会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

祭りに呼ばれて 

2012-09-16 20:56:29 | Weblog
2012年9月16日(日) 晴れ 34.1度
 
 昨晩思いもかけない電話をもらった。隣町の神明神社のお祭りが明日あるから遊びに来てくださいとのお誘いだった。
今年の3月まで一緒に城西区長会の役員として活動していたI氏がフリーになっている私を思い出してくれた。
  
 いろいろな役職を離れても声をかけてくれる知人がいるのはありがたい。
 せっかくのお誘いなので金一封を持ってでかけた。昭和40年ころまではこの神社は村の鎮守のようなところであり、祭りも秋祭りを兼ねひっそりと行っていた。
神社の東側に大きな道路ができ周辺は団地や住宅街となり大きく発展した。町内は1区~4区まであり戸数は600戸以上ある。この小さな神社の前が公園になっており、住民が集うにはちょうど良い。
 招待席に座り枝豆や茄子づけ、焼き鳥を肴に生ビール飲みながら、ひょっとこ踊りやフラダンス、カラオケなどを鑑賞した。
 招待された区長会の方などと情報交換をしたり、面識のなかった方とお話ができお祭りはいいなーと実感した。



 
 




蒸しパンづくり

2012-09-15 21:29:17 | 料理と酒
2012年9月15日(土) 晴れ 34度
 
 今年の花っこカフェのクラブ活動は「ふるさとおやつづくり活動」。
 この会の主催者とは古くからお付き合いしている。10数年前、社会奉仕の一環として『園芸療法」の研究会を立ち上げられた。お誘いを受けて会員になり、介護施設などを訪問した。入所者と一諸に鉢植えをしたり、お話をしたりした。2年ばかり活動したが、主催者が公職に就かれたため活動を中止。3年前退職されて活動を再開。園芸療法、絵手紙教室などの活動を経て、今年から「そぼくでヘルシー、かんたん、近辺で採れた素材を使って大人になった今でも、ワクワクうれしくなるおやつを作る。その、ここにしかないふるさとの香りと味がなつかしく思える郷土の食文化を伝え広めていく」ということで活動している。
 

第1回「やせうま」、第2回「きなこ飴」、第3回「笹巻」、第4回「五平もちとくるみゆべし」、第5回「やさいまんじゅう」、第6回「さつまいも蒸しパン」。
 いずれの活動も主催者の「花っこ工房」で行っている。男性は3名で少数なので邪魔にならないように気を付けながら、女性陣の中に混ざって楽しくおやつつくりをしている。おやつつくりの後の会食での会話も楽しい。
 9月例会では「さつまいも蒸しパン」づくりでした。作り方は以下の通りです。

 <材料 10個分>
  薄力粉200g、ベーキングパウダー6g、さつまいも1本(100g)、砂糖30g、牛乳約120g、バター少々、塩少々、
 <作り方>
  ①さつまいもを皮付きのまま角切りにし、水に晒しておく。 ②薄力粉とベーキングパウダーを合わせてふるい、砂糖と牛乳、塩少々加えてざっくり混ぜる。 ③生地に①のさつまもを混ぜ、アルミカップに10等分したら、残りのさつまもをのせる。(アルミカップにはバターか油を塗っておく)。④蒸し器にクッキングシートを敷いて、蒸気が上がってきたら③を並べて約10分間蒸す。
 


 

九州 一周 フルムーン 20 帰省

2012-09-12 20:18:56 | 旅行
2012年9月11日(火) 晴れ 33.4度

花っこカフェの活動日。8月は休みだったので久しぶりに会員と会い挨拶を交わす。〝暑かったですね。まだ暑いですね。いつまででしょう。”と会う人ごとに交わす言葉になってしまった。そういっても暦の上では白露が過ぎ、朝晩はいくらか涼しくなった。秋が静かにやってきているのだろう。
花っこカフェは高台にあり、大きな窓から吹き上げてくる風が心地よい。
9月例会は「サツマイモやジャガイモの蒸しパンづくり」。二班に分かれて作業したが、手分けしてやったので短時間でおいしい蒸しパンができた。レシピなどは後日アップします。  



