私の故郷の柏崎にも、原発がある。
新潟地震の時、不都合が起こり世間を騒がせた。
でも、今回の福島原発は、非常に大変な事になっている。
そして、両方とも東京の為の電気の供給元である。
昔、今よりも沢山の雪が降る豪雪地帯は、冬は陸の孤島のような状態だった。
毎日毎日、サラサラと降り続く白い世界に、人々は囲炉裏を囲み、来る春の農作業の為の藁仕事に精を出していた。
雪に降り込められたそんな時、私達子供は何をして遊んでいたのだろう。記憶にない。ただ、毎日、父ちゃんや母ちゃん達が家にいるのが嬉しかった。
情報源がラジオしか無く噂話しか無かった頃、子供達には、村が世界だった。裏日本、表日本なんて言葉も知らない頃、その表日本では、冬が毎日青空と太陽が満ちた日々が続いているなんて知らなかった。
大きくなり、学校を卒業して表日本に住む姉の所に同居してOL(昔はBGといった)になり、初めての冬を迎えた時に、こんな世界があるのかと震える程感動した。
日本は、全てが表日本を中心に回っていた。田中角栄さんが、“日本列島改造論”を打ち上げ、表日本と裏日本の経済格差をなくそうという事に、全面的に賛成した。あの頃、裏日本にもっと光を、と私も思った。東京の発展には、その裏日本や東北出身者のまじめな人力が大きいな貢献をしたと思っている。
そして、大発展した東京は、膨大な電力を必要とするようになり、それを、原子力発電所に求めた。
時の政府はそれを、又も、裏日本や東北に求めた。
柏崎に原発が作られる事を知り、里帰りしていた私は、父や母に反対した。表日本に住む私は、リスクを遠い地方に押し付け、その果実だけを貪る表日本に憤りを覚えていたから。
でも、故郷の人達は、莫大なお金が落ちて来る事に、町が素晴らしい発展をすると言われている事に、貧しさから抜け出せるだろうという事に、絶大な希望を持っていた。
「東京に住んでいる者には分からない。ここに住んでいない者は口を出すな。反対を言う者はアカだ」 と言われた。彼らは、もしも、何かあった時のリスクなんて、考えてもいなかったし、政府の言う事を絶対的に信じていた。田舎の人達は、昔から非常に保守的だった。
日本中から、集まった“原発反対”の沢山のデモ隊達も、工事が着工されてからは、潮が引くようにいなくなった。
そして、町にもたらされた莫大なお金は、立派な市役所やホール、港を大型船が入るように工事し、何とか村や何とか博物館が沢山作られ、市を縦横に立派な道路が作られ、郊外に大きなショッピングセンターが作られた。建設会社を母体とする市長は、そのお金を箱物に変え、立派な総合病院を、交通の便利な駅の近くから車でしか行けれない所に移した。
そして、駅通りも一番賑やかだった本町通も、人通りの無いシャッター通りになった。市長は、そこを再開発し、りっぱな商店街を作ったが、駐車場の不便な所には人は来なかった。
原発が来る事により、素晴らしい未来が広がっていたはずなのに、いつの間にか、人々が勤めていた工場が撤退し、閉鎖して行った。私の子供の頃よりも、人々の家は立派になり、家の中もモノ達が溢れ、車は家族の人数分が庭に留められている。そして、人々は、不況だ仕事が無いと嘆く。
そして、あの地震災害と原発事故。原発が作られてから何十年、東電から市に目の眩むようなお金がもたらされたが、復興の資金が無かった。
同じように東電から莫大なお金がもたらされた刈羽村は、村長さんの意志で無用な箱物は作られなかった。豊かな村は、平成の大合併にも孤高を守った。震災からの復興にも資金は豊かにあった。
今回の震災を見ても、どんなに立派な建造物を作ったとしても自然の猛威の前には、そんな物は砂上の楼閣だった。
本当の幸せとは何だろう。家があって家族がいて毎日食べる事に困らない、そんな些細な事なのだろう。
でも、本当に些細な幸せが、ほんの数分の地球の身震いで木端微塵になってしまった。そして、追い打ちをかけるような原発の放射能。
神を信じていない私でも、神は何処まで人々を追い詰めるのだろう、何処まで人々に試練を与えるのだろう、と諸々の神達を恨む。
そして、これ以上、苛めないで下さい、早く平穏な日々をもたらして下さいと、諸々の神に祈る。
