というわけで「子供の情景」の譜読みを始めました。本番は8月ですからずいぶん先ですが、とりあえず5月5日の「子供の情景」イベントまでにひととおり弾いておきたいという計画です。
←曲調いろいろでおもしろい
そのほうが聞いたことも理解しやすいと思うので…
まぁ私がみんなの前で弾くのは5番だけで、あとは自分のためにどんな感じか弾いてみたいってだけなので楽勝よね。
…… (弾いてみている) ……
前言撤回、楽勝ではアリマセン(-_-;;
どれもこれも見た目より難しい。ひっからまってるというか…まぁシューマンだから…(ユーゲントアルバムも、見た目よりずっと難しかったのでした)
けど弾いてて楽しい曲だよね(^^) それこそ「情景」がありありと思い浮かぶというか。このところ「歌詞のある曲」「詩のある曲」とかあったけど、これの場合は「標題のある曲」。「見知らぬ国と人々」でワンダーランドに入っていって、「珍しいお話」に心躍らせる…
私が担当する5番「みちたりた幸福」は、みちたりた、ゆったりというよりはもっと動きがあってイキイキした感じなので標題とちょっと違うような?? でもこれは翻訳のせいかもしれないしなんともいえない。
いずれにせよ、標題がついていることで、想像のとっかかりができて、楽しみが増えると思うんですよね。
ただ、当時は標題がついていることで(?)批判があったようで
「ほんとうのところ、この作曲家がまじめなのか冗談なのかわれわれには測りかねるのだ。まじめな面については、たとえばこの小品集の、勤勉さ、清廉な正確さ、多くの手際のよさ、ここちよい響き、機転、美的な局面などが物語っている。しかし一方で、構想全体の無意味さ、楽曲が標題付きで存在する矛盾などが不真面目な面を語っている」(1839年、レルシュターブによる批評)
標題付きだとどう矛盾してどう不真面目なのか、この先を読んでもやっぱりよくわからないんだけど、標題が付いてるなんてずいぶん子供っぽいのにこの曲が子供っぽい子供に弾けるほど簡単じゃないということなのだろうか?? 標題がつけられた音楽というのは「ほんものの」音楽よりレベルが下で、音楽だけで語れない半端な曲だとか、あるいは標題で理解の助けをしてやらねばならない子供を相手にしているという意味だろうか。
(もっとも、「子供の情景」について「構想全体の無意味さ」なんていってるくらいだから、この批評家が単なるウマシカであるという可能性も大いに考えられる)
シューマン自身がこの批評について書いた手紙には
「たぶんかれは考えたのでしょう、ぼくがあそこにわめきちらす子供を設定し、そのあとでそれにしたがって音を探したと。これは逆なのです。作曲するとき何人か子供の顔が浮かんできたことは否定しませんが。しかし標題はもちろん後から生まれたのですし、そもそもそれらは演奏と理解のためのちょっとした指標以上のものではないのです」
とある。
まさに「演奏と理解のためのちょっとした指標」として、子供の情景の標題は生きていると思うし、評論家のいうことなんてほっておけばいいよね。
まぁ、シューマンのもとにはクララから熱烈なベタ褒め手紙が届いたようなので、プラマイ大きくプラスだったことでしょう。
クララの手紙:
「あぁ、なんて言葉にならないくらい素敵なのでしょう、あなたのこどもの情景は。あなたにキスできればいいのに!