6月3日(月)旅行五日目 曇り、晴れ 九州より我が家へ


高台から長崎湾や市街地を望む眺望はすばらしい。思い出として脳裏に刻み、階段や坂道を下った。途中造船所に働いた人々の宿舎や長崎うんちの資料館や土産物店などをぶらりぶらりと見ながら駐車場へ歩いた。








道は修学旅行の学生たちで溢れていた。さすが観光名所である。
















 長崎の土産といえばカステラ。駐車場の近くに大きな看板を出している店があったので立ち寄った。試食しお茶をいただいた。人情的に買わないで店を出るわけにもいかず2箱購入。本当は伝統の作り方をしている有名な〝福砂屋”のカステラを買い求めたかった。
 









 駐車場に戻ってガイドさんに〝福砂屋”のことを話したら300mくらい離れたコンビニの前に店舗があると教えられた。出発まで10数分あったので急いで〝福砂屋”へ。外観は大きな看板もなく地味なビルに見えたが、蝙蝠のマークがしっかりと店の存在感を示していた。店内はすっきりとしており、店員の応対も洗練されていて好感が持てた。カステラ2箱購入。帰宅して食べ比べてみたら、やはり〝福砂屋”のカステラが一味違う。
 お菓子などは嗜好品なのでそれぞれの好みがあるのでなんともいえないが、長崎でカステラを選ぶなら私は〝福砂屋”を薦めます。
お土産を抱えてそれぞれが集まって来た。予定の時刻になったので最後のバス移動。長崎駅に向かう。
 
4日間世話になった運転手さんとガイドさんともお別れ。駅に向かう間、昨日集めてあった川柳の発表と表彰。はからずも私の作品が最優秀作品として選ばれ、ガイドさんから粗品をいただいた。

 五日間 恋人気分で フルムーン

 長崎駅(10;53発)特急かもめ13号→博多駅(12:52着ー13:04発)山陽・九州新幹線さくら554号→新大阪駅(15:44着ー16:40発)東海道新幹線ひかり476号・グリーン車)→東京駅(19:40着ー20:16発)東北新幹線やまびこ71号・グリーン車)→郡山駅(21:34着ー21:54発)磐越西線→会津若松駅(22:56着)→タクシー自宅着

 ロマン列車で行く九州フルムーンご夫婦の旅5日間は終わりました。
 銀婚旅行で九州一周した時は飛行機で鹿児島に行き、普通列車やタクシー、バスなどを利用し、宮崎、大分、福岡、熊本、長崎、佐賀などを巡った。今回は、列車とバス利用だったがゆったりした日程で年配者には向いていた。少し早めの金婚旅行でしたが足腰丈夫なうちに旅行ができてよかった。「九州 一周 フルムーン」の記事は終わります。 

九州 一周 フルムーン19 グラバー園

2012-09-11 22:31:15 | 旅行
2012年9月10日(月) 晴れ 33.4度

 気の合った友人と白河太平洋カントリークラブへゴルフへ行った。会津若松市より1時間強で着く。標高約980m。高原の涼風が心地よい。客があまりいない。予定より30分早くOUTよりスタート。第一打のティーショトはまあまだがグリーン周りからのアプローチがうまくいかない。

 また、先週池に入れたフォールでは、失敗をしないようにと気をつけて打つのだがまた池に入れてしまった。ゴルフはメンタル面が非常に影響するスポーツと痛感した。それでも一日ゆっくりとコースを回れたことがうれしい。健康の回復を感じる。我々の前後にプレーする組はなく一日貸切状態であった。ゴルフ場の経営は大丈夫?などと心配してしまった。
 プレーを終え会津若松市に戻ると蒸し暑い。寒冷紗で覆っておいた白菜の苗もぐったり。日が陰ってから散水。遊んでばかりいないで畑に植え付けなくてはと反省した。
 

6月3日(月)旅行五日目 曇り、晴れ グラバー園


大浦天主堂の見学を終え、坂道を上って近くのグラバー園に行く。初めにエレベーターで一番高いところにあるグラバー邸へ行き、邸内を見学した。当時の生活の様子がわかる部屋や調度品などの展示室があり優雅な生活を送っていたことがうかがえる。
  