新潟地震の時、不都合が起こり世間を騒がせた。
でも、今回の福島原発は、非常に大変な事になっている。
そして、両方とも東京の為の電気の供給元である。
昔、今よりも沢山の雪が降る豪雪地帯は、冬は陸の孤島のような状態だった。
毎日毎日、サラサラと降り続く白い世界に、人々は囲炉裏を囲み、来る春の農作業の為の藁仕事に精を出していた。
雪に降り込められたそんな時、私達子供は何をして遊んでいたのだろう。記憶にない。ただ、毎日、父ちゃんや母ちゃん達が家にいるのが嬉しかった。
情報源がラジオしか無く噂話しか無かった頃、子供達には、村が世界だった。裏日本、表日本なんて言葉も知らない頃、その表日本では、冬が毎日青空と太陽が満ちた日々が続いているなんて知らなかった。
大きくなり、学校を卒業して表日本に住む姉の所に同居してOL(昔はBGといった)になり、初めての冬を迎えた時に、こんな世界があるのかと震える程感動した。
日本は、全てが表日本を中心に回っていた。田中角栄さんが、“日本列島改造論”を打ち上げ、表日本と裏日本の経済格差をなくそうという事に、全面的に賛成した。あの頃、裏日本にもっと光を、と私も思った。東京の発展には、その裏日本や東北出身者のまじめな人力が大きいな貢献をしたと思っている。
そして、大発展した東京は、膨大な電力を必要とするようになり、それを、原子力発電所に求めた。
時の政府はそれを、又も、裏日本や東北に求めた。
柏崎に原発が作られる事を知り、里帰りしていた私は、父や母に反対した。表日本に住む私は、リスクを遠い地方に押し付け、その果実だけを貪る表日本に憤りを覚えていたから。
でも、故郷の人達は、莫大なお金が落ちて来る事に、町が素晴らしい発展をすると言われている事に、貧しさから抜け出せるだろうという事に、絶大な希望を持っていた。
「東京に住んでいる者には分からない。ここに住んでいない者は口を出すな。反対を言う者はアカだ」 と言われた。彼らは、もしも、何かあった時のリスクなんて、考えてもいなかったし、政府の言う事を絶対的に信じていた。田舎の人達は、昔から非常に保守的だった。
日本中から、集まった“原発反対”の沢山のデモ隊達も、工事が着工されてからは、潮が引くようにいなくなった。
そして、町にもたらされた莫大なお金は、立派な市役所やホール、港を大型船が入るように工事し、何とか村や何とか博物館が沢山作られ、市を縦横に立派な道路が作られ、郊外に大きなショッピングセンターが作られた。建設会社を母体とする市長は、そのお金を箱物に変え、立派な総合病院を、交通の便利な駅の近くから車でしか行けれない所に移した。
そして、駅通りも一番賑やかだった本町通も、人通りの無いシャッター通りになった。市長は、そこを再開発し、りっぱな商店街を作ったが、駐車場の不便な所には人は来なかった。
原発が来る事により、素晴らしい未来が広がっていたはずなのに、いつの間にか、人々が勤めていた工場が撤退し、閉鎖して行った。私の子供の頃よりも、人々の家は立派になり、家の中もモノ達が溢れ、車は家族の人数分が庭に留められている。そして、人々は、不況だ仕事が無いと嘆く。
そして、あの地震災害と原発事故。原発が作られてから何十年、東電から市に目の眩むようなお金がもたらされたが、復興の資金が無かった。
同じように東電から莫大なお金がもたらされた刈羽村は、村長さんの意志で無用な箱物は作られなかった。豊かな村は、平成の大合併にも孤高を守った。震災からの復興にも資金は豊かにあった。
今回の震災を見ても、どんなに立派な建造物を作ったとしても自然の猛威の前には、そんな物は砂上の楼閣だった。
本当の幸せとは何だろう。家があって家族がいて毎日食べる事に困らない、そんな些細な事なのだろう。
でも、本当に些細な幸せが、ほんの数分の地球の身震いで木端微塵になってしまった。そして、追い打ちをかけるような原発の放射能。
神を信じていない私でも、神は何処まで人々を追い詰めるのだろう、何処まで人々に試練を与えるのだろう、と諸々の神達を恨む。
そして、これ以上、苛めないで下さい、早く平穏な日々をもたらして下さいと、諸々の神に祈る。