『この地球で私が生きる場所』-「国境なき医師団」で避難民の袋小路へ(2)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/1d108356e8a07e3d8adabaf3634e26ef
「フランスに本部をもつNGO「国境なき医師団」に手紙を書いた。三人の青年医師の手で設立されたこの団体のことは新聞で知っていた。人はだれでも医療を受ける権利がある。その権利を奪われた人々のために政治や思想、民族、宗教を超えてどこにでも出かけていく。シンプルな理念に引きつけられた。この原点に立ち返ろう。
手紙の返事はすぐに来た。本部での面接を経て、最初の任地、スリランカへ赴いたのは数か月のちのことだった。
医療の人道援助をする「国境なき医師団」の活動は世界各地にひろがって、99年にはノーベル平和賞を受賞した。日本からも貫戸さんにつづいて38人の医療従事者が世界各地に飛んでいる。登録者数は2002年2月末で198人にのぼる。
貫戸さんは現在、「国境なき医師団」東京事務所で働いている。どこでどんな活動をするか、その計画を立てるのがオペレーションディレクターの仕事である。フランス本部の指示を待つだけでなく、アジアにふさわしい活動をしたいと手探りがつづく。8人のスタッフをまとめながら、アジア地域を対象に調査にあたる。ミャンマーへ、タイへ。海外と日本を往来する日々だ。
スレブレニツァ徹底から6年を経て、ようやく、「困難に直面して苦しむ人たちとの出会い、彼らと生きた時間をかけがえのない贈り物だと受け止められるようになった」と話す。
2001年7月までの2年間、国際協力事業団から派遣され、メキシコに住んだ。子宮頸がんの検診システムを充実させることが目的だった。貫戸さんは、そのプログラムを通じて、先住民から最も貧しい女性たちが自分で健康を守る力をつける教育活動を支援した。
陽気な仮面の下に強固な階級意識や打算、差別がのぞく。現地の人たちとの人間関係は、一筋縄ではいかなかった。貧民街に住みながら、一つひとつ困難を乗り越えた。食べるのがやっとで、ただ与えられる診療を受けるだけだった女性たちが、自分の体を知ることで人生についても考えらえるようになった。そんな姿にふれるとき、喜びを感じることができた。
現在は、スタッフとともに国内のホームレスの人たちへの援助にも力を注いでいる。まず生きる。そのための手助けに内外の別はない。東京・隅田川の川べりなどで他の市民団体とともに医療相談会を開いている。大阪・釜ヶ崎に診療所を開けないかと、現場へ足を運ぶ。
近づいたり遠ざかったりしながらも、結局は苦しむ人たちのそばから離れずにきた。その営みの積み重ねこそが、本人も気がつかないうちに痛みを和らげ、活力に変えてきたのではないだろうか。
惨劇から6年あまり、2001年11月の終わり、私は貫戸さんが八か月を過ごしたスレブレニツァを訪れた。町は雪の谷間にひっそりと沈んでいた。やがて行き止まりになる一本道の両側に、へばりつくように家が建つ。町を囲む山々には地雷が無数に埋められている。「町全体がどこにも行けない収容所でした」。貫戸さんの言葉がその地に立つと実感となって迫ってきた。
家々のれんがや石の壁には砲弾の跡が残っている。悲劇はここで、まちがいなく起きた。
民族の存亡をかけた戦いで住民がそっくり入れ替わり、今はセルビア人の町になっている。
貫戸さんが懸命に働いたというスレブレニツァ市民病院は、95年の惨劇以来、使われていない。何者かが設備や医薬品を持ち去ったためだ。
隣接する保健所が病院代わりになっている。所長のスペトザール・マリンコビッチさんが病院内を案内してくれた。病室や廊下の壁土がはがれ落ち、マットレスのなくなったベッドがいくつも放置されていた。
貫戸さんが親しかったイスラム教徒の女性エミラも、町にはいなかった。かつての家の近くに住む人たちにたずねてみたが、近所の人たちの顔ぶれも変わっている。誰も行方を知らなかった。
そのなかで、あるセルビア人夫婦が「別の大きな町にイスラム教徒の知り合いがいあるから」と、何件も電話をかけて聞いてくれた。二つの民族に憎しみだけがあるのではない。それがわかって、うれしかった。
エミラはきっと生きている。だれもが傷を抱え、生き抜いていく。そう思った。」