その昔、グラバー園一帯(南山手)は、出島や東山手とともに外国人の居留地だった所で、園内には居留地時代から現存する旧グラバー住宅、旧リンガー住宅、旧オルト住宅のほか、市内に点在していた6棟の洋館を移築し計9棟の洋館があり、ありし日のおもかげを今に伝えています。 また、グラバー園は高台の斜面にあるために長崎湾や市街地を一望することができ、とても眺望の良い場所です。 このグラバー園に残っているオルト邸のオルト氏の妻であったエリザベスは後の回想録に当時の長崎の事をこのように書いています。 「長崎は本当に美しいところで、これ以上美しいところを私は知らない・・・・」 この高台から毎日、美しい景色を眺めていたエリザベスはイギリスに帰った後も、長崎の美しさを一生忘れなかったようです。  

園内にひときわ大きな敷地を持っていたのがグラバー邸です。グラバー邸は文久3年(1863)に建てられた日本で最も古い木造洋風建築物です。 グラバーさんはスコットランドの出身で21歳の時に長崎に来てグラバー商会を設立しました。若干21歳で見ず知らずの未開の地であった日本に単身、乗り込んで来るとは、相当な冒険家であったようです。 グラバーさんは幕末の激動の時代に、志士達を陰でささえ、伊藤博文らの英国への留学も手伝いました。 江戸末期には長州藩は幕府から睨まれており武器を購入することができませんでした。坂本龍馬は自分のつくった日本最初の商社と言われている亀山社中を通して薩摩藩名義で武器を購入し長州藩に横流しする方法を思いつき、最新銃4300丁と旧式銃3000丁をこのグラバー商会から購入したのです。 この銃が第二次長州征伐である四境戦争などで大活躍し長州藩を勝利に導き明治維新を成し遂げる大きな原動力となりました。このグラバー邸は坂本龍馬や伊藤俊輔、井上聞多などが出入りした記念すべき建物なのです。 明治維新の陰の立役者はグラバーさんだったかもしれません?

ハート型の敷石
ハート型の敷石の一つ
園内の石畳の中に2箇所、ハート型の敷石(ハートストーン)が埋め込まれている。これを探し出してハートストーンに触れると恋愛が成就すると言われており、若い男女に人気となっている。2つ見つけると、良いことが起きるといわれている。ただし、広い園内だが、入園の際にもらうパンフレットの地図を見れば、見つけ出すことはあまり難しくない。

九州 一周 フルムーン 18 大浦天守堂

2012-09-10 22:06:37 | 旅行

2012年9月9日(日) 晴れ 33.4度

 〝日曜日”なんと素敵な言葉だったことでしょう。現役で働いた若いころは週休2日制ではない。

 有給休暇は年間20日ではなく勤続年数によって日数が決まっていた。初任者の時は7日だったかな?記憶が薄れて日数は定かではない。勤務年数で有給休暇の日数が違う。1年間で1日増えることだけは鮮明に覚えている。
 あれから何年経ったでしょうか。日曜日が待ちどうしくて仕方がなかった。今は、退職し再就職しないので毎日が日曜日。時間の使い方に戸惑う。幸い好奇心旺盛で、いろいろな講座に参加したり、家庭菜園に精を出したりして過ごしている。

 畑と道路との境の竹垣が朽ちてしまったのでフェンスを新しくした。いつも近所の保育園児や散歩する方が花や作物を見て話しかけてくださる。殺風景の空間にして置くわけにもいかず花苗を買い求め植栽した。植栽したのは日々草やマリーゴールドでした。見どころのある花壇ができてよかった。

6月3日(月)旅行五日目 曇り、晴れ 大浦天守堂


いよいよ旅行最後の日となった。大きな荷物やお土産は昨夜宅急便で送る手配をしたので小さな手荷物を持ってバスに乗った。
出発は少し早めの午前8時。石畳の坂を上って観光名所の大浦天守堂へ。早い時間帯だったので土産物店もあまり開いておらず坂道も混んでいなかった。堂内に入り参拝した後ガイドさんの説明を聞きながら見学。詳しいことは以下の引用の通りです。(長崎市のホームページより)


