにじみました。二年前の今頃のわたしは、出口の見えないトンネルの中にいるような日々を過ごしていました。社会から孤立し、収入が途絶えたまま、心の中で血を流し続けていました。深い深い森の中に迷い込み、出口を求めてもがきながらさまよい歩く日々でした。どこかに出口があると信じることができませんでした。どっちの方向へ歩いていけばいいのかわからなくって立ちすくみ、泣き続けることしかできなくなりました。信じて祈ることしかできなくなりました。そんな日々から1年と10カ月、のたうち回るような苦しさを伴いましたが、たまたま運とタイミングで出口にたどり着くことができました。気がついたら霧が晴れてきていました。3年前の3月、13年間も働いた会社から使い捨てにされた時にはもやもやでなにも見えず、次はどこに向かって歩き出せばいいのか全く分からなかったのが、最初の一歩はもう出ました。こうして生きているだけで十分だし、闇のトンネルからここまで立ち上がってきた自分、ほんとにえらいよ、って思います。

 急に寒くなった10月半ば、デパートには早くもおせち料理、クリスマスケーキご予約承りますの広告が登場していてびっくり。もうそんな季節になったのですね。また自分だけが取り残されているような日々は正直つらいです。あと何回心身のエネルギーを削がれたら次の居場所、わたしを必要としてくれる場所に出会えるのか、今のところわかりません。連絡待ちで予定を立てることができないまま、気持ちだけ焦りを感じる日々は正直つらいです。ワーキングプアすれすれの非正規雇用しかありませんが、一応就活っていうんでしょうかね。募集する側が、募集する側のやり方が必ずしも正ではないので、気をつけないと一回一回振り回され心身のエネルギー削がれるだけ削がれて自分の足もとがみえなくなります。話す人もいないまま孤独の中でこんなことを続けていたらおかしくなってしまいます。22日はライブビューイングあるし、28日はまた帝劇なので、その前にあと2回はエネルギー削がれがあっても回復できる手段を確保できているので大丈夫ですがその先は全くわかりません。いつまでもこうしているわけにはいかず、居場所がなさそうであれば実家に帰ることを考えなければなりません。一年と10カ月、社会から孤立した日々が大きかったです。生活のために必死に働いてきたんじゃん、それが使い捨て同然のかたちで途絶えたのは大きかったです。ここまで立ち直ってきたんじゃないか。十分すぎるぐらい十分なんだけど生活あるし、もう少し納得できるところまで働いてみたいからまだもう少しね。明日はお医者さん行って、金曜日のことを相談窓口に電話で報告して、あとは待ち。つらいけどね、きっと出会えるよ、次の居場所に。舞台からエネルギーをもらいながら、なんとかね・・・。


 森の中の場面、うしろを薄い幕でへだてて、散歩や読書を楽しむ人々などの様子をさりげなくみせる演出も素敵でした。セットもやさしい色合いで、森の中の空気が伝わってくるような、緑に包まれているような感覚になりました。

 瀬戸かずやさん、ビジネススーツの着こなしが男前すぎましたが、フィナーレで男役さんたちをしたがえて踊る場面も男前すぎました。ハンナを演じた舞空瞳さん、まだ研2、大抜擢ということになるのかな。アベルの邸宅のダンスパーティーで声がでなくなり、森に帰ると生き返る姿が妖精、心が洗われました。ライブビューイングも楽しみ、楽しみ。

赤坂ACTシアターの、『ハンナのお花屋さん』のポスターの隣には、早霧せいなさんの11月公演のポスター。なんだか不思議な感じでした。


2017年『レディ・べス』との再会

2017年10月14日 23時37分57秒 | ミュージカル・舞台・映画
2014年9月26日の記事、ミュージカル『レディ・べス』(3)、お読みくださり、ありがとうございます。

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 2017年10月14日(土)、17時開演夜の部を観劇してきました。Wキャスだったアスカム先生をのぞくと2014年5月19日と同じキャストでした。今振り返ってみると自分の身に起こったことなのに信じられないような、悪夢の中にいるような日々から3年と5カ月が過ぎて再会した『レディ・べス』の舞台。姉メアリ―に謀反の疑いをかけられ処刑されようとしてロンドン塔に幽閉されたところを、メアリーと結婚したスペインのフェリペ皇子によって救われ、メアリーが逝去すると王位につきエリザベス一世となったべスの前半生を、時折涙しながら観劇しました。昨日面接に行ったところは次の居場所ではなさそうな感じが大きいし、何日も人と話していないし、来週の予定がなにも決まっていない状況なのでつらいところがありますが、とにもかくにもずたずたのすりへりからここまで回復してきたわたしで再演の舞台に出会うことができて本当によかったです。がっぽがっぽと儲けるために弱い立場の人間を攻撃することを生業としているような輩と会うことはこれからのわたしの人生にはもうないはずだし、ヘンテコな終わったのだと心の底から実感しました。底は通り過ぎました。いつどこにどんな出会いがあるかわからない、明日のことは誰にもわからない、自分の心の声に耳を傾けながら自分の感性を信じて歩んでいくしかないのだと思いました。不器用人間で誠実に生きていけばいいのだと思いました。花ちゃんべスの歌に励まされ、なんとか昨日面接で削がれた心のエネルギーは回復できたかな。こうして一回一回削がれるような思いをちしないと次の居場所に出会えないの、きついなあと思います。つらいときは観劇で心のエネルギーチャージ。生オケ、生の舞台はいいもんです。史実は血みどろで、治世の間、エリザベス一世はスコットランドの女王メアリー・スチュアートを処刑するのですが、エリザベス一世亡きあと、安泰のあとの反動で暗い時代が訪れるのですがそれはまた別の話として書きたいと思います。

