あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

ポルトガル紀行78 コインブラ8 ジョアン3世像

2019-06-15 | ポルトガル紀行

  

 

 中庭に建つ ジョアン3世像


 大学が三度コインブラに戻されたときの
 王ジョアン3世(1502-1557)は
 1537年 コインブラ大学を創設する。

 
 ジョアン3世は 前世紀に
 イタリアで 生まれた
新しい理念を
 導入することを試みた。


 
 ポルトガル人が留学するための
 奨学金を創設し

 ポルトガルの人文主義者で
 当時パリにいた博識の
 アンドレ・デ・ゴウヴェイアを

 コインブラ大学の
 コレジオ・ダス・アルテス(1542-1837) を

 学寮長に任命した。

 
 そして ゴウヴェイアは、神学者 数学者 

 法学学者 古典学者など
 多くの教授たちを招ヘイしている。

 

 

                       
 広い中庭の中心に ジョアン3世の像が立つ。

 

 

 


ポルトガル紀行77 コインブラ7 ラテン回廊

2019-06-14 | ポルトガル紀行

 

 

 鉄の門を潜って中庭右手

 時計塔に並ぶ建物のラテン回廊。

 

 

 
 20世紀までラテン語で
 講義が行われていたので、

 ラテン語を話すことが
 義務づけられていたことから

 その名がついたそうだ。

 

 

                        

 

   回廊の壁にあった世界遺産の表示

 

 ここに 総長の就任式や学位授与式といった
 大学の式典などに使用されてきた
 かつての宮廷の広間
 「帽子の間」があるが入れなかった。

 

 


ポルトガル紀行76 コインブラ6 時計塔

2019-06-13 | ポルトガル紀行

    

        時計塔


 鉄の門から中庭へ 目の前に
 コインブラ大学のシンボル的存在でもある
 1733年に建てられた時計塔が聳える。

 中庭を見下ろすように 
 また街中からもその存在を示すように

 今でも現役で時を刻み続け 
 講義の始まりを告げる鐘を鳴らしている。


 学生たちは塔のことを
 カブラ(牝山羊)の愛称で呼んでいる。


 その由来は 講義開始時を告げる鐘が鳴って

 その音色が Cabra(雌山羊)の
 鳴き声に似ていることからという。


 また 山羊を追う鐘と同じように
 学生達を教室に追い込むからとも。

 

 

         街と大学のシンボル 時計塔

 


ポルトガル紀行75 コインブラ5 鉄の門

2019-06-12 | ポルトガル紀行

    

 

 旧大学の見学へは この「鉄の門」を潜る。

  門の上には ディニス1世の像が
 最上部には学問の神 アテナの像が立つ。

 

            中庭側からの「鉄の門」



 「鉄の門」別に「無常の門」ともいわれる。


  “学生たるもの門を入ったら
   学問以外のことを考えてはならない”


 との教えから
 そのように呼ばれるようになったのだとか。

 

  

 鉄の門前に 大理石を用いたモザイク画があるが
 このモザイクは「カルサーダ・ポルトゲーザ」という
 石畳でポルトガルの街中でよく見かけるもの。


 しかし このモザイク画は 
 学問の女神アテナの像が描かれているが

 この女神を踏みしめていくのは
   恐れ多い! 

 それこそ“無情”というもの・・・。

 

 

 

 


ポルトガル紀行74 コインブラ4 コインブラ大学1

2019-06-11 | ポルトガル紀行

 

  

 初期のアルカソバの丘
 手前中腹に旧カテドラル 奥には水道橋がある。

 

 コインブラ大学では、新しい校舎と
 古い校舎の2つに分かれていて

 16~17世紀建てられた「旧大学」が
 見学コースになっている。

 

 ポルトガルで最古のこのコインブラ大学は
 ヨーロッパでも4番目に古く
 リスボン大学(1911年)よりも古い。

 大学の前身は ディニス王が
 1290年にリスボンに創立した大学で

 何度か移転した後の
 1537年
ジョアン3世が
 コインブラの宮殿内に大学を設置した。

 

 1255年までポルトガル王国の
 首都であった古都コインブラは

 レコンキスタを推進し
 ポルトガル王国の独立を達成した

 初代国王アフォンソ・エンリケシュが
 住んでいた王宮が

 現在の大学になっている。

 

 

           総合図書館(右手前)  医学部(左手)


 中央奥に1290年にコインブラ大学を
 設立したディニス1世像の後ろ姿が見える。

 

 


ポルトガル紀行73 コインブラ3 エレベーター

2019-06-10 | ポルトガル紀行

   

 

 5月8日広場から 
 オリンピオ・ニコラウ・ルイ・フェルナンデス通りを進む

 ポルトガルのどこの街へ行っても 長い通り名が結構多い。

 地元の人はどのように読んでいるのかな?

