会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

九州 一周 フルムーン 12 長崎鼻

2012-09-04 22:37:37 | 旅行
2012年9月3日(月)晴れ 31.9度

 午前5時起床。久しぶりのゴルフ。昨夜から準備をしてそわそわしている。何しろ今年はいろいろなことがあってコンペの誘いがあっても断っていた。体調も順調に回復しているのでゴルフができるようになったことがうれしい。
 午前6時に朝食をとり、茶を飲む。午前6時半ラジオ体操をする。身支度を整えて家をでる。
  ゴルフ場は天栄村羽鳥湖高原にある白河リゾート太平洋クラブ。標高980m。お天気もよく強い風も吹かず絶好のゴルフ日和であった。  参加者26名がOUT4組、IN3組に分かれ18コースをまわった。広々としたコースで爽やかな高原の風にあたりながらのプレーは伸び伸びと楽しくできた。表彰式では4位入賞で焼酎720ml1本をもらった。今年3回目のゴルフ。練習もしていないのにボールがよく飛び池ぽちゃ以外はボールをなくすこともなく調子がよかった。  昼食はステーキサービスデー(1840円)無料。プレー代は5,000円かからない。猛暑を忘れ一日楽しくプレーできたことに感謝したい。

 6月2日(土)旅行三日目 小雨 長崎鼻

 知覧平和会館を後にして鹿児島県 長崎鼻へ。雨が少し降っていたので灯台のあるところまでは行かず、遠くの開聞岳を眺めたり、浦島神社などを参拝して散策した。


長崎鼻(ながさきばな)は、鹿児島県南部、薩摩半島の最南端にある岬である。鹿児島県指宿市(旧山川町)に位置する。指宿カルデラの外輪山の一角を成しており、一帯は火山岩にて形成されている。 「鼻」と付く地名は名の如く、岬の基部が末広がりになる三角形状の地形であることが多い。[鼻と名の付く岬は全国の至る地方で見られるが(特に九州で多い)、その中で最も有名な岬である。 長崎鼻からすぐ西方には、海越しに端整な山容で知られる開聞岳がそびえ、妨げる障害物は何もないため、岬から眺める山容は非常に美しい。また、晴天時だと岬の展望台から遠く屋久島の宮之浦岳や硫黄島を遠望する。このように非常に風光明媚な土地であることから古くから観光開発されており、岬の展望台から1~2kmの沿線に土産物屋や飲食店がびっしりと建ち並び、長崎鼻パーキングガーデンという観光施設が設けられている。

また、この長崎鼻一帯にも浦島太郎伝説が伝わっており、竜宮神社が鎮座する。 岬及び周辺の海岸線一帯が霧島錦江湾国立公園の一角を成している。また、近辺に国の特別天然記念物であるソテツ自生地がある

九州 一周 フルムーン 11 知覧特攻平和会館

2012-09-04 21:32:46 | 旅行
2012年9月2日(日)雨 33.2度

 朝からどんよりとした雲があり薄暗い。少し強い風が吹いていた。空模様がおかしいと思っていたら雨が降り出した。長雨かと思ったらしばらくして止んでしまった。それでも土が濡れていて畑を起耕するにはいいかなと支度をして外に出るとまた雨が降ってきた。降ったり止んだりの一日であった。しかし、しばらくぶりのまとまった雨で気温もグーンと下がり凌ぎやすかった。
 野菜も植木も樹木も生き生きとしている。同時に雑草といわれる草も勢いをまして伸びてくる。
 秋冬野菜の畝づくりもしっかりやらなくてはならない。今年の冬は野菜が高騰するかもしれない。しっかりと作付しておこう。

6月2日(土)旅行三日目 雨 知覧特攻平和会館

朝からの雨は小降りになったが止まない・仙厳園からバスで移動。桜島を眺めながら鹿児島湾を巡り、知覧町へ向かう。本来ならこの写真のように桜島がよく見えるはずだった。桜島の噴煙は四六時中上がっていると思っていたら、上がらない時もある。今回も午前中に噴煙が上がったらしい。どんよりとした雨空の中の桜島の景色も嫌なので観光ポスターをお借りしました。