  大浦天主堂は二つの歴史的出来事と密接に関わっています。

 一つは、言うまでもなく大浦天主堂の正式名称である「日本二十六聖殉教者天主堂」からもわかるように、1597年日本で最初に殉教した日本26聖人たちに捧げられた教会です。そのため、大浦天主堂は殉教の地である西坂に向けて建てられています。
 もう一つは、1865年におきた信徒発見です。大浦天主堂が1864年にたてられ、翌1865年2月から公開が始まった一ヶ月後に浦上の隠れキリシタン達が信仰告白をして名のりを挙げました。プチジャン神父は大喜びでフランス、ローマに報告しています。

1.設計から建造、祝別まで
  パリ外国宣教会フューレ神父は、文久3年(1863)1月22日に来崎し、
2月14日南山手の外国人居留地に隣接した現在地を入手しました。
  次で、8月初旬に来崎した同宣教会プチジャン神父の協力を得て、ジラール、フューレ両神父の設計図をもとに、同年12月熊本県天草出身の棟梁、小山秀と契約をなして、天主堂建立に着手しました。天主堂はプチジャン神父の指導で建てられ、煉瓦造の教会ですが表面は漆喰で白く塗られています。
  元治元年(1864)12月29日に工事は俊工し、翌年慶応元年(1865)2月19日、パリ外国宣教会日本管区長ジラール神父を始め、フランス領事、長崎港内に停泊中のフランス、ロシア、オランダ、イギリス各国の軍艦艦長臨席のもとに荘厳に祝別式を行い、『日本二十六聖殉教者天主堂』と命名して落成祝いを盛大に挙行しました。
  天主堂は、守護の聖人たちの殉教地である西坂の聖地に向けて建てられ、工費に3万フラン以上を要しました。日本では地名をつけて呼ぶ習慣があり、通称『大浦天主堂』と言います。

2.改築及び修復
 禁教令の高札がとられ、信徒が増加したので教会が手狭になり、改築しました。明治12年(1879)、外壁を煉瓦構造にするとともに、間口を左右に1間ずつ拡げ、奥行きも深くして当初の2倍の大きさに拡張し、ゴチック建築様式にしました。
 昭和20年(1945)8月9日、原爆投下によって屋根、正面大門扉、ステンドグラスその他の部分に甚大な被害を受け、昭和27年(1952)6月30日、国庫補助により、5ヶ年の歳月を費やして修復工事を完了しました。
3.国宝の指定
 本聖堂は、我国洋風建築輸入の初頭を飾る代表的なものです。
 昭和8年(1933)1月23日、文部省により国宝に指定され、更に昭和28年(1953)3月31日、文化財保護委員会によって、再指定されました

九州 一周 フルムーン 17 有明フェリー

2012-09-08 20:32:30 | 旅行
2012年9月8日(土)晴れ 33.5度

 朝夕は幾分涼しくなったようだが昼間はまだまだ暑い。剪定をしなかったイチジクの木が四方八方にに枝を伸ばし小さな実をたくさんつけていた。暑さのせいか枯れた葉も多かったが、やっと新し葉をつけて勢いをましてきた。
   イチジクは女性の体によいといって妻は砂糖で煮詰めあちこちにあげている。私もお茶を飲むときに食べるが疲労回復にはよいみたいだ。  実が熟し大きくなってくると鳥や虫や蟻が群がってくる。人間も負けずに収穫する。もうしばらくイチジク争奪戦をすることになるだろう。  


6月2日(土)旅行四日目  晴れ 有明フェリー ホテルへ
 
旅も後半。後一日となった。熊本城見学を終えバスで熊本県長洲港へ。有明フェリーに乗船。船室には入らず甲板後尾で海風に当たりながら有明湾の景色を眺めた。スクリューがつくる波形が帯のように流れていく。約40分で長崎県多比良港へ到着。バスで長崎ホテル清風へ向かう。。夕方6時半過ぎに到着。バス走行約170km。旅行も4日目となると疲れた一日であった。


長洲港(ながすこう)とは、熊本県玉名郡長洲町にある港湾である。港湾管理者は熊本県。地方港湾に指定されている。
有明フェリー(ありあけフェリー)は、有明海自動車航送船組合が運航するフェリーである。 この航路は1993年(平成5年)4月以降、一般国道389号の海上区間を結ぶものとなっている。

