都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

内堀通りから大手町方面

2007-03-05 | 千代田区 

東京新旧写真比較(1981/2007) No.3

丸の内界隈だけでなく、大手町界隈でも次々にビルが建て替えられて、街の高層化は進んだ。

Photo 1981(ノーマル時)、Photo 2007.1.27(マウスオン

 ビル群の内、皇居に近いあたりの建物はあまり変わっていないが、その後方に100〜150mクラスのビルが群を成して建ち並ぶ。西新宿ほどではないが、超高層ビルが建ち並ぶ風景が、いつのまにかできている。単独で高くそびえ、目立っていた東京海上ビルは、いつのまにかビル群の中に呑み込まれ、昔のことを知らない若い人なら気にも留めない存在になりつつある。また、81年には東京海上の右側(写真右端)に、日本橋の現みずほ信託銀行が見えているが、今回の写真には山手線の東側の建物は写っていない。

 この他、建物以外では、以前は松林しか見えていなかったが、26年の間に丸の内寄りのケヤキの木々が相当大きくなって、松林の背後に見えるようになっている。

 写真中の建物で、現存し且つ見えているものは以下。

 右方、紅いのが東京海上日動ビル、中央で埋没気味ながら赤い菱形マークがわずかに分かるのが新住友ビル、その左がAIU保険があるAIGビル、その奥はJFEビル。手前左で横長なのがパレスサイドホテル、その左後ろがりそな・マルハビル、後方奥の黒っぽいのが、三菱東京UFJ、更に松の木で半分隠れてるのが三井物産ビル。そして松の左側の塔は東京消防庁丸の内署のもの。

 しかしこれら全ては遠景で、近景、中景には既存の建物がない。だから前後の重なり具合の違いを使って撮影ポイントを探すのは苦労しそうだった。街灯も全部替わってしまっている。そんなわけで、広く一直線の歩道上で、撮影ポイントを探すのは難航するかと思われたが、意外なターゲットマークの存在により、この写真の撮影ポイントは予想より簡単に見つかってしまった。

 近景では左方に見える松の木が目立つ。このような形の松が歩道近くに生えている場所がないか探してみたら、予想外に簡単に見つかった。なんと、大きさも姿形もほとんど変わっていなかった!

 中景の松と、遠景の消防庁の塔や大手町のビルの、画面内での位置関係は、撮影者が数歩移動するだけで大きく変化する。樹木などは四半世紀の間に成長して、大きく変化するだろうから、位置の特定には使えないだろうと思っていたが、そんなことはなかった。街路樹などは植え替えられることもあるが、皇居前広場の松は、街灯などの路上工作物なんかより遙かに長く同位置に留まり、同じ形を保っていた。

 皇居外苑は、白砂青松の風景として、丁寧に手入れがされている。これはある意味日本を代表する景観である。松の木も姿形良く剪定され、風景が維持されている。針葉樹の松は、あまり早く成長しないというのもあるのかもしれないが、四半世紀を経て、枝振りがほとんど変わっていなかったのには驚いた。現場を発見したとき、うわーっおんなじだ!と、思わず声をあげてしまったほど。

 ところで、伊勢神宮の建物は、式年遷宮によって常に新しく維持されることで、結果的に古代の建築様式を現在に伝えていると云われる。定期的に同じ形の建物に建て替えることで、技法や理念を絶やすことなく伝承することにもなっているそうだ。

 皇居前の風景が、定期的な剪定により、丹念に維持管理され守られているのを見たとき、景観を維持するには、改修をせずにそのまま放置するのではなく、絶え間なく手入れをする必要があるのかもしれないなと感じた。

#東京新旧写真比較 千代田区  #街並み 千代田区  #眺望  #高層ビル
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行幸通り-2

2007-03-04 | 千代田区 

東京新旧写真比較(1981/2007) No.2

郵船ビルのそばから東京駅方面。

Photo 1981(ノーマル時)、Photo 2007.1.27(マウスオン

 右端が郵船ビル。正面はもちろん東京駅。左側が新丸ビル。右奥の丸ビルは、1981年時には足場が組まれている。外壁の補修をしていたのかもしれない。 2007年1月の写真では、既に丸ビルは建て替え済み。左側の新丸の内ビルディング(38F・最高部197.6m、4月完成予定)が完成間近で、正面奥の八重洲のグラントウキョウ ノースタワー(Gran Tokyo North Tower、43F・最高部204.9m、10月完成予定)も次第に全貌を現しつつある。また、新丸の内ビルディングとの間には、日本橋コレドが小さく見えている。この位置からの景色も21世紀になったら急変した。