駐車場に着き、5分くらい歩いて知覧平和会館へ。
途中大きな急須ノモニメントがあったので写真を撮りました。この知覧町は茶園面積1200haを超え国内有数の緑茶産地であった。
 
透き通った若緑色とさわやかな香りが特徴で、近年では後述の通り農林水産大臣賞や全国茶品評会日本農業中央会長賞受賞をはじめ各種賞を度々受賞しており、全国的に高い評価を得ている。これらの特徴は、町をあげての茶の生産推進や生産農家の創意工夫に加え、茶の育成に有利な立地を生かして栽培された良質の茶葉による。全体として温暖で日照条件に恵まれ、桜島の火山灰により肥沃な南九州の地の利は茶の栽培に適しており、後岳地区、垂水地区、菊永地区を中心に町内の広範囲にわたって栽培が行われている。町内北部は山間であるため低コスト生産は難しいものの寒暖差を生かした上級茶生産が行われており、一方、中南部地区では大型機械化により効率化された生産が進められている。


会館入り口までに戦闘機や航空少年兵の銅像などが建っていた。ここで全国から集められた少年兵へ特攻作戦による非人間的な特訓が行われていた。自爆することが英雄視されたマインドコントロール。本当にそうなんだろうか。会館内の展示物を見たり、遺書を読むと複雑な心境が伝わってくる。イスラム圏の紛争でマインドコントロールされた若者や女子の自爆が報じられる。悲しい共通点があるような気がした。




特攻作戦に至る経緯
 大東亜戦争(戦後は太平洋戦争ともいう)は、1941年(昭和16年)12月8日、ハワイの オアフ島真珠湾にあるアメリカ海軍基地への奇襲攻撃によって開始されました。 日本の陸・海軍主力は、真珠湾攻撃の後、東南アジアに進攻しました。先に述べたように、当時東南アジアのほとんどの国々が欧米列強の植民地となっており、現地守備隊しか残っていなかったこともあって、奇襲攻撃が成功し瞬く間にオーストラリア北側の線まで進出しました。(略)
当時、日本政府は沖縄を本土の最前線と考えていましたので、その最前線を守るために採られたのが、特攻作戦でした。(略)


航空特攻作戦の概要

 沖縄での陸軍による航空特攻作戦は、米軍主力が沖縄南西にある慶良間(けらま)列島に上陸した1945年(昭和20年)3月26日から始まりました。特攻作戦とは、重さ250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりして沈める、パイロットは必ず" 死ぬ・亡くなる" という『必死』条件の作戦でした。

 特攻作戦には、知覧基地を始め、宮崎県の都城など九州の各地、そして当時日本が統治していた台湾など多くの基地から出撃していますが、知覧基地が本土最南端だったということもあり最も多く、全特攻戦死者1, 036名のうち、439名(中継基地となった徳之島・喜界島を含む)、全員の半数近くが知覧基地から出撃しています。(略)


 会館内で上映されていた〝特攻の母”と呼ばれる島崎トメさんと出撃する少年兵の交流の話には涙が流れた。会館を出ると復元された三角兵舎があった。この兵舎は特攻隊員の宿舎。敵の目を欺くため、松林の中に半地下壕をつくり、屋根には杉の幼木をかぶせ偽装していた。
 各地か集まった隊員は2~3日後には雲のかなた沖縄の空に散華された。この三角兵舎で壮行会が催され、酒を酌み交わしながら隊歌をうたい、薄暗い裸電球の下で遺書を書き、また別れの手紙等をしたためて、出撃して征った。

約60分の見学では十分とはいえなかったが見学してよかった。最近海軍では〝回天”など人間魚雷などの戦法で出撃した兵士の遺書を終戦間際に集めていたとのニュースを聞いたことがある。それはこのような非人道的な作戦を作った当時のトップ達が終戦後の責任追及を逃れるためだったのではないかとも言われている。
 軍部のトップのこのような責任逃れは、現在の政・財界のトップの責任の取り方に通じるものがあるような気がして腹立たしい。
 多くの特攻兵や面会に来た家族・知人などが通ったであろう桜並木を駐車場へ戻った。(続く)
 