多比良港は、江戸時代に現在地よりも南側に開港し、船着き場が整備された。島原藩主の松平氏が参勤交代で対岸に渡る際に利用されることが多く、別名「殿様舟屋」と呼ばれていた。
1887年(明治20年)頃に福岡県大牟田港、佐賀県住ノ江港、熊本県八代港に定期航路が開設した。
昭和20年代には、「長崎・熊本両県の経済、文化の向上」を目的としてフェリー就航を求める機運が地元で高まり、陳情が行われた結果、1958年(昭和33年)に熊本県の長洲港とを結ぶ有明フェリー(有明海自動車航送船組合)が開設され、現在地に新しい多比良港が整備された。



長崎市内を一望できる稲佐山の中腹に建ち、全室夜景側の客室を持つのは「長崎ホテル清風」だけ。稲佐山展望台から 霧がかかって夜景の見れない雨の日でも 中腹のホテルからは かえって雨に洗われた美しい長崎の夜景をご覧いただけます。
長崎の郷土料理、卓袱料理を主にした ホテル自慢のお料理も 長崎港の日の出、夕日、夜景を観ながらの露天風呂や大浴場も 心から「幸せだなあ!!」と感じさせてくれる場面を演出します。


九州 一周 フルムーン 16 熊本城

2012-09-07 23:46:49 | 旅行
2012年9月7日(金) 晴れ 32.4度

 またまた暑い日。昨日の雨で野菜や草花は生き返ったようにいきいきととなった。
 
朝食後、約1時間駐車場の空き地の枯草を集める。夕方  妻は畑の除草、私は硬かった畑を掘り起し土を細かくして苦土石灰をまき、元肥を入れて畝を作った。ポットに植えた白菜の苗が本葉4~5枚になったら植え付けする。ダイコンやホウレンソウの種まきも急がなくてはと気がもめる。

午後3時半前田眼科へ行き診察を受ける。術後は順調に回復し、翼状片の再発は見られない。目薬はしばらく投与し続ける。1ヶ月後診察の予約をして帰宅した。今週は、消化器科、泌尿器科、眼科と医者通い。来週は整形外科、歯科へ。本当に今年はどうなっているのだろう。 それでも早め早めの診察・治療を受けているので大事に至らず、毎日を元気に送ることができてありがたい。無理せず健康に留意して過ごしていかなければならないと思うこの頃です。  

6月2日(土)旅行四日目 晴れ 熊本城

 指宿フェニックスホテルを午前8時に出発。鹿児島中央駅まで単調なバスの旅。ガイドさんは鹿児島の見どころや名産品紹介、クイズなどいろいろと試みてくれた。今回の旅にまつわる川柳等の募集も行った。入選発表は旅行最終日。よく考えて投句。
 
長い時間乗客を退屈させないでマイクを握っていたガイドさんのプロ根性には感心した。鹿児島中央駅(11:00発九州新幹線さくら404号・普通車指定席)→熊本駅(11:59着)→タクシーで熊本・城見櫓へ。ここの2階で昼食。土産物は階下1階。ゆるちゃら日本一を東京の孫に土産として買った。→熊本城・本丸御殿は自由見学。

わずか60分。とりあえず見学60分のコース<頬当御門(ほほあてごもん)~宇土櫓(うとやぐら)~闇り御門(くらがりごもん)〜本丸御殿〜熊本城天守閣前~熊本城天守閣~頬当御門>を見て歩いた。

城内へ入る門の中でもメーンとなっている門が頬当御門(ほほあてごもん)です。本丸中心部を顔に見立てると、この門は頬のあたりになることから顔の前に当てる甲冑(かっちゅう)の部品の名前から名付けられたのではないかといわれています。

宇土櫓
宇土櫓(うとやぐら)は、加藤清正(かとうきよまさ)によって慶長12年(1607年)に完成。本丸を全焼させた西南戦争の火の手を逃れ、建立当時の姿を残す貴重な木造の櫓です。国の重要文化財に指定されています。近年の調査で最初から熊本城内に建てられたことが判明しました。
闇り御門
本丸御殿は2つの石垣を跨ぐように建てられたため、地下通路があります。
御殿への正式な入口であり、 「闇り通路」と呼ばれています。
このような地下通路を持つ御殿建築は全国にもあまり例がありません。


本丸御殿
加藤清正公によって創建され、藩主の居間や対面所(接客の場)などに使われた熊本城の中核をなす建物です。
平成15年の秋から復元工事がはじまり、平成20年春に落成を迎え、一般公開されました。