 更に、あと数年すると、東京駅は戦前期の3階建てに復元され、奥に見える大丸(八重洲側駅ビル)は取り壊される。「秋葉OL」さんの記事で最近知ったのだが、東京駅前の広場と行幸通りの整備も行われるらしい。現在は地下で工事が行われていて、その影響で路上もガサガサしている。ここからの行幸通りの景色は今後まだまだ変わるのだろう。数年後に全てが一段落したらもう一度撮ってみたい。

 この写真の撮影場所の特定は比較的容易だった。変化していない建物が複数あれば、割合簡単に場所を特定することができる。今回のチェックポイントは以下の三点。

1.東京駅の屋根と後方の大丸(鉄道会館)の建物の重なり具合
2.右手前の地下駐車場入口上屋と郵船ビルの位置関係
3.郵船ビルの2Fまでの低層部と、3F以上の中層部の重なり具合

 三者をもとにポジション取りをすると、完全同一ポジションを発見することができる。慣れれば、2、3分の作業だ。この他、事前に、昔の写真の水平の傾き具合、画像の中心位置を確認しておくと、現場での作業を早く済ませることができる。また、撮影者のアイレベル(カメラの地面からの高さ)を、画像から推測しておくとなお良い(奥行き方向の水平線がどの程度の高さにあるかによって、背の高い人が撮ったか、三脚などを用いて低い位置から撮ったかなどが判る。)。

 撮影ポイントが地上の三次元空間の中で同じになれば、対象の見え方も全く同じになるので、レンズの焦点距離は画角の差でしかなくなる。従って、心持ち広角よりで広い範囲を撮影しておけば、あとから適当にトリミングして、完全に重なる写真を作成することが可能になる。また、何枚でも取り直しができて、その場で確認もできるデジタルカメラは、こういう場合、強力なツールだ。

 26年の時間を経て、同一ポイントを探し出し、カメラを構えるのは、地味だが、やっている本人的には非常に面白い作業である。

 さて、路上の街灯とか、信号、道路標識の類は、あまり長持ちしないものなのだろうか。この写真の中で、地下駐車場の入口上屋と、その後ろの舗道上の街灯だけは、26年前と変わらないのだが、その他の道路照明等はみな換えられてしまっている。

 今回、二、三カ所を撮影した時点で、撮影ポイント特定の際に、これらの路上工作物がほとんど当てにならないことが分かった。建物が建て替えられても、道路標識や街灯で判るだろうと思っていると、路上の様子が相当変わってしまっているので、慌てることになる。

 信号機や、照明は、以前はほとんど全国同じデザインだったが、近年は場所ごとにいろいろなものが付けられている。行幸通り周辺の照明柱は暗褐色ないしは黒で、落ち着いたシックなものに替えられている。

 そういえば信号って、私が小さい頃は、皆、ランプの周りに緑と白の縞々の板が付いていた。いつのまにか、モダンな感じのデザインに変わっていたのだな。

 上に挙げた三項目の内、次回は、少なくとも1が全く使えない。また、郵船ビルが建て替えられてしまったりすると、2と3のアンカーポイントも使えなくなる。視覚的記憶をどんどん上書き更新して、抹消してしまうのは、ホントどうかと思う。

 ヨーロッパの街並みを引き合いにして比較してはいけないのかもしれないが、彼の地の都市景観は20年程度では大きくは変わらない。アジェが撮影した20世紀初頭のパリは、今でも同じところが多いという。

 ところが東京では、100年前と同じ景観を探すのが極めて難しい。永遠に建設が続く街、というのは、発展し続ける街というよりは、建てたり壊したりが安易で、文化が根付かない街という皮肉を込めた言い方なのかもしれない。

 私の記憶も、みんなの記憶も、もしかすると明日、解体されて消えてしまうかもしれないと思うと切ないな。

 せめて自分のお墓だけは残してねみたいに、妙な方向で執着してしまったりして・・・。

#東京新旧写真比較 千代田区  #街並み 千代田区  #眺望  #高層ビル
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行幸通り-1

2007-03-03 | 千代田区 

東京新旧写真比較(1981/2007) No.1

丸の内、行幸通りと内堀通りの交差点から東京駅方面

Photo 1981(ノーマル時)、Photo 2007.1.27(マウスオン

 四半世紀あまりを経て、変化していないのは、左手の東京海上日動ビルと、右手の郵船ビル、そして正面の東京駅と、その後方、八重洲側の大丸。それから行幸通りの並木。驚くべきことに他は全部変わってしまった。

 2007年の写真で、左方手前は東京海上日動ビル新館、左端後方は日本工業倶楽部会館・三菱UFJ信託銀行本店ビル、左方奥は日本生命丸の内ビル、東京海上日動ビルの後方の高い建物が、完成間近の新丸の内ビルディング、更に後方、クレーンが載っているのは八重洲北口に建設中のグラントウキョウ ノースタワー(下層階に大丸が移転入居予定)。右端は昨年完成の三菱商事ビル。郵船ビルの後ろにそびえるのが御存知丸の内ビルディング。