 

 途中にL形のエレベーターがあった。
 調べたら このエレベーターなかなか変わっている。

 垂直なエレベーターで上にあがり
 それから斜面移動のエレベーター?に乗り換える。

 また 運転手?がおり 操作してくれるそうだ。

 当然有料です。

 上がった上は 新カテドラルの裏
 コインブラ大学が位置する丘になる。

 

                          

 

 道筋に 市民の台所
 市営市場「MERCAD MUNICIPAL」がある。

    .

 

 

 サンタ・クルス修道院の
 真裏に変わったものがあった。

 バスからよく撮れなかったのでGoogleで見てみた。

 この構造物「Manga Cloister」というようだが
 訳すると“マンゴーの回廊”となるが

 塔の形がマンゴーに似ていることから
 付けられているのだろうか?

 その奥に レストラン
 「Restaurante Jardim da Manga」がある。

 


ポルトガル紀行72 コインブラ2 5月8日広場

2019-06-09 | ポルトガル紀行

 

 

 

 ツアーバスは市街地に入り 
 コインブラで最も賑やかな場所のひとつである

 「5月8日広場」の脇を進む。

 左手前に市役所
 その奥サンタ・クルス修道院があった。

 

 コインブラは 現在人口約10万人 
 丘の上の大学を中心に広がる学都で文化の街で
 リスボン・ポルトに次ぐ重要都市とされている。

 

 コインブラの歴史は 
 1143年のポルトガル建国時に
 この土地に首都が置かれ

 1255年までブルゴーニュ王朝の
 中心地として栄えた。


 リスボンへの遷都後は
 1290年に創設され ヨーロッパ最古の歴史を持つ

 コインブラ大学を中心に学生の
 街として知られ発展している。

 そして 大学の歴史を刻んできた様々な建物は
 ポルトガル海上帝国時代に植民地の大学群に
 与えた影響の大きさなども評価されて
 2013年「コインブラ大学-アルタと
  ソフィア」として世界遺産に登録された。

 

 「サンタ・クルス修道院」は 
 1131年にアフォンソ・エンリケスによって
 コインブラの城壁外に建てられ

 ポルトガル王国初期における重要な修道院であった。
 
 16世紀、マヌエル1世によって改築され
 現在の姿になった。

 18世紀のアズレージョに覆われた内部の
 壁面やマヌエル様式の傑作と言われる
 「静寂の回廊」がある。

 また 法衣などを展示したミニ博物館や
 地下墳墓なども見学できるそうだ。

 


ポルトガル紀行71 コインブラ1

2019-06-08 | ポルトガル紀行

 

 

 サンタ・クラーラ橋 欄干には 国 コインブラ EUの旗が翻る。

 

 ツアー4日目 最初の観光は


 リスボン ポルトに次ぐ第3の都市コインブラへ。

 ポルトガルの中央 首都リスボンの
 北195km ポルトから南120kmにあって

 主要道路が交わり交通の重要地点にもなっている。

 

   

 サンタ・クラーラ橋からモンデゴ川下流 

 正面にアスーデ橋 右岸にコインブラ駅
 
左岸の丘にショッピングセンターが見える。

 

                   

   

 

 東西に流れるモンデゴ川の北岸に
 位置するコインブラに向かうには 

 街の北西(下流側)にある国道N1のアスーデ橋
 旧市街の袂に架かるサンタ・クラーラ橋
 または 街の南東(上流側)の
 斜張橋であるライハ・サンタ橋を渡ることになるが

 我々はサンタ・クラーラ橋を渡る。

 また モンテコ川は全長234km 
 ポルトガルのみを流れる河川の中で最も長く
 国内でも5番目の長さになる。

 

 

  