熊本城天守閣

熊本城の天守閣は、明治10年(1877年)、西南戦争の年に焼失してしまいました。現在の天守閣は、古い写真や絵地図などを基に、昭和35年(1960年)に復元されたものですが、瓦の列や数まで細部にわたって忠実に再現しており、見ごたえがあります。



九州 一周 フルムーン15 九州新幹線

2012-09-06 23:21:19 | 旅行
2012年9月6日(木) くもり・一時雷雨 25.8度

 いつものように起きてラジオ体操をするが、非常に爽やかでまた床に入って寝たくなった。
 ラッシュの散歩の後、妻を茶道教室に送り、会津クリニックへ行き診察を受ける。
  
 会津クリニックは市内の新横町にあったのだが、9月から西若松駅東口近くに移転し開業した。しっかりした看板はまだできていないが、新装なった病院はコチョウランなどの祝いの花で埋まってとても華やかである。私の家からは歩いて5分の近さ。通院するにはありがたい。

 短時間だが雷が鳴り集中的な雨が降った。本当に久しぶりの雨で農家の方々はほっとされたことだろう。  家庭菜園をしている私もほったした。 

6月3日(土)旅行四日目 晴れ 九州新幹線

  
旅行も4日目終わりに近づいてきた。。ホテルを8:40頃バスで出発。鹿児島中央駅へ10:30頃着。11:00発九州を縦断する新幹線さくら404号に乗る。熊本駅11:59着。

2011年3月12日の九州新幹線(鹿児島ルート)全線開業と同時に山陽新幹線と九州新幹線で運行を開始、同時に両新幹線の直通運転を開始した[2]。

「さくら」は大きく分けて、山陽新幹線と九州新幹線の新大阪駅 - 鹿児島中央駅間を直通運転する系統と、博多駅 - 鹿児島中央駅間など九州新幹線内で完結する系統に大別される。山陽新幹線のみで完結する列車は運行されておらず、同線内で完結する速達列車は「ひかり」として運行される。

九州新幹線では速達種別ごとに「みずほ」「さくら」「つばめ」の3本立てとなっており、「さくら」の愛称は『山陽新幹線直通、または九州新幹線区間で完結する速達列車』の位置づけ(東海道・山陽新幹線における「ひかり」と同等)となっている。この3種別の中では「さくら」の運転本数が最も多く、部分開業時から運行していた「つばめ」に代わり、九州新幹線の看板列車として運行されている。

山陽新幹線では「ひかりレールスター」に代わる列車として運行を開始した経緯から、従来の「ひかりレールスター」の停車パターンを踏襲している。運行開始当初は山陽新幹線「さくら」と「ひかりレールスター」で通しの号数が用いられていたが、2012年3月17日のダイヤ改正より分離され、540 - 580号台は「さくら」専用の号数となった。

九州 一周 フルムーン 14 指宿温泉

2012-09-05 19:44:07 | 旅行
2012年9月5日(水)晴れ 33.7度

 朝夕は幾分涼しくなったようだが昼間はまだまだ暑い。
 いつものように豊齢研ITサロン会津の授業日。今月からJTrim画像処理ソフトを使用して学習する。何度か使っているソフトではあるがいろいろなツールがあって奥が深い。
午前中の受講者はJTrimソフトのツール(道具)の理解。午後の受講者は何年も一緒に勉強しているベテラン揃いでポスタライズを使ってみた。ポスタライズとは写真加工技術のひとつで画像の諧調数を数段階に減少させて面白い画像を作ることができる。ポスタライズの数値を変えると好みに合った画像ができる。少し複雑な手順を踏まなくてはならなかったが会員は真剣に取り組んだ。

6月2日(土)旅行三日目 くもり 指宿温泉

西大山駅を早々に引き揚げて指宿温泉に向かった。雨も止み今夜の宿〝指宿フェニクスホテル”へ予定より早めに到着。



通常、砂むし風呂はホテル外の施設で楽しむところであるが、このホテルは館内に砂むし風呂を備えた南国情緒満点のリゾートホテルなので出かけることなくてよかった。昭和63年に指宿に銀婚旅行で訪れたときは、5月のゴールデンウイークなのに台風がやってきて砂むし風呂に入ることができなかった。今回はホテル内にある砂むし風呂入浴券付き旅行なので食事前に体験した。用意された浴衣に着替え砂の上に横たわると係員が砂をかけてくれる。10分もすると全身から汗がじわーと出てきた。あまり長くは入っていられない。砂むし風呂から上がり、普通の大浴場で体を洗いさっぱりした。