 手前の二つのビルの背後に、より大きなビルがたくさん建って、皇居前の方から見ると丸の内のビル群は、いつのまにか壁のようになった。そして行幸通りは、丸の内の真ん中にある溝みたいな感じになってきた。

 赤いタイルで覆われた東京海上日動ビルは、建設当時、丸の内美観論争の対象となった建物(当時は東京海上ビル)。軒高が100尺で揃っていた時に、それを破る建物は美観地区としてどうなのか、皇居前という日本の顔でもある場所における美しい景観とは?、という議論があった。さらには皇居をのぞき込むような高層建物は不敬であるという意見なども。しかし現状は、それらもろもろの論争が遙か過去のものとなったかのような状況になっている。丸の内マンハッタン構想の際には、そのようなことはほとんど語られなくなり、丸の内には本当にミニ・マンハッタンが出現した。

 建築物は数十年は建ち続ける。美観とか景観の議論は、その場その場で終わらせるのでなく、もっと長いスパンで話されるべきなのではないか。そして、結果に対する検証や議論がもっとされるべきだと思う。

 1981年時、レンズは東京駅の少し上空に向けられている。ところが、今回、同じ方向にカメラを向けたら、完成間近の新丸の内ビルディングの頂部が画角からはみだしてしまった。今、普通にここで街並みや建物を撮ろうとする人は、カメラをもっと上に向けて撮るだろう。

 昨年、某大学のまちあるきで丸の内をまわったところ、学生の多くが「上の方をキョロキョロ見てたんで首が痛くなっちゃいました」と言った。新宿西口界隈ではなく、丸の内もそういう街になったのかと感慨深かったのだが、今回の写真では、図らずも視線の変化が意識されることになった。今や丸の内は超高層ビル街なのだ・・・。12階建て程度のオフィスが建ち並ぶ街というイメージは、新しい丸ビルが完成した頃を境に、急速に無くなったのではないかと思う。皇居周辺は広々としていて、都心では数少ない空の広い場所だったが、丸の内のビル街に限っては、確実に空は狭くなっているのだなと、再認識した。

 さて、1981年の写真は、2007年のものより撮影ポイントが2mほど右側だった。だから、樹木とビルの位置関係がちょっと違っている。今回の撮影時、それには気付いていたのだが、カップルがイチャイチャしながら、やたら長時間そのポイントで撮り合いっこをしていたので、苛ついた挙げ句、諦めて少し左側で撮ってしまった。現場は広い場所なので、少しぐらい場所が違っても似たような写真になる。だから、どうしてもそこで撮りたいと言っても全く理解して貰えそうになかった。今回のような場合でなくても、トラックが目の前に駐車していて撮れないこともある。ガマンガマンだ。

 ところで、2枚の画像を見比べたとき、2007年の方で、東京海上ビルや郵船ビルがやや小さく写っているように見えるかもしれない。しかしこれは目の錯覚。より大きな建物が周囲に建ったため、相対的に小さく見えてしまっているのだ。嘘だと思ったら、印刷して計ってみたり、Photoshopなどで画像を重ねてみて下さい。

2009.3.12 追記
 マウスを画像に重ねると2007年の写真が現れるように変更しました。従って、印刷したりPhotoshopを使わなくても、状況を比べられるようになりました。また、最初から幅720pxで表示するようにしましたので、マウスを重ねて大きな画像で御覧下さいませ。

#東京新旧写真比較 千代田区  #街並み 千代田区  #眺望  #高層ビル
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Back To Tokyo 1981

2007-03-02 | Weblog 

 研究室に「Tokyo 1981」というスライドのケースがあったので、中を見てみると、丸の内など、千代田区内を撮影したスライドが数十枚入っていた。気になったのでスキャンしてデータ化してみた。1981年というと、26年前。私はまだ静岡在住で中学生だった。ちなみに私が大学に入学して上京したのは1987年。 スライドには今とはかなり異なる街並み風景が写されていた。でも中には現在も残っている建物が。同じ場所に立ったらかなり違う風景が展開してるんだろうな。そうだ、新旧比較写真を撮ってみよう。

 1992年秋、私は研究室の調査旅行で、ロシアのウラジオストクへ行き、そこで街並みの新旧比較写真の撮影を担当していた。研究室に、20世紀初頭のウラジオの建物や街並みを撮影した古写真帖があり、それと現在の様子を比較する写真を撮ってみようという試み。古い写真や絵葉書に付けられたキャプションをもとに現場を訪ね、その写真が撮られたであろうポイントを特定し、カメラを構える。ウラジオの街並みや建物は、約80年前とあまり変わっていなかったので、完全に同一ポイントから撮影できたケースもあった。80年前に誰かが写真を撮ったのと同じ場所に立って、再び写真を撮れたことに興奮した記憶がある。