昨日も思い、そしてますますそう思えるのです。あそこで話している詩人はわたしのあの方に違いないと。でもあの幸福は大きすぎはしないでしょうか? ああわたしにはわからない! 弾くたびにますます魅了されてゆきます。あなたの音たちの中にどれほど多くのことが横たわっていても、わたしにはあなたのお考えがすっかりわかります。そしてあなたとあなたの音の中に入ってゆきたい。これらの情景のひとつひとつにあなたの内面がすっかり現れています」
以下、それぞれの曲の標題と、その曲を弾いてみて浮かぶ情景について熱をこめてほとばしるように書かれている。あんまりアツアツで、読んでてこそばゆくなるくらい(^^;;
クララ19歳、ふたりの婚約時代のことでした。出版時、子供の情景は特に献呈の記述がないけれど、実質的にはクララに捧げられたもののようです。「ときどきまるでこどものようにみえる」大人になりかかったクララ。一方、ユーゲントアルバムはリアル子供ができてからの作曲なので、そりゃ雰囲気違うはずです。
(以上、引用は「シューマン 子供の情景(ウイーン原典版、音楽之友社)」より)
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そのほうが聞いたことも理解しやすいと思うので…
まぁ私がみんなの前で弾くのは5番だけで、あとは自分のためにどんな感じか弾いてみたいってだけなので楽勝よね。
…… (弾いてみている) ……
前言撤回、楽勝ではアリマセン(-_-;;
どれもこれも見た目より難しい。ひっからまってるというか…まぁシューマンだから…(ユーゲントアルバムも、見た目よりずっと難しかったのでした)
けど弾いてて楽しい曲だよね(^^) それこそ「情景」がありありと思い浮かぶというか。このところ「歌詞のある曲」「詩のある曲」とかあったけど、これの場合は「標題のある曲」。「見知らぬ国と人々」でワンダーランドに入っていって、「珍しいお話」に心躍らせる…
私が担当する5番「みちたりた幸福」は、みちたりた、ゆったりというよりはもっと動きがあってイキイキした感じなので標題とちょっと違うような?? でもこれは翻訳のせいかもしれないしなんともいえない。
いずれにせよ、標題がついていることで、想像のとっかかりができて、楽しみが増えると思うんですよね。
ただ、当時は標題がついていることで(?)批判があったようで
「ほんとうのところ、この作曲家がまじめなのか冗談なのかわれわれには測りかねるのだ。まじめな面については、たとえばこの小品集の、勤勉さ、清廉な正確さ、多くの手際のよさ、ここちよい響き、機転、美的な局面などが物語っている。しかし一方で、構想全体の無意味さ、楽曲が標題付きで存在する矛盾などが不真面目な面を語っている」(1839年、レルシュターブによる批評)
標題付きだとどう矛盾してどう不真面目なのか、この先を読んでもやっぱりよくわからないんだけど、標題が付いてるなんてずいぶん子供っぽいのにこの曲が子供っぽい子供に弾けるほど簡単じゃないということなのだろうか?? 標題がつけられた音楽というのは「ほんものの」音楽よりレベルが下で、音楽だけで語れない半端な曲だとか、あるいは標題で理解の助けをしてやらねばならない子供を相手にしているという意味だろうか。
(もっとも、「子供の情景」について「構想全体の無意味さ」なんていってるくらいだから、この批評家が単なるウマシカであるという可能性も大いに考えられる)
シューマン自身がこの批評について書いた手紙には
「たぶんかれは考えたのでしょう、ぼくがあそこにわめきちらす子供を設定し、そのあとでそれにしたがって音を探したと。これは逆なのです。作曲するとき何人か子供の顔が浮かんできたことは否定しませんが。しかし標題はもちろん後から生まれたのですし、そもそもそれらは演奏と理解のためのちょっとした指標以上のものではないのです」
とある。
まさに「演奏と理解のためのちょっとした指標」として、子供の情景の標題は生きていると思うし、評論家のいうことなんてほっておけばいいよね。
まぁ、シューマンのもとにはクララから熱烈なベタ褒め手紙が届いたようなので、プラマイ大きくプラスだったことでしょう。
クララの手紙:
「あぁ、なんて言葉にならないくらい素敵なのでしょう、あなたのこどもの情景は。あなたにキスできればいいのに!
昨日も思い、そしてますますそう思えるのです。あそこで話している詩人はわたしのあの方に違いないと。でもあの幸福は大きすぎはしないでしょうか? ああわたしにはわからない! 弾くたびにますます魅了されてゆきます。あなたの音たちの中にどれほど多くのことが横たわっていても、わたしにはあなたのお考えがすっかりわかります。そしてあなたとあなたの音の中に入ってゆきたい。これらの情景のひとつひとつにあなたの内面がすっかり現れています」
以下、それぞれの曲の標題と、その曲を弾いてみて浮かぶ情景について熱をこめてほとばしるように書かれている。あんまりアツアツで、読んでてこそばゆくなるくらい(^^;;
クララ19歳、ふたりの婚約時代のことでした。出版時、子供の情景は特に献呈の記述がないけれど、実質的にはクララに捧げられたもののようです。「ときどきまるでこどものようにみえる」大人になりかかったクララ。一方、ユーゲントアルバムはリアル子供ができてからの作曲なので、そりゃ雰囲気違うはずです。
(以上、引用は「シューマン 子供の情景(ウイーン原典版、音楽之友社)」より)
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