ふみさんの日々雑感

生活の事、家族の事、大好きなサッカーの事・・・日々いろいろ

被災地の半鐘

2011-04-06 21:03:24 | Weblog
最後の最後まで避難を呼びかける放送をして津波に流された女性の話に涙した。

そして、同じように、地震で防災サイレンが壊れた為に、半鐘を鳴らし続けて津波に消えてしまった男性の話にも涙した。

そして、半鐘という言葉に、子供の頃の事を思い出した。

子供の頃は、まだ、市ではなく村だった。三方を山に囲まれ田んぼが広がった村。

何かあれば半鐘がならされた。ほとんど、ならされる時は火事だった。その音を聞いて、父は、「遠くだな」 とか 「近場だな」 と言いながら出て行った。

真冬のそろそろ寝る時間かなと思う頃、突然に半鐘がならされた事があった。その鳴らし方で父は慌てて玄関に走って行った。私も玄関について行った。

そして、目の前の(田舎だから距離はあるが)木々の向こうに火柱が上がっていた。

父は走って行き、まだ元気だった祖母と母は直ぐにご飯を炊き、沢山おにぎりを作った。

村の真ん中を、鵜川という川が流れている。いつも子供達が遊ぶ優しい川だった。魚やカニを取ったり、夏には泳いだり。

でも、梅雨の時には、その川は恐ろしい暴れ川になった。そして、梅雨の時には、毎年、川は氾濫した。氾濫する場所はいつも決まっていた。小学校の近くのカーブした所の道や田んぼ、毎年、冠水した。

あれはいつだっただろうか、そうとうに激しい豪雨の時があった。

その頃には、防災サイレンがあり、夜中中、恐ろしく鳴り響いていた。

川は何倍もの幅の濁流の大河になっていた。そして、東西の村を繋ぐ大事な橋が落ちてしまった。

村の役場の広場に自衛隊がキャンプを張った。何日も駐留した。私達子供は、物珍しく、よく見に行った。

大人達は、「何とか早く橋をかなければ」 と話していた。

子供は、大人の話をよく聞いている。今でも、大人達の話していて事を、よく覚えている。角栄さんに頼んで、早く橋をかけてもらわなければ、と。そして、立派な橋がかかった。

今では、鵜川は、広く深くなり、カーブも補正され、氾濫しなくなった。その代わり、もう、子供達が遊べる川ではなくなった。

そして、ビックリする事には、昔、いつも氾濫していた所が、住宅地になって家が立ち並んでいる。

私が育った田舎は、子供の頃とは、随分、様変わりしている。それでも、あちこちに子供の頃の思い出は残っているが、帰るたびに、私の故郷が遠くなっていた。

父が亡くなり、母は住んでいないし、毎年、一緒に帰っていた姉も亡くなってしまって、私の故郷への喪失感はつのっていた。私は、「ふるさと」 の歌が歌えない。涙が込み上げて来るから。

地震と津波に流された、東北の人達は、根こそぎ故郷の風景が無くなってしまった。

「ふるさと」 の歌が歌えるのだろうか。私も悲しい。






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