 


九州 一周 フルムーン 10 仙厳園

2012-09-01 15:40:41 | 旅行
2012年9月1日(土)晴れ 一時雨 34.6度

 朝から強い風が吹いていた。暑い暑い夏も間もなく終わるだろうか。
 目の手術をしたのでプールは8月いっぱ休んだ。9月になったので会津インターナショナルスイミングスクールへ出かけた。腰痛コースでは午後12時半から午後1時まで2階のプレーイングルームでストレッチなどの運動をした。着替えて1階の幼児用プールへ入る。コーチの指導のもとに水中運動、水中歩行、器具を使った運動など約45分間する。10分くらい自由時間をとって午後2時に終わる。
 無理しないで体を動かしたつもりだが、久しぶりにプールに入ったのでだるい。数分間雨が降ったので野菜や植木の水やりはしないで横になって休んだ。
6月2日(土)旅行三日目 小雨 仙厳園


フルムーンの一行は高齢者が多い。日程もゆっくりと組んである。素敵なパームビーチホテルでの写真撮影を終えバスに乗り込んだ。 

 堀切峠(ほりきりとうげ)
宮崎市南部、青島(あおしま)より鵜戸(うど)山地を越え日南(にちなん)海岸内海港(うちうみこう)に抜ける峠。国道220号に属す。標高61メートルの切り通しで、眼下に紺碧(こんぺき)の太平洋と日南海岸独特の波状岩(鬼の洗濯板(せんたくいた))の光景が開ける。臨海道路に沿うフェニックスの並木は南国情緒をたたえる。眼下の海岸線の隆起海床と奇形波食痕(はしょくこん)は国指定天然記念物である。日南海岸国定公園に属し、道路はさらに海岸に沿い鵜戸神宮に至る。今回は岬の先まで行く鵜戸神宮には立ち寄らなかった。

 仙厳園では見学と昼食で約130分の時間があったが、施設内が広くて足早に見て歩いても雨が降っていて全部は見て歩くことはできなかった。この施設限定の芋焼酎「思邪無(思いよこしまなし)」を土産に720ml12本購入した。「思邪無」とは島津家28代当主、島津斉彬公の座右の銘で、国のため民のためだけを思い藩をまとめるの意味。


仙巌園(せんがんえん)は鹿児島県鹿児島市吉野町字磯にある薩摩藩主島津氏の別邸跡とその庭園。別名磯庭園。敷地面積は約5ha[1]。

1658年(万治元年)に第19代当主であった島津光久によって造園され、その後も歴代当主による改築が重ねられてきた。借景技法を用い、桜島を築山に、鹿児島湾を池に見立てた素晴らしい景色と広大な庭園が特徴で、1958年(昭和33年)に国の名勝に指定された。


幕末には第28代当主島津斉彬がこの敷地の一部を使ってヨーロッパ式製鉄所やガラス工場を建設するなどの近代化事業(集成館事業)を起こした。1857年(安政4年)には、園内の石灯籠にガス管をつないで点火させ灯火として用いたことから、日本のガス灯発祥におけるルーツの一つとして挙げられる場所にもなっている。

1888年(明治21年)からは焼失した鹿児島城に代わり島津忠義公爵一家の住まいとなっていたが、忠義の死後に跡を継いだ島津忠重は薩摩藩出身の新政府高官らによって東京市に移住させられ、仙巌園も住人不在となった。1949年(昭和24年)、華族制度廃止に伴い鹿児島市の管理下に置かれたが、1957年(昭和32年)には島津家に返還され、現在は島津興業が管理している[3]。

春の曲水の宴や江戸時代の作法に則って行われる端午の節句、七夕の展示、初冬に行われる草鹿式などが有名。