指宿温泉(いぶすきおんせん)は、鹿児島県指宿市東部(旧国薩摩国)にある摺ヶ浜温泉(砂蒸しで有名)、弥次ヶ湯温泉、二月田温泉などの温泉群の総称。鹿児島県内有数の観光地であり、2003年(平成15年)において年間285万人の観光客が訪れ、91万人の宿泊客を集めている。農業や養殖などへの温泉利用も盛んであり、温泉の9割が産業利用されていた時期もあった。また、1960年頃から始まったハネムーンブームの中、「東洋のハワイ」と呼ばれた指宿温泉は、そのメッカとして賑わった。

「指宿」の名称は「湯豊宿」に由来すると言われているが別の説もある。江戸時代以前は高温の温泉や噴気口が点在する湿原であり危険な場所とされていたが、麻の加熱処理や炊事用、浴用として古くから利用されていた。江戸時代後期の地誌『三国名勝図会』にも多くの温泉が紹介されている。

明治以前は自然に湧出する泉源を利用するのみであったが、地面を数m掘削することにより容易に温泉が得られることから広範囲にわたって開発が進められた。特に1919年(大正8年)頃から1955年(昭和30年)頃にかけて温泉熱を農業や製塩に利用するために地下から大量の湯がくみ上げられ、古くから使われている泉源の枯渇や温度低下などの問題が多発した。このため新たな温泉源の探索が行われ、1957年(昭和32年)に地下200-300mの新たな温泉地層が発見され利用されるようになった。1964年(昭和39年)以降、温泉の製塩への利用は禁止されているが、農業や魚の養殖への利用は現在も行われている。

高度経済成長以降、大規模なホテルが建設されるなど観光地としての開発が進み、日本国内および海外から多くの観光客が訪れるようになった。1982年(昭和57年)から毎年1月の第2日曜日に指宿温泉マラソン(1984年からいぶすき菜の花マラソン)が開催されるようになり、毎年1万人以上の参加者を集めている。










九州 一周 フルムーン 13 西大山駅

2012-09-04 22:42:01 | 旅行
2012年9月4日(火)くもり 33.1度 

 会津竹田総合病院で胃癌手術後の定期検診の日。3ヶ月1回のCT検査。午前10時予約なので少し早めに病院に行った。中央病棟2Fフロワーで受付を済ませ、1階の放射線科へ。いつもは廊下で順番待ちの患者が多いのに誰もいなくてすぐCT検査ができた。

この分だと早めに帰宅できると思い中央病棟2F待合室に戻る。ここはいろいろな診療科の患者でいっぱい。消化器科で順番を待つがなかなか呼び出しがない。約1時間後、診察室へ入る。担当医からCT検査結果を聞く。胃以外の臓器や胸部、頭部、腰部に癌転移はない。3ヶ月後CT検査、半年後意カメラ検査を続け、5年間異常が見つからなければ完治と考えてよいでしょうと告げられた。ほっとし安心した。今後は健康に気をつけ自己管理をしっかりして生活していきたい。

6月2日(土)旅行三日目 雨 西大山駅

雨が降りやまず車窓からの景色もあまりよくない。乗客も旅行3日目の疲れが出たのか眠っている人も多い。西大山駅に寄らなくてもよいという車内の雰囲気だったが観光コースに入っているので立ち寄った。

「JR日本最南端の駅」
北緯31度11分に位置し、1960年の開業以来長らく日本最南端の駅だった。しかし、2003年の沖縄都市モノレール線(ゆいレール)開業に伴い同線の赤嶺駅(北緯26度11分36秒)にその地位を渡し、日本最南端ではなくなった。但し、普通鉄道(通常の軌条を用いた鉄道)の駅としては従来どおり日本最南端と言える。

現在は標柱に「JR日本最南端の駅」と記されている。

一部の列車はこの駅で数分の停車時間を取り、記念撮影する余裕をもうけるという乗客サービスを行っている。