 どうせやるなら今回も、完全同一ポジションでの撮影を試みることにした。

 1981年に撮影した人物は不明。恐らく研究室に所属していた学生あたりなのだろうが、正確な撮影場所、撮影日、そして撮影目的も不明。場所の記載がないので、どこの写真なのか全く判らないものも多かったが、東京駅などの有名な建物が写されたものもあり、数十枚の内、20枚程度については、場所を特定することができそうだった。

 35mm版スライドフィルムの縦横比は、横:縦=3:2、これに対して、一般のコンパクトデジカメのそれは4:3で、フィルムの方が横長の画角。そこで新規撮影に際しては、PC上でデジカメ画像の上下をトリミングして3:2にした。横方向にも撮影時に若干のズレが生じたりするので、左右もトリミングしている。また、レンズが違うので、画面の周辺部などの歪み方はどうしても異なる。

 ちなみに、今回の撮影を通じて、1981年の写真は、どうやら35mmと50mmの単焦点レンズで撮られたことが分かった。80年代頃までは、ズームレンズは便利だが、高価で暗いと言われていたので、この二種類の標準レンズで撮られたのは自然なことだ。

 撮影ポイントの特定は、古写真内の建物の見え方、複数の建物の重なり具合などから判別。近景と中景、遠景の重なり具合を詳しく読み取れば、場合によっては、半径1m以下の精度で撮影ポイントが特定できる。ただし、手掛かりになる建物等がほとんど建て替えられるなどしている場合は、近似ポイントから撮影せざるを得ないケースも存在した。個々の探索の顛末はその都度、記していくことにする。

 というわけで、今後順次、東京新旧比較(1981-2007)を掲載します。スライドショーができるソフトをお持ちの方は、画像をダウンロードして、2枚を切り替えながらご覧下さい。「Wow!」(欧米か!)ということ請け合い。

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上高田マーケット

2007-03-01 | 中野区  

 自宅から近いのに、あまり知らない場所が意外にあったりする。

上高田マーケット
所在地:中野区上高田3-5
構造・階数:木造・2F
建設年代:1958〜60(昭和33〜35)
解体年代:2013〜14(平成25〜26)
Photo 2006.11.25

 上高田マーケットも自宅から10分以内の場所にあるのに、今まで全然知らなかった。

 1階はいくつかのお店が入居している昔ながら市場系スペース。写真の左手、建物後方には、木造平屋でプレハブっぽいマーケット建物が伸びている。

 でもゲート状になっている建物の形がちょっと奇妙で、マーケット建物風の感じがなぜかあまりしない。2階部分中央に半円形に突き出した部分が唐突にあり、そこには「上高田マーケット」の文字の剥落跡がある。また窓の前面には細くてあまり冴えない木製の桟が付けられている。1階前面部分が開放的で車庫のようなつくりで、かつ装飾が全く無いので、ちょっとだけモダン気味にした2階とのバランスが変で、不思議なことになっている。

 1階側面の柱は細かいタイル貼り。単なるマーケット建物にしては、少々モダン過ぎて却って怪しい。しかも上述の2階部分の造作がやや大袈裟。戦前のいわゆるカフェーやダンスホールなどの造作にもほんのちょっと似ている。ひょっとして本物?かとも思うが、立地的に見ると、やはりそんなことは無さそう。剥落した文字などからすると、当初からマーケットだったのだろうが、それにしても、少々不思議なスタイルの建物だ。

 とりあえずマーケット自体はちゃんと営業しているので良いのだが、上高田の商店街自体は、昔からの道沿いにできた古くからある商店街で、ここもある意味、取り残され系。店員も客層も全体に高齢者中心のようなので、このマーケットの存続もやや危ぶまれてしまう。


2016.8.30 追記
 2015年秋に通り掛かったところ、既になくなっていた。Google S.V.で確認したところ、2013年夏までは建物が存続していたようだが、その後、2014.7までの間に解体されたようだ。その後、2015年時点ではコインパーキング。

2023.1.8追記
 1958(昭和33)年発行の「東京都全住宅案内図帳」では当該地は空白で、この頃にはマーケットはまだ建てられていなかったようだ。しかし、1961(昭和36)年発行の「東京都全住宅案内図帳」では「上高田食品ストアー」とあり、1960年頃に建てられたようだ。また1970年代の住宅地図では「上高田食品センター」と記されている。最終盤は魚屋さんのみになっていたようで、2006年版の住宅地図では「魚 丸権」と記されている。

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 中野区  #看板建築  #モルタル看板建築  #マーケット 
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