 上流には歩行者専用の「ペドロ・イネス橋」(手前)と

 奥に斜張橋・ライハ・サンタ橋が見える
             (コインブラ大学から)

 

 

 


ポルトガル紀行70 ポルト32 リベイラ広場

2019-06-07 | ポルトガル紀行

 

 

   ドン・ルイス1世橋 上から
     レストランが並ぶ「カイス・ダ・リベイラ」を見る 

                  

   当方は “リベイラ”と聞いて直ぐに思い浮かぶのは
  歌謡曲「冬のリベイラ」だが

  リベイラ広場は "川の広場" という意味。

    

 

    カイス・ダ・リベイラの中心「リベイラ広場」

  中世にはポルトの商業拠点として栄え
  パン、肉、魚を扱う業者がこのエリアに集中していた。
  
  しかし 1491年の大火災で多くの建物が焼失したが 

  その後再建され バーや店も
  伝統的な外観を維持するように建てられた。

 
  ポルトガル3大祭りのひとつで 
  「サン ジョアン祭」が

  この広場中心に毎年6月23日開催される。

  

  サンジョアン祭りは 600年以上の伝統があり
  19世紀にポルトガルの重要な祭典として定着した。


  起源はカトリックの聖人サンジョアン
  (別称:聖ヨハネ)を祝福するとともに
  夏至にまつわる異教の儀式を再建するものだったそうだ。


  近年では宗教的な意味合いは薄れ
  欧州でも最大規模の
  ストリートフェスティバルとして知られている。

  ポルトの街全体を大きな会場に見立て
  音楽・美食・花火などで楽しませてくれる。


  また この祭りでは
  おもちゃの柔らかいプラスチックのハンマーで
  道行く人の頭をたたく
  という変わった習慣があるそうだ。 

  かつて 豊沃と運の象徴であるガーリックの花で
  頭を撫でて祝福していたことに由来するという。

 

 

  
  広場からドン・ルイス1世橋を見る 

  

  

 

   広場にサイコロのモニメントがあることから
    「サイコロの広場」とも呼ばれている。

 

   

     
         広場の一角 建物の壁に

   ポルトガルの紋章(中央上)
   サン・ジョアン像(下)が飾られていた。

   

 

 


ポルトガル紀行69 ポルト31 

2019-06-06 | ポルトガル紀行

 

  

  1月31日通りから登った先には
  街のランドマーク的存在の
  クレリゴス教会が見える。

                      


  バターリャ広場から
  サントゥ・イルディフォンス教会をみて

  サン・ベント駅脇まで約300mの通りを
  「Rua 31 de Janeiro」
     (1月31日通り)と呼ぶ。


  その名は この道を舞台にした
  1891年1月31日の共和主義者たちに
  よる反乱に由来する。

  
  反乱は鎮圧されたが
  1910年に共和国が樹立されると
  この通りは反乱を記念して
  1月31日通りと名づけられる。


  旧称は聖人に由来する
  サントゥ・アントニウ通り。


  サラザール時代の1940年に旧称に戻されたが

  1974年の4月25日革命の後
  再び1月31日通りと名づけられ
  現在に至る。

  サンタ・カタリナ通りなどの
  繁華街ほどではないが

  多くの商店が軒を連ねる
  ショッピングストリートである。

  
  いまだに古い店舗がいくつか
  点在するのが特徴だ。

  歩道に鉄路が見えるが
  これはトラム22番線のレール。

  
  ポルトの市電の多くは廃止されたが
  一部地域で観光客向けに再開された。

  

 

  こちらはサンタ・カタリナ通り


  サンタ・カタリナ通りには 
  ヴィア・カタリーナやフナックといった
  ショッピングセンターをはじめ

  ブティック 靴店などが並び 
  買い物が楽しいメインストリートになっている。

 

 


ポルトガル紀行68 ポルト30 サン・ジョアン国立劇場

2019-06-05 | ポルトガル紀行

 

 