 舞台は初演より変わっているところがいくつもあって導入部分で山口祐一郎さんのアスカム先生による史実の説明が加わったこともありわかりやすくなった半面、削られて物足りなさを感じた場面もあったりでした。なんとなくまだ全体がばらばらな感じでうまくかみあっていないような印象を少し受けました。初日から一週間余り、これからまだまだ進化していくだろうと思います。和音美桜さんのアン・ブーリンがいちだんと儚く美しく、歌声も本当にきれいで圧倒されました。わたしのツボは、涼風真世さん演じるキャット・アシュリーの「べス様、曲者ですか?」がオスカル様にしか聞こえないのと、フェリペ皇子の「クール・ヘッド」「イギリスは涼しい」。フェリペ皇子、べスに迫る場面と「スペインへ帰るぞ」の場面が削られたの残念ですがいちばんおもしろいキャラではないかと。メアリーをきらっている感じが3年前よりもはっきり出ているかな。強気でぐんぐん押していく感じの平方元基さんフェリペ皇子、いいですね。吉野圭吾さん演じるルナール閣下と石川禅さん演じるガーディナー司教の男色的な場面もなくなっていました。ふたりの人間的ないやらしさがにじみ出ている感じがよかったので残念。歌詞も随所で変わっていました。ロビンのちゃらいといえばちゃらかった感じがなくなっていましたがあった方がよかったかな。どうでしょう。花ちゃんべスの戴冠式の場面の高貴さはさすがとしか言いようがありません。揺れ動く少女から治世をあずかる女王として立つ決意をした一人の強い女性へと変わっていくところを丁寧に演じられていて、3年前よりもわかりやすくなった印象でした。いろいろと書きたいことは尽きませんが、また長くなってたので今日はこれぐらいにしておきます。二週間後はWキャストを全部かえてみます。綾ちゃんベスト未来さんメアリーは初見。楽しみ、楽しみ・・・。


帝国劇場入口。





キャストボード。




劇場内の巨大パネルから、平方元基さんのフェリペ皇子アップ。



チケットないので入れませんが、朝夏まなとさんのサヨナラ公演が始まった東京宝塚劇場も気になり帝劇の前に立ち寄りました。


不器用にしか生きられない

2017年10月13日 19時55分31秒 | 祈り
 昨日よりぐんと気温が下がり、朝から雨の寒い一日。外でお昼を食べて面接場所に向かうもまず乗り換えに時間がかかりました。時間一応調べていったんですけどね、ずんずん歩いてようやく乗り換え口にたどり着いたらお手洗いに行きたくなってしまい、快速を乗り過ごしたら今度は各停に乗るのにいったん階段をおりてまた上って隣のホームへ。こりゃ大変だ。最寄駅から面接場所までは3分ぐらいですぐにわかりましたが、事前連絡で別館に来てくださいとのことだったので、お手洗いでカーディガンからジャケットに着替えマスクを外してコートと傘と鞄を抱えながらようやく指定の場所にたどり着いてほっとしたら、少し待たされたあと道路をはさんだ別の建物に案内されました。その間すごく寒かったし雨が降っていましたが傘をさすほどでもなく、慣れない所をぐるぐる回ったので緊張してきてしまいました。会場に入ったら面接官三人が構える机の前に椅子がぽつんとひとつ。それでさらに緊張感がぐっと高まり、言葉足らずに正直ベースのことしか言えませんでした。どこに行っても人間関係問題なく、誰とでもうまくやっていく自信ありますとか、高い志をもっていますとか言えず、どこまでも口足らずの正直ベースのことしか言えませんでした。言えないことの方が多すぎるし不器用でね、ほんとに、自分にも人にも正直にしか生きられないがわたしなんだと再認識した次第。もう少し優等生っぽくマシにやれなかったのかと落ち込みました。これがわたしなんだからしゃあないか。疲れました。

2014年5月20日の記事、「自分を信じて・・・」。その時は書けなかった手帳日記のとおりを書こうと思います。あんまり気分のいいもんじゃないですがよろしかったらお読みください。

http://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/preview?eid=d41bc0c4624adc2292f2dcf8a7e43740&&t=208543955159e08df1b0d2b?0.8726618709646681