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/1d108356e8a07e3d8adabaf3634e26ef
「フランスに本部をもつNGO「国境なき医師団」に手紙を書いた。三人の青年医師の手で設立されたこの団体のことは新聞で知っていた。人はだれでも医療を受ける権利がある。その権利を奪われた人々のために政治や思想、民族、宗教を超えてどこにでも出かけていく。シンプルな理念に引きつけられた。この原点に立ち返ろう。
手紙の返事はすぐに来た。本部での面接を経て、最初の任地、スリランカへ赴いたのは数か月のちのことだった。
医療の人道援助をする「国境なき医師団」の活動は世界各地にひろがって、99年にはノーベル平和賞を受賞した。日本からも貫戸さんにつづいて38人の医療従事者が世界各地に飛んでいる。登録者数は2002年2月末で198人にのぼる。
貫戸さんは現在、「国境なき医師団」東京事務所で働いている。どこでどんな活動をするか、その計画を立てるのがオペレーションディレクターの仕事である。フランス本部の指示を待つだけでなく、アジアにふさわしい活動をしたいと手探りがつづく。8人のスタッフをまとめながら、アジア地域を対象に調査にあたる。ミャンマーへ、タイへ。海外と日本を往来する日々だ。
スレブレニツァ徹底から6年を経て、ようやく、「困難に直面して苦しむ人たちとの出会い、彼らと生きた時間をかけがえのない贈り物だと受け止められるようになった」と話す。
2001年7月までの2年間、国際協力事業団から派遣され、メキシコに住んだ。子宮頸がんの検診システムを充実させることが目的だった。貫戸さんは、そのプログラムを通じて、先住民から最も貧しい女性たちが自分で健康を守る力をつける教育活動を支援した。
陽気な仮面の下に強固な階級意識や打算、差別がのぞく。現地の人たちとの人間関係は、一筋縄ではいかなかった。貧民街に住みながら、一つひとつ困難を乗り越えた。食べるのがやっとで、ただ与えられる診療を受けるだけだった女性たちが、自分の体を知ることで人生についても考えらえるようになった。そんな姿にふれるとき、喜びを感じることができた。
現在は、スタッフとともに国内のホームレスの人たちへの援助にも力を注いでいる。まず生きる。そのための手助けに内外の別はない。東京・隅田川の川べりなどで他の市民団体とともに医療相談会を開いている。大阪・釜ヶ崎に診療所を開けないかと、現場へ足を運ぶ。
近づいたり遠ざかったりしながらも、結局は苦しむ人たちのそばから離れずにきた。その営みの積み重ねこそが、本人も気がつかないうちに痛みを和らげ、活力に変えてきたのではないだろうか。
惨劇から6年あまり、2001年11月の終わり、私は貫戸さんが八か月を過ごしたスレブレニツァを訪れた。町は雪の谷間にひっそりと沈んでいた。やがて行き止まりになる一本道の両側に、へばりつくように家が建つ。町を囲む山々には地雷が無数に埋められている。「町全体がどこにも行けない収容所でした」。貫戸さんの言葉がその地に立つと実感となって迫ってきた。
家々のれんがや石の壁には砲弾の跡が残っている。悲劇はここで、まちがいなく起きた。
民族の存亡をかけた戦いで住民がそっくり入れ替わり、今はセルビア人の町になっている。
貫戸さんが懸命に働いたというスレブレニツァ市民病院は、95年の惨劇以来、使われていない。何者かが設備や医薬品を持ち去ったためだ。
隣接する保健所が病院代わりになっている。所長のスペトザール・マリンコビッチさんが病院内を案内してくれた。病室や廊下の壁土がはがれ落ち、マットレスのなくなったベッドがいくつも放置されていた。
貫戸さんが親しかったイスラム教徒の女性エミラも、町にはいなかった。かつての家の近くに住む人たちにたずねてみたが、近所の人たちの顔ぶれも変わっている。誰も行方を知らなかった。
そのなかで、あるセルビア人夫婦が「別の大きな町にイスラム教徒の知り合いがいあるから」と、何件も電話をかけて聞いてくれた。二つの民族に憎しみだけがあるのではない。それがわかって、うれしかった。
エミラはきっと生きている。だれもが傷を抱え、生き抜いていく。そう思った。」