  バターリャ広場にある
  「サン・ジョアン国立劇場」は

  1794年にイタリアの
  建築家ビセンテ指揮のもと

  オペラハウスとして計画され
  1796年から建設が始まり
  1798年に完成した。


  劇場の名前である
  サン・ジョアン(聖ヨハネ)とは

  ポルトガル王ジョアン6世の戴冠に
  敬意を表して命名されている。

  1908年 サン・ジョアン国立劇場は
  火災により焼失してしまったが

  1911年 ポルトの建築家
  ホセ・マルケス・ダ・シルバの指揮のもと

  再建プロジェクトが開始され
  1918年に完成した。


  その新しい劇場は、
  ポルトで初めて塗装をしない
  コンクリートむきだしの

  外壁を採用した斬新なものであったことで
  ポルト市に建築の新風を吹き込んだ。

  また 劇場のこけら落としの曲は
  「ヴェルディのアイーダ」であった。

  その後、映画館にもなったが
  現在は 国立劇場となっている。

 

 

 


ポルトガル紀行59 ポルト29 サント・イルデフォンソ聖堂

2019-06-04 | ポルトガル紀行

 

 

 

  バタリーア広場 トラム22番線を
   左に進むとサン・ベント駅へ

  そのレール脇 高台に建つ
  「サント・イルデフォンソ聖堂」

 

  サント・イルデフォンソ聖堂は
  1739年に完成した初期バロック様式の聖堂。

  元々は、別の礼拝堂があったが、
  老朽化により解体 
その後
  新しい聖堂として生まれ変わった。


  教会の名「イルデフォンソ」は
  スペイン・トレドの大司教
   聖イルデフォンソの名に

  因み命名された。

                       

  聖堂 ファサードのアズレージョは
  サン・ベント駅のアズレージョも手掛けた
  ジョルジェ・コラコの作品で
  1万枚以上のタイルを使用している。

  このように外壁を彩られた教会が見られるのは
  世界的に見ても非常に珍しいとのこと。

 

 

 


 


ポルトガル紀行58 ポルト28 バターリヤ広場

2019-06-03 | ポルトガル紀行

 

                 赤丸が ペドロ5世像

 

 

  サント・イルデフォンソ教会を起点として
  広がる変形L形の広場になっている
  「バターリャ広場」

  ホテル 劇場などが面してある。

  この「バターリャ」の名は
  リスボンから車で2時間のところに
  ある都市名にもあるが

  その土地名はポルトガル語で
  「戦い」を意味する。

 

   

                 

   バターリヤ広場に凛然と建つ記念碑は
  1866年に建立した ペドロ5世(1837-1861)像で
  フェルナンド2世の長男で

  1853年 16歳で母王マリア2世の
  死去を受けて王位に即いた。


  在位中 父フェルナンド2世の後見のもと
  熱心にポルトガルのインフラの近代化に取り組み
  道路・電信・鉄道の整備や公衆衛生の改善に努めた。

  しかし、ペドロ5世自身はコレラに罹り

  1861年に24歳で死去した。

  別名「希望王」とも呼ばれている。

 
  この像はポルトガル人彫刻家
  アントニオ・テイシェイラ・ロペスの作品。

 

 


ポルトガル紀行57 ポルト27  ポルトガルサッカー

2019-06-02 | ポルトガル紀行

 

 

  街中に サッカーグッズショップがあった。

  ポルトガルもサッカー熱はすごい。

 

  ポルトガルが生んだ偉大なサッカー選手

  クリスティアーノ・ロナウド
  (1985-)がおりますね!

   出身地・マデイラ島の空港の名にもなっている。

 

     

        スタジアムの壁にドランゴンマークが見える。

  

  こちらは ポルトにあるサッカースタジアム
 「エスタディオ・ド・ドラゴン」。

 

  かつてのFCポルトの本拠地だった
  収容人数 52,000人

 

 

    

   

 

   

  
   サン・ベント駅にも
         「FC PORTO」のグッツ売場があった。

 

 


ポルトガル紀行56 ポルト26  フリーマーケット

2019-06-01 | ポルトガル紀行

 

 

レロ書店から坂を下った

クレリゴス教会と道1本脇

カンディド・ドス・レイス通り 

ビジネス界隈で 今日は日曜日ということで


フリーマーケットが開かれていた。

 

よい土産物と ちょいと覗いてみた。

出品されている品物は 

他と違い ここは食料品等はなく

ほとんどが手造りで 

同じ品物が並ぶ店はなかった。


これらは このマーケットの

申し合わせができているのか

統制が取れているようだ。