「2014年5月19日

○○ンズ・タワーで団体交渉

派遣会社・ユニオン・▲▲会社のM氏、A氏、A弁護士がオブザーバーとして同席。

 A弁護士が目をつりあげて切れていて、怒鳴るような話し方からスタート。わたしがもっと▲▲会社を攻撃するべきだったのに、そういう場だったのにできなかった。細かく話が進んでいくというイメージを勝手にもっていた。最近切れやすくなっているという評判らしい。通常こういうもんではないそうだ。こうやってM氏は弁護士の陰に隠れているんだなあ。私一人にぎりつぶすために何百万というお金が動く。こうやって世の中は回っているんだということに頭がついていかない。気持ちのいい場所が他にあるのかな。必要とされる場所があるのかな。こういう形でひきずりおろされたのは悔しい思いはまだある。でもここまでやれた。
まだ労働委員会もあるので自分の中で仕切り直しだ。
謙虚に生きなければならない。ごうまんになってはいけない。
もっと気持ちのいい場所がきっとある。
ようやき少しずつ動きはじめようとかなという気持ちにちょっとなれた。

切れている弁護士先生の顔をもっとマジマジとみればよかったかなとは思う。

こんな奴に守られてばかげている。
ただみなさんにちゃんとあいさつすらできなかったのは残念。
もう少しがんばったらきっとほんとに納得できると思う。

一度きりの人生。ここで気づくことができてよかった。

ロビンのように自分に生きることはできないが、もう少し気持ちのいい場所で自分を大切に生き直したい。

ただ今回の流れをユニオンとしてどうやって責めていけるのか。
6/25はどうなるんだろう。楽しみながらいこう。

派遣会社が▲▲会社に出てきてもらうのが大変だったようだ。
それにしても弁護士がこんなふうに悪とは。
★★大学出身で、★★の法科大学院の講師もやっているんだそうな。
なんだかなー。

▲▲会社残念。
M氏残念。
こんな弁護士に守られて残念。
いいことないよー、ほんとに。

なにが正義なのか、わけわからない。
ただごうまんではいけない。
人をだましたりしてはいけない。
自分の感性を信じて一生懸命生きていけばいい。
妹の分まで生きるという役割を忘れなければ大丈夫。
私にはまだやりなおせる時間がある。
一度きりの人生。
きっとやれることがある。
やるべきことがある。
こういう形で強制的に排除された悔しさをまだぬぐいきれてはいないが、ここまでがんばってきたのでようやく納得できそうかな。
自分自身を少しずつ次の道へと方向転換。きっと大丈夫、きっと、きっと。

一生懸命やってきた人を強制的に排除するようなことをしていてはいいことないですよ、といいたいです。

朝、帝劇で『レディ・べス』の当日券を購入。
私の前でB席が売り切れた、残念。
9,000円の補助席。(S席のすぐ後ろなのでみやすくてお買い得。)
その後すぐにS街へ移動。
駅構内でおそばといなり、それからお茶してユニオンのSさんと落ち合い、〇〇ンズ・タワーへ。Tさんと合流して団体交渉のテーブルへ。

終わったあとユニオンで打ち合わせ。
その後『レディ・べス』夜の部観劇。
昼間のことを色々と考えながら観ていたら、歌詞がとても身近に感じられ共感できるものが多かった。
フェリペ王子ふたりのチケットホルダーもらい、夜は終わってからお見送りイベント有。
平方さんフェリペ王子とロビンの仲間3人組。育ロビンあいさつもあったし、幸せな時間でした。
こういう時間必要。こわれちゃう。」

 ユニオンに行ってしまったことが正解だったのか、今もわかりません。負け戦とわかっていたユニオンと弁護士との闘いなのだということを理解できていませんでした。そうとは理解できていないまま、その後わたしは一年近くをかけてさらにさらにすり減っていくこととなりました。頭がおかしくなりそうなことの連続でした。どんな経過をたどったのか、もしお時間とご興味があればこちらのブログに詳しく書いていますのでのぞいてください。

http://blog.goo.ne.jp/aozoratomidori

気分悪くなっちゃいそうなので自分で書いておいておすすめはしません、もしご興味があれば・・・。

 この時からおよそ3年半の歳月が過ぎました。次の居場所に、必要とされる場所に出会えるかどうかまだわかりませんが、ずたずたに擦り切れたところからここまで回復してきたわたしで、明日『レディ・べス』を観劇します。エリザで花ちゃんにばかり偏ってしまったことを後悔しているので綾ちゃんべスも観劇予定ですが明日は花ちゃんべス。涙があふれてしまうかもしれません。自信のない顔して俯いてばかりいてもいけないですね。小さなHappiness(by『ハンナのお花屋さん』、大切に感じていきたいです。

 今日も長文、失礼しました。